重層的非決定?

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2010年01月01日

■ ひとりごと

個性云々をいう人に限って一元的な価値判断で物事を裁断し、ひとつの能力を万人が持つことを要求するというのは何かのギャグなのだろうか(単にアタマガワルイ?)。

世の中にはゼネラリストとスペシャリストと言うのがいて、それこそ個性というものなのに。

私はお笑い対応型(空気を読める)ゼネラリストには(その部分自体には)全く魅力を感じないな。


というか自分の推しメンは「一般人」からいかに嫌われようと必死で擁護し(それ自体は構わない)、嫌いなメンバーはとにかく事あるごとに瑕疵を見つけて貶めることしかしてこなかった(それでも自分は公正であるかのごとく振舞っている!)人の言う事に反応する私のアタマガワルイのか。

2009年10月21日

■ ぬるま湯が好き

兵庫県加西市の第三セクター「北条鉄道」(社長・中川暢三加西市長)の経理担当取締役(70)が、立場を利用して会社に無断で自分の時給840円を1040円に引き上げ、今年8月までの2年半で差額計約150万円を着服したとして、9月末に諭旨退職させられていたことが分かった。既に全額が返納されており、北条鉄道は刑事告訴を見送る。

加西市によると、元取締役はJR西日本を退職後、北条鉄道社員として、数年間勤務。定年後の06年2月にアルバイトとして再雇用され、7ヶ月後に役員に抜てきされた。ところが、他の役員のような月給制に移行せず、時給も据え置かれたため、07年3月、社長らに無断で時給を引き上げたという。

他の常勤取締役の給与は月23万円前後だが、時給800円では14万円。市も「せめて草刈りアルバイト並みの時給1040円はもらってよいと思ったのだろう。役員になった時点で給与制にしてあげるべきだった」と"反省"している。

毎日新聞10月21日付朝刊より

たかが時給200円といえども税金もつぎ込まれている会社から金を着服するなんて、とか、そもそも定年を二回も迎えている人を雇用し続けるから若い人の雇用が、とか、まあいろいろぎすぎすしたことも言えるだろうが、社長(市長)が「『役員になった時点で給与制にしてあげるべきだった』と"反省"している」という「温さ」に何となくほっとする。

2008年12月08日

■ ここが問題

「ヒトラーおじさん」偉人 アイドル不適切発言でテレ東謝罪って。何かアイドルが不適切な発言をしたのが問題の原因で、その責任をテレビ局が取らされた、みたいな言い方じゃないか。これはひどいと思う。サイゾーに始まり、mixiでもずっとこの手の物言いが横行していた。それを大手メディアまでもが追認する。

違うでしょ。不適切な内容の企画をアイドルにやらせたのが問題でしょうに。アイドルはその限りでは被害者だよ。と、そんなことをここで吠えても仕方がないのだけれど。「ファン」としてはこういうすり替えにこそ断固抵抗しなければいけないのだと思う。

主戦場を間違えてはいけない。

■ 所詮アイドルなんて

「ファシズム」というものが人類近代史上にもたらした衝撃の大きさ、表現・芸術の分野にも与えた影響力を鑑みれば、表現者として一定の関心を持ち、そこから何らかの思いを持つことに意味があるのは論を待たない。

今回の件をアイドルに常識はいらない、などともっともらしいことを言ってアイドルを「擁護」している人は、アイドルとは所詮表現者として持つべき教養(常識ではない)も必要としない「お人形さん」でよい、と思っている、ということなのだろう。

表現者としての成長を求めるのであれば、その都度「教養」に触れ、身につけることが求められるのは当然だし、今それが不足していることをもって非難する必要はないが、それでも一行かまわないという価値観を持つのは私は逆に侮蔑的な態度だとさえ思う。

表現者は常識に縛られる必要はない、時にそれを超えた存在であることが求められる。しかし常識を越えるのにこそ「教養」が求められる。

いまのハロプロの活動にそういうものは事実として求められていない。必要なときにその都度出会えばそれで間に合う。それはそうだと思う。だから私も今回の件でメンバーを非難しようとは思わない。しかし、また「ヒトラーおじさん」と言ってへらへらしていたり、また「ヒトラー」という存在を初めて知ったかのごとき反応をしたりした映像が流れた、それをそのまま肯定する気にはなれない。それはみっともないことなのだ、ということはメンバーには今回学んでほしい。今の状態でいいことはないのだ。それが将来表現者として歩んでいくことを願う「ファン」としての反応だと私は思う。

「所詮アイドルなんて」言説をファンが反復してどうするのか。


ちなみに私はベリキューのn年後に対して何ら積極的な思いはないので、今回の件もそれ自体としてはどうでもいい。あまりに「無能」と言うしかない番組制作スタッフと、サイゾーとかいうゴシップサイトの記事をそのまま垂れ流したmixiと、今回の件を利用して薄っぺらな歴史相対主義という名の歴史修正主義を喧伝しようとする一部勢力への怒り以外には。あるいは喧伝しようという意識はなくとも、相対主義でこの問題まで相対化してしまえると考える安直な言説生産者に対しても(老婆心ながら突っ込んでおくと、ヒトラー・ナチスに対する歴史的評価は「視点の取り方」ごときでころころ変えられるような脆弱なものではない。「ヒトラーを偉いと記述できる」その可能性とやらをちょっとは本気で考えてからものを言ってはどうか)。

ただモーニング娘。現メンバーにはおのおの先への思いがあるので、今回のような反応を彼女たちがしたら、それでよしとは言わない。特に娘。卒業後、ミュージカルをはじめとした積極的な価値表現の場で活躍したいという思いを表明している高橋愛については。

■ アイドルと歴史修正主義

ヒトラーは批判されるべき人物であるという「常識」を覆そうとするのも、やりたければやればいいと思うよ。「言論の自由」って奴がありますからね。

でもね、それには近代史研究で積み重ねられてきた歴史資料の見直しやら、歴史的評価とは何かを巡る歴史哲学やら、そもそも正義とは何かを巡る倫理学やら、そういう様々な事柄を一手に引き受けて、その発言の責任を負う覚悟があるものがやるべきことだ。やればいいと思う。少なくとも私は止めない。

ただ、いかにそうした覚悟なり、それを行うだけの蓄積が自身の中にあるといっても、それをアイドル擁護に絡めると、少なくとも他者はその覚悟を読み取ってはくれない。だって、そんな大胆な見直しはアイドル擁護の一環として行うようなものじゃないはずだから。アイドル擁護と絡めた時点で、単なるアイドル好きの厚顔無恥な奴がだだをこねている、と見えてしまう。だからそういうことをやりたい人はいったんアイドル擁護の文脈からは切り離してから持論を展開するのがいいと思う。

主目的がアイドル擁護にあるのなら、そんな中途半端な動きはしない方がいい。アイドルも、そのファンも馬鹿だ、と一緒くたにまとめられ、蔑まれてしまいかねない。そこで抵抗することは本来の目的を見失ってしまっていることになる。

あまりにも「痛い」ファンが目についたもので、一応いっておく。まあ件のグループのファンは若い人が多いのかな、とは思ったけれど。ものすごく幼稚にだだをこねている、という印象の言説が目についた。繰り返すけれど、何を言ってもかまわないけれど、それには本来覚悟がいる話で、それをせずにすんでいるとすれば、「痛い」アイドルファンの戯れ言と片付けられているからだ。

2008年12月07日

■ よろセン!の件

mixiでこの件が騒がれていたので、それに関する「日記」を閲覧し、「あしあと」を残したため、こちらもそれに対する意見は書いておくのがマナーだと思い、初めてmixi上に日記を書いた。それをこちらにも転載しておく。


アイドルが仕切る「情報番組」でヒトラーをおもしろ半分に取り上げたとかで騒がれている件について。

おもしろ半分というよりも要するに全くヒトラーという存在を知らなかったという。うーん、「馬鹿」をおもしろがるという風潮自体があまり好きじゃないのだけれども、ちょっとしゃれにならないレベルかも、とは思った。中学生といっても、ね。

でもここではスルーしようと思っていた。しかしmixiでずいぶんと騒がれてしまっているようなので、mixiというのは少なからず非ハロプロファン層での影響を与えそうな気がするので、ちょっと触れておく。

サイゾーとかいうゴシップ雑誌?のウェブサイトの取り上げ方とかがそもそも気にくわなくて、そんなサイトのコンテンツを「ニュース」としてそのまま垂れ流すmixiもどうよ?と思うのだけれど。もともとmixiはあまり好きじゃないのだけれど、これはあまりだと思う。

おかげさまでmixiでは大いに騒がれているようだ。ネットでのブログよりもずっとね。本当にありがとうございました。

元の件については、ふつうにこの番組を見ているものからすればわかることだけれども、取り上げる内容に出演メンバーの意志とかそんなものは全くない。でもそうは伝わらない。あたかも出演者自身の積極的な落ち度であるかのごとく喧伝される。

もちろん出演メンバーにも問題はないとは言わない。これがモーニング娘。メンバーの回だったら、私は相当落胆したと思う。年少メンバーとかはある程度は仕方がない、ですますけれど、たとえば高橋愛あたりがあのような反応をしたら、正直幻滅すると思う。

そしてそんなこんなの様々な不要なリスクをそもそも背負わせる必要など全くなかった。それを背負わせてしまった番組制作サイドに対してははっきりNoを突きつけておく。

2008年11月20日

■ このド素人めが!

私が2chなる掲示板を観察し続けるのは、人間の中にある負の感情などなどがどのような力学でもって、どのような言説を編成するのか、そのメカニズムなどを自分なりに見たい、という意図がある。プチファシズム研究みたいなもの。2chとその類似言説の徹底批判。そこから「2ch化する社会」への批判。

2chには明確な意図を持った集団が言説編成に関わっているともいわれている。それとそうした集団の作り出す言説に翻弄されてさらに作り出される言説群、そうしたメカニズムを見ることは今の「言説」研究としてはもっともリアルな題材に思える。

といってももっと突き放して、純然たる観察者の立場に立てる部分だけを見るのにとどめないと、自分自身がその中に入ってしまいかねない場所での観察は危険だった。観察対象には触れない、というのも含めて私は2chには書き込まない、と決めているのだけれど、なんだかんだ当事者の立場に立ってしまっている。そして今回のような言説観察者を気取る身にはあってはならないミスを犯しもする。言説に翻弄されているのはまずもってお前じゃないか、ということです。己の不明をまずは深く恥じ入ります。

まだまだ考えるべきことは残っています。この項、多分続きます。

2008年08月14日

■ 君はユートピアを見ようともしないのか

「ヲタ」「一般人」葛藤話の続き。

この話のポイントはこの問題においては「一般人」側は何も考えることはなく、何も妥協する必要がないということだ。単に「あいつらうるさい」「邪魔だ」「何とかしろ」とだけ言えばよい。それで「ヲタ」集団に一定のダメージを与えることが出来る。「ヲタ」がそれに抵抗したところで、結局応援対象アイドルの活動を狭め、自分たちの首を絞めるだけのことだ。これは構造的にそうなのであって、「ヲタ」集団は負け戦を戦うしかない、というのはそういうことだ。「ヲタ」と「一般人」と双方が妥協点を探っているのではない。「ヲタ」の妥協を「一般人」は要求し、それがかなえられなければ(アイドルごと)排除するだけのこと。「ヲタ」側が妥協・変化をすることを拒否したら、それでゲームセットであって、結果はベリキュー可哀想、となるだけであって、それでも変化はあり得ないとする人はもはや「ファン」とはいえない、はずなのだけれども、そうは思わないのが「アイドルファン」なのか。

もう少し前向きな話を。

まずは理想状態、ユートピアを想像してみよう。そしてそのユートピアに向かう力学を現実から析出すること。その力を現実の場において編成すること。

二つの集団に葛藤がある場合、両者に共通の利益をもたらす方向性が提示できれば、それが一番理想的なのだ。それは机上の空論でしかあり得ないことだろうか。私たちはユートピアを見たことは今までになかっただろうか。

「音楽」である。しかもポピュラー音楽である。堅苦しいことは何もない。本来から言えば単に音を皆で楽しめればよいのだ。

それが何故簡単なことではなくなるのか。細分化・専門化が進むからだ。音楽を楽しむ集団間においても細分化・専門化が進行し、集団内外での差異化戦略が発動される。例えばクラシック音楽にはクラシック音楽の作法が作られ、それを理解できないものを排除して、集団の正統性・高尚さを誇る。そしてこうした差異化戦略は各音楽ジャンルにおいて進行していくのだ。

アイドル歌謡といえども例外ではない。内部のタームを駆使し、作法を確立し、集団としてもまとまりをほこる。意識するしないにかかわらず、そこには一定の差異化・排除の戦略が動いている。これは集団としての確たる行動規範となる。モーニング娘。でいえば「シャボン玉」の冒頭は「愛する人はれいなだけ」と叫ばなければならない。こうした細かく、外部の人間には理解できない規範が次々に立ち上がる。

場内部で楽しむために作られた規範が、その規範を守ることが楽しみとなる。これは一種フェティシズムであって、その信仰を弱め、規範をもっと柔軟に運用すること、場の広がりに応じた規範の運用が出来ることが求められているのだ。

理想論を続ける。要するに問題は「楽しみ」と「規範」が転倒・逆立していることだ。それを解消し、場に応じた「楽しみ」を構築すること、そしてそれに応じた「規範」をその都度編成すること。

今回のケースで言えば、花火会場に出てきたベリキューステージを「ヲタ」の閉ざされた場とするのではなく、「ヲタ」「一般人」双方を巻き込んだ場として定義しなければならない。「ヲタ」に求められるのは妥協ではなく、「楽しみ」の構築であり、「規範」の再定義である。

これは単なる理想論、机上の空論でしかあり得ないのであろうか。私たちはこのようなユートピアをただの一度も目撃したことはなかったのだろうか。特に熱心な者・集団(要するに「ヲタ」)が先導して場をもり立て、それを多くの者(「一般人」)が追随して楽しむ。野球の応援、2000年前半のハロプロ、ほころびはあってもユートピアは確かに見えていたのではないか。ほころびは大きいかも知れないけれど、「シンデレラ」現場でもその萌芽は見えているのではないのか。ベリキュー現場だけそれを「あり得ない」として切り捨てるこの傲慢さは何なのか。

特にポピュラー音楽、「一般人」側からすれば堅苦しいことは何もない、まして前の「ヲタ」が席を立つために「見えない」と不満を感じる「一般人」、出来れば見て、楽しみたい気があったということ、「一般人」側の条件は整っている。

問題は「ヲタ」の側だけだ。それを「ヲタ」の都合だけですべて台無しにする、応援対象のアイドルを巻き込んで台無しにする、それほどのリスクを背負ってまで守られなければならない「ヲタ」の論理(倫理)とは何なのだ。

■ 屍を乗り越えて進め

先日のエントリ「複数の論理が交錯する場のルールはどのように形成されるべきなのか」の続き。

とりあえず私が引っかかった言葉の問題だけ改めて整理しておく。「倫理」。倫理とは他者との関係において生成するものだと私は思っているので、「ヲタ」と「一般人」の二者関係において、「ヲタ」内部の倫理を前面に出すのに大いに違和感があった。暴力団にも内部の倫理はある、というのと同じ話だ。もちろん集団内部にも倫理は存在するが(集団内部の人間関係において)、それを外部との関係において持ち出されてもナンセンスである。

さて、話を前に進めよう。さしあたりこの手の秩序問題はザインSein(存在ーいまどうあるのか)とゾレンSollen(当為ーどうあるべきか)の議論が混在してしまうものなので、そこはなるべく慎重に切り分けていこう。

まずは「存在」において。「ヲタ」集団内部において一定の秩序はあった。客演のアイドルを「応援」し、あるいは当該アイドルの前で思い切り「はじけ」ようという方向において。しかし「ヲタ」集団と「一般人」集団との間には秩序ではなく葛藤があった。それについては先のエントリの引用に現れている。

「当為」。葛藤を野放しにし続けるのはよろしくない。誰のためにか?「一般人」集団にとって。花火大会を見に行って、わざわざ不愉快な思いをさせられるのは嬉しいはずもない。「ヲタ」集団にとって。「一般人」から反感を食らって、応援対象のアイドルに不利益が被る可能性。そうして自身の楽しみの場が奪われてしまう危険性。

葛藤状態に陥れば、集団は各々の内部論理(利害関係)に従って戦略的に動く。一般人の戦略は簡単だ。アイドルとそのファン集団(すなわち「ヲタ」集団)を場から排除しようとする。方法は簡単だ。主催者に徹底的に苦情を言えばいい。それは別に個人として「排除」という戦略を意識して動くことを意味しない。単に不愉快な思いをしたら、その原因について主催者に善処を求めるだけのことだ。そしてそれは集団としての戦略と合致する。

問題は「ヲタ」集団の戦略だ。「ヲタ」集団内部には二つの論理が併存している。

  1. 今この場において楽しむことが重要だ。
  2. 応援対象アイドルをもり立てることが重要だ。

この二つの論理は時に共存し、時に対立する。そして今ここにおいてこの二つの論理は対立してしまっているのだ。

「今この場において楽しむ」を最大に押し立てれば、それは「一般人」集団の反感を煽ることになる。そしてそれは端的に応援対象アイドルの活動の場を奪うことに繋がる。

ここには「ヲタ」集団内部のジレンマがある。そして内部にジレンマを抱えた集団は早晩その外の集団の論理に破れることになるのだ。

この「負け戦」をいかに戦うか。外圧に押されて集団内部の矛盾は顕在化する。二つの戦略に分裂して戦うことになるだろう。

  1. 「雑音」に耳をふさいで、廻りの迷惑を顧みず、自分たち楽しむ。
  2. 外部の論理を取り込んで、当該アイドルの印象操作に意識を配る。

ミュージカルに出演中のモーニング娘。ファンは後者の戦略を主として選択した。ほころびは見られるが。ベリキューファンはどこに向かうのか。

前者の戦略を選択した場合、これは端的に負け戦を戦うことになる。集団内部で「盛り上がり」、外部から苦情が来て、主催者が「善処」する。そうして当該アイドルの活動の場は少しずつむしばまれていく。それでもそれに懲りず、また新たなる別のアイドルを見つけてきては同じことを繰り返し続けるのかも知れない。娘。ファンから撤退してベリキューへ行き、次はポッシボー、きゃなーり倶楽部、AKB48などなどへ行き、次は・・・、といった具合に。そうしてかれらは負け戦を戦っているということすら認識せずに、次々に新しいアイドルを「応援」し続けるのかも知れない。そしてそれは確かにもはや「負け戦」ではない。そして後には「応援」され、捨てられたアイドル本体の屍が放置されるわけだ。

2008年08月13日

■ 複数の論理が交錯する場のルールはどのように形成されるべきなのか

かなりがっかりさせられる記事を見かけた。

いわゆるハロプロヲタの行動に関して。

私はその現場にはいなかった。だからその場で起こったことの評価は私にはできない。それほどの批判にさらされるべきことであったのか、批判している人が単に狭量なだけなのか。

しかしここで起こったことを語る言説については私にも評価はできる。そこで語られている論理の是非の判断は私なりにできる。

場のルールはどのようにして形成されるのか

よい題名のエントリだと思った。そう、秩序問題である。いろいろな思惑、期待を持った人たちが集うイベントの場、そこでのルールはどのようにして形成されるのか、されるべきなのか。これはすぐれて社会学的な問題である。

*そこ*で何が起こったのか。繰り返すが私は言説でしかこの問題を語り得ない。そこでこのエントリでの記述をそのまま引用しておく。

1つは、自分の席の後ろが親子連れだったのだが、自分含めてヲタが立ったものだから、ステージが見えなくなって、前の方の席に移っていってしまった件。この親子連れはその後も通路はさんだところのヲタが激しく踊っていることでかなり迷惑を被っていた。

2つ目は、ヲタがドリーム(席移動)して狂喜乱舞していた席に、本来そこの座席のチケットを持っている人が来て、係員がヲタをもとの席に戻るようにうながしたところ、特攻服を着たヲタが逆ギレしながら去っていった件。(もちろん特攻服自体をどうこう言う気はない)

さしあたりこの記述の通りのことが起こったとしよう。ここには二つの集団間の葛藤が生じている。「ヲタ」集団と「一般人」集団である。少し補足しておく。この現場は花火大会であり、その余興として行われたアイドルイベントでの出来事である。「一般人」とは花火を見に来た当該アイドルのファンではない人々を指す。ここでは「ヲタ」集団と「一般人」集団とのルールの齟齬が発生しており、それをいかに調停するか、が問題となる。

さてこのエントリの記述を続いてみよう。少し長いが重要なところなので、切り貼りせずにそのまま引用する。

前者に関しては、自分も片棒をかついでいるので、うかつなことは書けない。とは言え、これは仕方がない、と僕は言いたい。これはファミリー席ができるまでハローの現場で問題とされていた現象で、座って見たい親子が、ヲタが邪魔で見えない、だからファミリー専用の席を作ろうじゃないかということになったわけだ。今回、残念ながら、というか当たり前のこととしてファミリー席の設定などない。あくまで花火大会だからだ。そんな中、ヲタも席を選べない、親子も席を選べない。じゃあ親子の前にいるヲタは着席ください、などという権力を発動はできまい。それをするなら、初めから、「全席においてライブは着席して観覧ください」とするしかない。そうしたルールが設定されなかった限り、ヲタはライブ中立っていいのである。これは難しい問題だが、ヲタはヲタなりの現場の倫理を持ち込んでいる、ライブは立って見るもんだ、という行動規範もその一つである。それを崩すためには、明確に主催者側がルールを設定し、さらにそれを厳格に適用する用意があることを示さなければならないと思う。僕が聞いたのは、「ご自分の席でご覧下さい」ということだけだったように思う。

ここには「ヲタ」集団のルール、論理は語られている。そして二つの集団を調停する超越的ルールが存在していなかったことも語られている。しかし一般人のルール、論理への配慮は驚くほど語られていない。

「「全席においてライブは着席して観覧ください」とするしかない。そうしたルールが設定されなかった限り、ヲタはライブ中立っていいのである」。正直この記述が私には理解できなかった。「ルールはどのようにして形成されるのか」という問題を設定しておきながら、主催者の定めた超越的ルールの有無だけを問う姿勢、いったいこの人は何を考えようとしているのか。

小学生の頃によく馬鹿なガキが言う言葉とがあった。「それをやったらだめって法律で決まってるのか」。法律がなければ、その行動は批判されてはならない。そんなものは国家権力と市民との間にしか成立し得ない。場のルール形成を論じる時にこの論理は無効である。主催者が定めたルールに反しなければ何をやってもよい、というのもそれと同質の幼稚な議論に他ならない。この人の言い分をまじめに取り上げれば、イベント一つ行うにも何十箇条にもなるルールを提示しなければならなくなる。公演中は・・・・をしないでください。そんなイベントを「ヲタ」集団も「一般人」集団も望みはするまい。

ルールとは本来は場の内部から形成されるべきものだ。それが絶対に調停できないときに超越的ルールが発動されればよい。超越的ルールが先にあるわけではないのだ。少なくとも「ヲタ」の立場にあると自認しつつ、場のルール形成を論じようとする人が超越的ルールの有無に頼ってはだめだ。

これはある種責任転嫁的な物言いかもしれないが、主催者はヲタが立って大騒ぎすることを容認、または黙認したのだ。だから、僕はヲタの後ろにいる親子は、不幸だったとしか言い様がないと思う。せめて係員が空いてる前の席に誘導してあげるくらいしかできないのではないか。

ある種も何も徹底して責任転嫁でしかない。繰り返すがこの記述のどこに場のルール形成の論理を考えようという姿勢があるのか。猫を電子レンジに入れるやつがいるなんて思わなかった電子レンジメーカーとこの主催者の違いは何か。何が同じで、何が違うのか。まるっきり同じだとは思わない。しかし禁止されなかったら即「容認」禁止しなかった主催者が悪い、という言い分はまともな大人の言うことではない。

「ヲタはヲタなりの現場の倫理を持ち込んでいる、ライブは立って見るもんだ、という行動規範もその一つである」。「ライブは立ってみるもの」という考え方が間違っているとは思わない。しかしそれが「倫理」だというのは全くわからない。倫理って何なのだろう。「小さい子どもでもステージをみられるように鑑賞する態度が望ましい」、これだって立派な行動規範だ。この二つの相反する行動規範をどう現場で調停するか、そこにこそ「倫理」が問われるところなのではないのか。一方的に「ヲタ」の論理のみを振りかざす態度のどこに「倫理」があるというのか。

「ヲタ」の論理は排除されるべきだとは思わない。しかし「ヲタ」の論理が貫徹される(できる)場は他に存在しているのだ。そのためにファン向けのコンサートがあり、「一般席」と「ファミリー席」が分けられている。逆に言えばファミリー席の設定がない、「一般人」もみる場では多少なりとも一般人の論理、たとえば「小さい子どもでもステージをみられるように鑑賞する態度が望ましい」に歩み寄る姿勢を「ヲタ」の側が持つことが、そうした場におけるルール形成のあり方ではないのか。

それを「ヲタ」の側が拒絶したとき、「一般人」は反撃する。徹底して主催者にルールを作らせる。それを「ヲタ」は望んでいるのか?「アイドル」などいっそ呼ぶなという。それが「ヲタ」の願いなのか?

2008年08月02日

■ 卑しき人

先日取り損ねた藤本美貴ライブ京都開催分に追加公演。そのチケット発売日が今日。

今日は特に用事がないため、12:00に会場に並ぶことは可能。と思ってネットで情報を探ってみると、深夜からもう既に並んでいて会場発売30枚分までほとんど余裕がないとか。

え、そんなに並んでいるの?というとそうではない。会場販売分は一人4枚まで購入可。すると8人並べばそれで終了ということらしい。

でも一人4枚はあまり買わないんじゃないの?と私の常識では思うのだが、そうではない。並んだ以上は4枚買う。

買ってどうするのか。仲間内で分ける。オークションで売る。

何だかなあ、と思う。自分たちさえ良ければ、規則ぎりぎりまで自分の「権利」を主張して、全体の「幸福」を思考する考えなんて一ミリもないんだな。一緒に行きたい人がいて例えば2枚買う、というのはとてもよく分かる。でもデフォルトが4枚というのは「仲間」の分といっても、あまりいい気がしない。

ましてオークション。もうはっきり言う。人間のくずだね。

この手の転売屋というのは何も価値を生産できず、むしろ社会的価値を減少させて、それでお金を稼いでいる。チケット(なり何なり)を正規に入手しようとする人の邪魔をして、そのものが欲しければ余計にお金をよこせといっているわけだ。卑しい。「物乞い」以下だ。「ダフ屋」のほうがずっとましだ(少なくともダフ屋は正規にチケットを入手しようとしている人の邪魔をしていない)。その売り上げで得た利益の税金も支払っていないのだとしたら、脱税者。ますます人間のくず。

別にハロプロファンが特に卑しい、といっているわけではない。日本人全体が卑しくなっている。その元凶の一つはYahooオークションだと思っている。個人オークションなんてもともとは自宅にある自分にとって価値のないものをお安くそれを必要とする人におわけします、とかそういう趣旨だったはずだが、今では(というか最初からか)この手の卑しき人間のたまり場となった。むしり取れるところからむしり取る。価値を何も生産していないのに赤の他人から金をもらうなんて、まともな人間なら卑しくて出来ないことを堂々とやる。もう性根から卑しくなってしまった。

ま、そんな卑しい人間からものを買う相手も卑しいのだけれどもね。そういう卑しい奴の顔を見てみたいわ。って鏡見ろよ。ごめんなさい。

2007年10月10日

■ 2ch化するネット言説

「2ch化する社会」なんて論文でも物したい、というのはここ数年来考えていることだが、それはここで書くことではないとして。

「ファンサイトしか見ない」と決めているのに、2ch的言説を目にするのはどうしたことか。ファンサイト掲示板に2chと同じのりで、どう考えても「通りすがり」ではない主張を「通りすがり」というハンドルで書き込む馬鹿どもはさしあたりどうでも良いとしても、かつて加護ちゃんの熱心なファンとして知られたハロプロファン?が2chレベルの記述を嬉々として自身のサイトに掲載しているのを見ると、腹立ちを通り越して何とも寂しくなる。人を毀傷する言葉としゃれとの区別がつかなくなる。どんどん言葉に鈍感になっていく。

2chの功罪という言い方はあろうと思うが、私は2chは有害である、と断言する方がよいと思う。「有害な書き込みがある」のではなく、2chの存在が人々の言葉を腐らせていくのだ。今回の件では2chは一切見ていないので、今回の件で改めてどうこうということはないのだが、前から主張しているごとく、「2chにはものは書き込まない」。

腐った言葉の中に埋もれた「まとも」な言葉、情報が2chを表面的に価値化してしまう。しかし2chはその仕組みにおいて悪貨が良貨を駆逐し、言葉を腐らせる仕掛けになっている。「まとも」な言葉、情報もまた腐った言葉を産出し、流出させる触媒となってしまう。

2chにものを書き込んではならない。


10/11追記

件の記事、こっそり書き直しましたね。どこまで卑怯な人なんだ。

2005年09月26日

■ 正義の証明

9月26日、朝日新聞朝刊のコラム「時の墓碑銘」にヒトラー「我が闘争」が紹介されている。

その中で引用されていた「我が闘争」の一節(以下、引用の引用)。

民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見いだす。

2chあたりで日々バッシングに明け暮れる馬鹿者どもの心理を数十年前に喝破していたヒトラーは、やはり一種の天才なのだ。

2005年09月14日

■ 無党派(*1)は馬鹿だ

選挙結果をふまえて、毎日新聞で高村薫が「無党派は馬鹿だ」という趣旨のことを書いている。いや、本当は「無党派は保守だ」という題名なのだが、でも内容は「馬鹿だ」と言いたげなのが丸出しという。

それ以外にも「識者」がそういう趣旨の発言を繰り返しているのに対する反発する主張をネットで読む。そりゃそうだわな。選挙結果という民意が結果として出ている、それを馬鹿扱いされるのは完全に有権者の選択を馬鹿にしている、おまえは何様だ、ということだ。

でもね、そこで怒ったらまさに「馬鹿」という批判が己に妥当してしまうのよ。今回の選挙結果を批判している人たちは個々の選択ではなく、その総和としての結果を「馬鹿」といっているわけ。たとえば堀江とかその辺のIT長者とかが規制緩和、郵政民営化、そこから流出するかも知れない大量の資金を当て込んで、自民党に投票することは全然「馬鹿」ではない。非常に合理的かつ正しい選択だ。そのことを否定する人は、たぶん、誰もいない。だから自分の選択に自信を持って、その結果により、株価も上がったし、結構なこと、と思っている人は「馬鹿」にいちいち反応する必要もない。

「馬鹿」なのは、民意という奴をむちゃくちゃにねじ曲げて、勝者と敗者を極端に分かつ小選挙区制という制度(そしてこの制度を推進した奴らは民主党に多くいる。こういうのを馬鹿というのだ)それ自体であり、改革か守旧かという単純二元論で政治を語ろうとするマスコミ(その主犯はテレビ朝日だ)であり、投票率を上げることだけを至上の価値であるとして、難しいことはさておきとにもかくにも「選挙に行こう」などとあおったマスコミであり、普段は政治にコミットしないということをなぜか誇らしく思っているくせに、マスコミにあおられて「難しいことはよくわからない」などと注釈をつけながら投票に行く「無党派」という馬鹿者である。

それから話は変わるが、自分はどこに投票したとかしゃべり散らすのも、どうかと思う。それは他者には語らないのが「秘密投票」の原則である。私はこれまで家族にもどこに投票したかを明示的にいったことはない(つもり)。いかにバレバレであっても、それは口にしないのが、お約束である。それが「原則」というものだ。自分で勝手にしゃべり散らす奴は、まあそれはそれでいいとして、他者にそれを要求する人って何なんだろうね。きっと「己の政治的立場を明確に」というような主張とごっちゃにしてしゃべっているのだろうけれど、「秘密投票」の原則を知らないか、「原則」の意義を理解していないのか、いずれにせよ、とても「はしたない」行為だ、というぐらいのことは今後は自覚するように。


*1(ここでいう「無党派」とは特定の支持政党を持たないということではなく、普段政治にコミットしないということを価値として考えている人間集団のことである)

2005年09月11日

■ 感情と論理

選挙結果、楽しいことになりました。日本の未来はバラ色、ピンク色、ピンクの象さんがお花畑でうた歌っているよね。

とりあえず選挙前にはあえて言わなかった、とても説教くさいことを今更ながら言っておこう。上の記事についたコメントを見ていても、いかにも「頭でものを考える」ということの出来ない人間を目の当たりにすると、どうにも説教の一つも垂れたくなる。年寄りというほど年取ってはいないが、それでも私より若い世代に人に、意味あるなしは別にして、何かを言わねばならない気がしてならないのだ。

「零のかなたへ」に対する方々の感想文を読んでいても思うけれども、その場その場の感情でしか物事を判断できない連中が増殖しているんだろうな、と改めて思う。「悪いやつがいる」と誰かが叫べば、反射的にバッシングに荷担する、「愛する人を守る」とか言われれば、何はともあれ感動してみせる。小泉一派から見れば本当に御しやすい集団だろうな。

たかが省庁間の権力争いの一つにすぎない話が、財務省の犬である小泉がちょっと物語をこしらえて絶叫すれば、日本の将来を決める選挙に早変わりだもんな。で、本当に日本の将来が決まってしまう、という。まあ、あれだ、アメリカでブッシュに投票した連中と同じだ。ブッシュを選ぶ、というのがどういうことなのかを判断もせずに選んでおいて、後になっていろいろわかってきても、もう時すでに遅し、と。

もちろん一般論として、投票には一人でも多くの有権者が行くべきなのだけれど、投票するからには己の感性ではなくて、知性で判断しなければいけないのだ。別に選挙の争点全部についてきちんとした判断が下せなくとも良い、そんなのは無理だ。ただ一点でも良いから自分にとって重要な争点について、自分できっちり理解して投票することだ。特に大切なのは、「自分にとって重要な」争点をきちんと持ち、それを見極める、ということだ。候補者が言う「重要な争点」ではない。その争点が本当に「自分にとって」重要なものなのかどうかも含めて、自分なりの判断をしなければならない。このような、己というものに軸をおいて、己の言語で物事を考え、判断する、という習慣なのか、機会なのかが欠落しているのではないか、そんな気がしてならない。

己の感情を、他人の論理を借りて正当化して、何かを理解し、判断できた気になっている、そういう思考停止に陥っている言説が、少なくともネット周辺に満ちあふれている。

ドラマの話に戻る。「零のかなたへ」をみて、「平和の大切さを思った」という趣旨のことを書いている人たち、ドラマを見て本当に自分の頭でそのような感想を持ったのですか?単に自分が感動した戦争物のドラマを肯定的に評しようとすれば、そのように書くものだと思って書いているのではありませんか?

もしあのドラマを見て、「愛する人のために死ぬ、なんかいいなあ」と思ったのなら、一度は己の頭の中でそう表現してみるべきです。そしてその感想と、たとえば己がなぜか身につけてきた「平和は大切だ」というようなメッセージとの間に整合性があるのかないのか、きっちり考えてみる。もしかしたら己の感想からの帰結として、漠然とした平和などよりも命を賭してでも「敵」と戦うということが価値として見いだされるかも知れない。そこには戦争を肯定し、そこに多くの人々を巻き込んでいくロジックの一端がすでに現れている。それを改めて自分で評価してみるのです。

自前の論理などなかなか簡単には持つことは出来ない。だからこそ、己の感情と他人の論理との対話を不断に行うこと、テレビドラマ一つの中にもそのための材料はふんだんにある。

「零のかなたへ」に対するブログ周辺の反応と、今回の選挙結果、我ながらやや強引にも思えるが、しかし私が思った感情、「薄っぺらいな」を言語化してみました。

2005年08月29日

■ 「社会学」化する2ch社会

2ch脳チェックリストというものがちまたで話題になっているようで、まあおもしろいのだけれど、精神構造を具体的な現象のリストで理解しようとするあたり、レーニンの「帝国主義」の概念規定レベルだな、とか思ったり。まあ、レーニンも偉大なんだけどさ。というか、誰もそんなレベルで評価しているわけではないか。

やはりマルキストとしては現象からではなく、個々の諸現象に内在する構造のレベルでとらえなくてはならない。

というわけで2ch的言説が生産される精神構造というものをずっと考え続けている。すでに論点・キーワードは数多く出ている。シニシズム・ニヒリズムとナショナリズムの結合、そしてそれを加速化させる2chにおける批評家的差異化(卓越化)戦略。

まさに2chにおける差異化戦略はシニシズムに彩られたものである。「わたしは・・・である」のではなく「・・・ではない」という(立場表明)が戦略的に採択される。読売新聞・産経新聞が好きなのではなく、朝日新聞が嫌いなのであり、自民党がよいのではなく、民主党が駄目で、社民党など最悪なのだ。この戦略は政治的な場面だけではない。モーニング娘。関連の掲示板においては、一部の「ファンスレ」をのぞいては誰ヲタであるかは極力秘するのが「正しい」。ある人間の発言を無効化する最大の武器は「おまえ、・・・ヲタだろう」である。価値を肯定するのではなく、否定することが戦略上有効なのだ。

特定の価値観を背負い、特定の立場に立って発言するものは、守るべきものを秘する「名無し」の群れからは格好の攻撃対象となる。こうした2chの言説構造と、特定の立場を守ろうとするものを、それがどんな立場であれ、「既得権者」として攻撃する現在の政治状況と見事に調和してしまうのだ。

こうした価値相対主義的・陰謀暴露型の言説構造は、「社会学」という学問ディシプリンにも内在している。社会学者は「心理学化する社会」とか言うキーワードで社会批評を行うが、今は「社会学化する社会」と言うべきなのかも知れない。

「奴ら」は既得権を持っている。その強迫観念は表明されざる己の立場の防御へと向かわせる。己の立場を明確にすれば、己が行う攻撃と同様の攻撃を招くだけだから、それらは明確に意識化・言語化されず、従って論理的な反省を経ず、ただ無限定な感情として社会的精神構造の中を跋扈する。

だから今の「ナショナリズム」とは己とは本質的に疎遠な、たとえば「天皇」と言った観念的な存在には基本的にその根拠をおいてはいない。あるのはひたすら「私」のみであり、「私」が心地よい限りにおいてのみ「天皇」にも敬意が表されるのみである。

■ 口だけファシズム

朝日新聞夕刊のコラムより。

・・・これまでの批判への反動もあって、「ヒトラーは悪いことばかりしたわけではない」という視点さえもが発言力を持つようになったのである。・・・言論弾圧や反対派への暴力というイメージで思い描かれてきたヒトラー・ドイツの日常は、自発性を発揮しながら主体的に生きる生活の場だったのだ。これはまぎれもない事実である。

だが、日々の生活に充実を見いだしていたとき、国民は、すぐ近くの強制収容所をも、着々と進む戦争の準備をも、見ようとしなかった。抹殺されていく生命よりも平和よりも、信念ある指導者が与えてくれる生き甲斐の方が、彼らには大切だったのだ。

「心の風景」池田浩士

己の実感を欠いた欺瞞であれ、絶対に守られなければならない価値というものがある。価値相対主義者の陥る一つの帰結としての「実感」・「本音」への崇拝が蔓延する今の日本の言説状況において何とも示唆的な話ではないか。「戦前への回帰」よりもむしろここで描かれている状況の方に警戒感を持つ。もちろんナチスドイツのファシズムが今の日本に再現するなどとは思っていない。ただ「口先のソフトなファシズム」と呼ぶべき状況は芽生えているし、口先で強制収容所を作ることは出来ないが、口先で人の精神を葬ることは出来るのである。

2005年08月17日

■ 非国民宣言

扶桑社の教科書の市販本とやらを立ち読みしてきたが、当たり前のことではあるが、たいしたことはなかった。問題なのは教科書それ自体というよりももっと社会を覆うイデオロギー・言説の方だ。実際、私は扶桑社の教科書なんか真っ青の日本軍万歳の子ども向き戦記物を小学校の時に読み漁ったが、勢いで「お話太平洋戦争」とかいう共産党よりの本を読んだら、価値観はすっかりそっちに負けてしまった。もちろん愉快なのは前者の方だ。ミッドウェー海戦、本来あった(ともの語りが語る)チャンスを惜しみ、日本海軍の技術力とやらを賞賛し、「日本人」の優秀さを誇りつつ、取って付けたように「平和」を謳うこの手の本は読んでいて結構愉快だ。「敵軍」とりわけ中国軍なんてアメリカのウェスタン映画における「インディアン」・日本のヒーローものの雑魚キャラのような、顔のない存在として、優秀なる日本の最新兵器(たとえば零戦)の餌食となっていく。もちろん零戦の搭乗員には顔がある。半端なヒーローものなんて目じゃない。

そして最後には、「本来勝てた」ミッドウェー海戦の敗戦よりことごとくなす手が裏目に出て、敗北していく過程も、まさに源義経のごとくで判官贔屓的心情をくすぐる。そして悲壮な覚悟での特攻戦、神風特別攻撃隊、戦艦大和の突撃、そして司令官自身の自爆攻撃、小泉がどこに涙したか知らないが、いずれにせよいちいちよくできている。

しかしわたしは、平安鎌倉時代の話ならともかく、近現代において、そのような「私」が語り手の位置にいる物語には結局のところ納得しなかったのだと思う。「お話太平洋戦争」も同じくとてもよくできた話で、こちらにはしかし「私」を容易に重ねられる登場人物が出てくる。沖縄戦で軍部に言われるままに竹槍を持って米軍に突撃する小学生。特攻隊員に指名され、何とか断ろうと決意しながら結局ずるずる断り切れずに攻撃に参加することになり、最後の飯を惜しみながら食べて、結局米気に打ち落とされて命長らえた体験者の話。体質的に「へたれ」で「非国民」の私にはこちらの物語の方の己を容易に重ねられた。

櫻井よしこは、日本の近代の歩みは今から振り返れば間違っていると言う。ただ当時の価値観からそれを断罪することは出来ない、と。そうであればこそ問いはこうたてられなければならない。当時の価値観において何ら間違っていなかった選択は、なぜかくも悲惨な結末を迎えたのか。そしてそこから今、私たちが未来に向かっていかなる選択をする教訓を得るべきなのか、と。

当時の言説が、イデオロギーが今の価値観からして明確な過ちをもたらしたのであれば、そのイデオロギーからは徹底的に離脱しなければならない。過てる選択を必然のものとした時代状況からは決別しなければならない。「へたれ」で「非国民」な「私」が生きづらい社会にはしてはならない。

2005年08月15日

■ 愛(国)ごころ

教科書問題について。

上の番組中でいわゆる竹島問題に関するビデオを流した後で、パネラーの韓国人から「竹島という日本名だけではなく、独島という韓国名も併記すべきではないか」という指摘に対して、同じくパネラーの櫻井よしこが「韓国の教科書には独島と竹島という名前は併記していないでしょう」とすかさずやりかえした。

そして扶桑社の教科書に関する討論中に、中国・韓国の教科書*だって*偏っている、つまり歴史認識とは双方の立場を反映したものであって、双方の歴史観、文化は相互に尊重されるべきだ、という趣旨のことも言っていたように思う(ビデオ録画しなかったので正確なところは確認できない)。

なるほど。日本は韓国や中国並みに自国のパースペクティブを全面的に尊重した教科書を使うのが対等だ、ということなのか。志の低いやつだな。

私は愛国主義者なので、そんな「世間並み」の教科書では誇りを持てない。不勉強故、中国・韓国の教科書の実態を私は知らないのでその評価は留保する。しかし我が日本国の教科書はそれこそ櫻井が韓国・中国の教科書をそう印象づけたがっているようなナショナリズムに彩られた単線的なものの見方のみを提示するものでは、事実としてなかった、ということ、それをこそもっと私たちは誇りに思っていい。実際番組中で社会科の教師が山川出版の教科書の一部を読み上げたとき、パネラーの韓国・中国・その他アジア諸国の人たちの中には「ほう」とちょっと感心したような表情を見せた人もいた。結構日本の教科書の執筆者たちはがんばっているのだ。

確かに私たちは近代史を勉強する機械あまりに少なく、せっかくの教科書執筆者たちの努力をほとんど無にしてきた。特に最近の10代、20代の「若者」どもは勉強しないから(などと書くととっても説教くさくてすてき)、恐ろしいほどものを知らない。いや、これは2chなどに救うプチウヨとか称する「馬鹿者」どものことを言っているのではない。もっと政治的にナイーブかつイノセントな一般的な「若者」のことを言っている。たとえば「5月1日を休みにしてゴールデンウィークを連休にするために憲法の改正が必要らしくてえ」などと憲法問題を語ったりするたぐいのとてもナイーブでイノセントな若者のことだ。それはまさに教育問題として、教育のあり方、質を問う問題として厳然とあるが、しかし最初にやり玉に挙げられがちな教科書は、一概に「戦犯」呼ばわりされる質のものでもないのである。

「若者」が「馬鹿者」になる推移についての考察はまた別に考える問題として残すが(キーワードはナイーブとイノセント)、歴史教科書に限定して言えば、これまで使われてきた日本の歴史教科書はもっと誇りに思ってよい。現実の日本人の多くの歴史認識とは少し切り離して、日本の中学高校生が本来学ぶ礎となる教科書はこれなのだと韓国・中国の一般人に見せれば、かれらはかれらなりに感じるものはきっとある。それは日本は正しいことをアジアにしてやったのなどと強弁するよりもよほど日本を誇ることである。

■ 欺瞞の効用

NHKの討論番組をちらちら見る。元々あまり討論番組は好きではないので、それほどしっかり見ようという気はないが、それでも田原総一郎という二元論的志向しかできない司会者が仕切る「朝まで生テレビ」とか言う番組よりはよほど見るに値する番組だと思った。

「今の政治はわかりにくい」だとかもっともらしいことを言って、わかりやすさとか言って己の知能程度に視聴者を貶め、物事を単純化していたずらに対立をあおり、よりわかりやすい、すなわち単純な主張こそ善であるというイデオロギーに彩られた「朝まで生テレビ」の「罪」は今は置くとして、NHKは対立点は対立点として留保しつつ、そのおのおのの主張の言わんとするところをテレビなりに掘り下げようという努力は感じられた。もちろん視聴者向けアンケートの問いの建て方、日本と中国いずれが歩み寄るべきか、などというものには批判の余地はいくらでもある。それでも双方の主張の、表面的な対立点をあおるのではなしに、双方の思いの中の共通点を、いわばユートピアへ向かわんとする蠢きのようなものを何とか引き出さんとする可能性を見せようとする方向性が感じられた。それは、特に「頭のよい」人たちからすれば欺瞞的なものかもしれない。もとより「公共放送」としてのNHKは制度としてそのような欺瞞を反復するしかなく、それはNHKの限界であるというべきかも知れない。しかしわたしはあえて、その制度的な欺瞞が生み出した「留保→掘り下げ→ユートピア」という道筋を尊重しようと思う。少なくとも善か悪かの二元論にとらわれ、世の中の主張は二者択一であり、それこそが人が判断すべき「選択肢」であるなどというデマゴギーにたいして、制度としての欺瞞は一時停止を呼びかけてくれるのだ。

2005年08月14日

■ 追加

結局正しさなんてものはコンテキストに依存するというのは当然なのだから、社会・歴史について何かを論じるときには己が今立っているコンテキストが何なのかを明らかにした上で、それに即して価値判断をするよりない。一般論で歴史認識について語ったところで、何も語れるはずはないし、またそのことをことさらに指摘するだけでも何も語ったことにはならない。単にある特定の立場から語らんとするものの発言を揶揄し、無効化する効果をもたらすのみである。

少なくとも私たちは日本という国に住まい、主権を行使する立場にあるのであれば、その日本という国がおかれた文脈にこそ問題の焦点を据えて語るべきであって、「韓国の歴史認識だって」などという「友達の誰それ君だって」と同レベルの小学生的戯れ言で煙に巻くべきではないのだ。

■ 相対主義者

ちょっと「頭のいい」やつは相対主義で物事を語れば何か言った気にはなれる。おのおのの国にはそれぞれの歴史観がある、とか言って「普遍的な価値」とやらを批判していれば、それですべてはイーブン、すべては免罪化される。

教科書問題とか戦争責任問題とか靖国問題とか、全部それで相対化してしまえば問題は何もナッシング。日本も悪いが韓国も悪い。あ〜、世の中楽だな。

2005年08月10日

■ 猿の精神構造

未だに2chの「実況板」で安倍さんが登場すると猿声を上げるアホと、ことあるごとに嫌韓、反中感情をわめく馬鹿とが重なり合って見えて仕方がない。政治的な立場とかそういうものとは無関係に、何かに執着して自身の心の貧しさを外に反映させざるを得ない卑しさ、何かを叩くことで自分のそうした卑しさが癒されたかのように感じる麻薬中毒患者的振る舞い、もちろん実際には癒されるどころかどんどん卑しくなり、そうした振る舞いを反復し続けることになる。

安倍ヲタとして、私は安倍さんに執着する連中に嫌悪し、逆に執着するが、しかし本来それこそ「言説」なのだと、現代日本の症候を示した典型的な言説なのだと認識するべきだ。少なくとも私は安倍さんに対するがごとくには韓国ヲタ、中国ヲタでは特にないから、こっちの方の猿どもを「猿」と言いながら、しかし実際には嫌悪してはいない。ただその言説の構造を冷徹に解き明かしたいという好奇心をかき立てられるのみだ。

2005年08月09日

■ ナガサキ

今日は長崎原爆記念日。

仕事後、NHKスペシャルをみる。「赤い背中」。

何とか己の肉体をさらしても、原爆の罪を訴え続けようとする男性の話。こうした被爆者の体験談というものも年を重ねるごとにその意味合いは否応なく変化する。先日言及したアメリカの科学者はいった。「今まで生きて来られてけっこうじゃないか」。

ひどい言葉だ、と切って捨てるのは簡単だ。しかしたとえば小学生に被爆体験を話すとき、それと似た意味合いを意味合いを持たれかねないこともまた確かである。私が小学生の頃(25年ぐらい前)には、被爆者の語りの中の「未だに常に死と隣り合わせ」であるという言葉には十分な切迫感があった。しかし今となっては小学生が件の科学者と似た感想を心の底で持ったとしても、それは責められない。

しかし切実さの意味合いが変わっただけなのだ。「赤い背中」に出てきた男性は語る。「自分が死ぬまでに何とか一人でも多くの人にこの現実を伝えたい」。寿命がそれほど残っていないかもしれないこと、それが「やむなきこと」ととらえられる年齢になったこと、そうした状況での切実さは、これまた代え難きものである。被爆体験を後世に伝えられるものがどんどん亡くなっていく。そして多くのアメリカ人は原爆の被害の事実に目を背けつづける。そうした中で日本でも被爆体験というものの語りの場がどんどん失われていく。死んでも死にきれぬ、その思い、察するにはあまりに重すぎる。

2005年08月06日

■ インターネットという妖怪

感情とか記憶というものは特定の場において生じるものであり、それを第三者が外から丸ごと肯定したり、逆に否定したりすることはできない。第三者はその「場」を社会的、歴史的文脈によってとらえ直すことも出来れば、自らは追認できないその「場」を神聖化することも出来る。そしてこの二つの立場が、論理と感情の対立となって表象される。

専門家は論理を重んじるが(最近そうでもない「専門家」もいるが)、生活者は感情を重んじる。インターネットの広まりにより生活者の発言が主流言説を形成するようになる。感情を*後から*理論武装すれば、とても生活者にとってしっくりくる、心地よい主張ができあがる。感情から出発しているから、どの論理を受け入れるかも結局は感情が決める。結論は論理の前にある。

今の思想状況は、それ自体は絶対的に肯定されるべきメディアの進化のもたらした必然的帰結である。社会科学は未だにこのインターネットというメディアの怪物の前に佇むのみである。

■ 社会思想の貧困

昨日の話の続き。

原爆投下の責任について問われた科学者はこうも言った。

「リメンバー、パールハーバーだ」

これまたおかしな話だ。真珠湾奇襲攻撃の責任は東京裁判で問われたはず。真珠湾奇襲攻撃が世界平和のために正しかった、などと公に言うものは誰もいない。もしヒロシマ原爆投下が真珠湾奇襲攻撃と見合いなのであれば、原爆投下の責任も問われなければならない。

結局のところ、感情のやりとりを解きほぐし、整理するのは論理の力なのだが、その論理の力が完全に消し去られている空間というものがあるもので、その下ではいかんともしがたい。逆に言えば、そうした空間をすくなくとも公的な言説の場からは消し去らなくては社会というものは亀裂を生じるほかない。しかしたとえば一国の総理大臣や大統領と称される人物が感情丸出しの発言を垂れ流し続ける状況ではどうにもならない。もちろんそうした人物が選出されてしまうという精神の貧困さがどうにもならないことなのだ。

だからといって、「個人のエゴ」がどうの、「最近の子ども」がどうの、などとくだらないことを言いたいのではない。個人の精神の貧困が問題なのではない。あくまでも問題なのは社会思想の貧困さである。

2005年08月05日

■ 何を守るのか

上のことにも少し関係するのだが、一般的に言って当事者というものは譲れないものを持っているものだ。むしろ逆にそれこそが当事者の定義だと言ってもよいぐらいだ。

しかしそうはいっても、同じ当事者の間にも余力の差はある。まず持って己自身を守ろうとするのは、何にせよ余裕のない状態であって、それは時に見苦しく見えようとも、そうせざるを得ないだけの必然性があるものだ。それならば己自身ではなく、「正義」を守ろうとするものの方こそ、余裕を持って事に当たらなければならない。「正義」「大儀」を掲げて物事に当たるのもよいが、その「余裕」だけは確保しないと、それによって抹殺されてしまうと感じるものがいたりするものだ。それを「わがまま」だ何だと切り捨ててしまうのはプチファシズム、「焚書」運動につながる。

■ 地割れ

明日8月6日はヒロシマ原爆記念日。

小学校の頃は夏休みの折り返し点、登校日とともに「平和教育」を受けたものだった。それ自体の評価はさておき、すっかりそのような文化から離れていたが、久々TBSで「戦後60年特別企画」と称して、原爆関連番組を見る。

原爆開発に携わり、原爆投下を見届けた科学者が被爆者と面会する。

被爆者は、原爆開発に対する悔恨の言葉を科学者に求める。子どもや一般市民があまりに無惨にたくさん死んでいった、そのような結果をもたらしたことに対する謝罪はないのか。科学者は答える。

「戦争では皆に責任がある」。

ふむ。しかしそれはあまりに一般論であって、その責任が大量破壊兵器による虐殺に相当するか否かは別問題だ。そもそも国際法を読め。それでおしまい。

つまり科学者の言ったことは詭弁にもなっていない。しかしそのような強弁を反復するしかないのだ。そこを譲れば、己を支えてきた世界が崩壊する、そういう部分がきっと誰にでもあるのだ。

それを言い争ってもどうにもならない。双方が傷つき、痛ましい思いをするだけだ。話してもわからないこともある。そうした社会の亀裂、傷を診断し、少しずつでも癒すことが社会科学の役割だと信じてきた。

「頭」だけでは社会科学は出来ぬ。枯れ果てた「思い」に少しだけ雨が降る。すぐに干からびるだろうけれど。

2005年07月23日

■ 視線のその先

つまらない、といわれて、その評価は当然ではあるが、しかしある意味いかんともしがたいよなあ、と思いつつ、しかしまたその「いかんともしがたさ」に何となく引っかかっている。

一つは私の慢性的精神的疲労の産物だ。政治的・哲学的・思想的な語りというのは勢いで書けるものでもないために、それなりにエネルギーを要する。そうしたエネルギーの供給源(リビドーとでも言おうか)がハロプロ以外に今は見あたらない。

またそれとは別にやはりこの「はてな」という場、システムにも関わっているようにも思う。前のサイトは本当にひっそりと己の思いだけで、その思いを書き連ねることが許されていた。見に来る人は同じ志向を持っている人だけと事実上決め込んでいられた。しかしこの「はてな」という場はそうではない。たとえ何気なく話題に出した言葉からでもどんどんリンクされ、アクセスされる。もちろんそうしたシステムからくるおもしろさを感じたからこそこの場を選んだのは確かだ。その意味では功罪つけがたい。ただ前のサイトとはどうにも書く側の意識は変わらざるを得ない。「見られている」という意識で書く文章は、一方で緊張感を保てるなどよい効果を及ぼすこともあるだろうが、また一方ではラディカルさを損なう効果も及ぼす。ラディカルとは政治的な主張の偏りの度合いを言いたいのではない。そうではなくて、日常ささやかな事柄に「問題」を見いだしていく、そうしたパラノイア的な思索・姿勢のことだ。

■ くそったれ運動

キーワードの件についてはしばらく静観。元々は削除側に共感する部分も結構あったのだが、今回の件その他削除側の行動をみていて、完全に考えを変える。

ついでに削除側は「リンクスコア」結果を金科玉条のごとく奉るけれど、それもどうかと思う。削除側の人間で少なくとも一人、確実に複数IDを使い分けている人間がいる。そんなことをやる人間がいる時点で意味ないでしょ。

目的の正しさを標榜すればこそ、手段・プロセスにも正しさが要求される。それを欠いた正義などは小ファシズムだ。手段の正しさも、合意形成のプロセスも欠いた今の削除運動などくそ食らえである。

■ 謝罪文

書いちゃったものは単純なミス以外は修正しない主義なので、訂正とともに謝罪文。

上の文で「確実に」と書いていますが、確実ではありません。かなりの疑いはありますが、証拠はありません。というわけでお詫びするとともに訂正させていただきます。

ただリンクスコアはハロプロに日記で日常的に言及している人数に比して、あまりに棄権が多く、未だ投票としての価値は薄いと思っています。思いのあるものが投票しているのだから、その結果を尊重すべきだ、という主張もあり得ますが、要は一部でのみ盛り上がっているにすぎない話ではないか、ということでもあり、まずはリンクスコア云々を主張する前にもっと「世論」を盛り上げるのが何事かをなさんとするものの努めでしょう。

いったんネット上にあげられた情報の削除というのは、その情報がどんなに糞であっても慎重の上にも慎重でなければならない、というのが私の立場。ネットとはそういう糞みたいな情報の集積の上に成り立っているのであって、それを含めて私(たち)はネットを利用しているはずです。糞な情報が満ちあふれることよりも、一部のものの思惑だけで情報が消されることの方に私は危機感を覚えます。

■ (●´ー`)大東亜共栄圏だべさ

先日安倍さん関連の話ばかりでつまらなくなった、とコメントをいただいた。それは申し訳ないことでした、というよりまだ安倍さん関連以外の読者がいることのほうに驚いた。長い不調、というより日々の生活でいっぱいいっぱい、「艶」のある話以外書くエネルギーがない。完全週休「5日」制が実現すれば、と思うが、なかなか難しい。

またはてなのキーワードシステムのおかげで、安倍さん関連の読者が増えて、それ以外の話題がちょっと出しづらくなったというのもある。あまり政治的な話題を出していたら、それを不快に思う人も出てくるのではないか、とか。私だってハロプロ系の話題をしているところで突然北朝鮮がどう、朝日新聞がどう、などという記述をみたらかなり引く。

さる掲示板で、ナチヲタをやめることと己の政治的立場を放棄することとの選択を迫られたら、などというばかげたことが話題になっていた。もちろん私は己の政治的立場を守る、などと考えていて、そんな選択が迫られる場面とは具体的に何だ?ということで安倍なつみが皇国史観バリバリのエッセイ集を出したら、なんてのを想像してみた。ん?それはそれでかなり萌えられるかも。

2005年06月26日

■ 日本的発想でアジアをつまらなくした

「A」最終回を見た。

もう散々いわれていることなのでことさらに繰り返す必要もないが、なるほど、ひどい番組だった。しかしまたまた2chに巣食うアホどもが見当違いの「分析」とやらを垂れ流してくれているので、少し補足しておく。

「日本人はアジアが嫌い」「久米の親中、親韓路線が受け入れられなかった」。だからあの番組は駄目だったのだ、などとのたまう。なるほど、久米の番組開始前の宣言「アメリカ、ヨーロッパ志向だけど、アジアを知らなくてどうする。アメリカと仲良くなってどうする」からすれば、こうも言いたくなったのだろう。ちょっとでも「アジア重視」などという主張を聞くと発狂するのが彼らの性癖なのだ。この手の集団ヒステリー症状についてはそれはそれでまた別に検討する必要があるとして、「A」という番組が駄目なのは、まったく逆である。この番組はアジアを持ち上げたものではない。アジアを馬鹿にし腐った番組なのである。

最終回だけを見たが、通常収録をしたまま打ち切りになったので、特に最終回ならではということを考える必要はないはず。本日の放送内容。

  • タイのカリスマ占い師に未来を占ってもらおう
  • 日本の食材でタイ料理を作ろう
  • タイの神様に恋の奇跡を願おう
  • 韓国で流行の夫婦ラブラブ写真集作りを通じて夫婦の愛を再発見
  • 台湾の子どもに日本を見てもらおう

書いていて疲れる。

何がいけないか。ちょっと想像力を働かせてみればよい。日本がアジア諸国のことを知ろうという番組意図。同様の企画を例えばアメリカの番組が日本に対して立てたとする。

細木和子か誰かに未来を占ってもらいにアメリカ人が来る。その様子を流す。出雲大社かどこかに、恋がうまく行かないアメリカ人がお参りをする。さあ、ジャパニーズよ、君たちのことがだんだんわかってきたから仲良くしようぜ。

こんなに日本を馬鹿にした話があるだろうか。宗教というものはさまざまな歴史や文化の支えがあって、人々の心の中に何事かをもたらしているのだ。そういったことごとを一切黙殺して、いきなりそれに何の関心も持たぬものたちが神頼みに訪れる。それがどれほどその国の文化、宗教を馬鹿にしていることになるのか、そういうことだ。タイという国にとって重要な意味を持つさまざまな宗教的な儀式を、単に失恋を何とかしたいというそれこそ「神頼み」としてすがるものに行わせる。それではどこぞのインチキ宗教とまったく代わりがない。当人としてそれなりに切実な思いに付け込んで、信じてもいない宗教的儀式に参加させただけだ。それは参加者とタイの歴史・文化・宗教をともに馬鹿にした行為に他ならない。

このような、タイの宗教をインチキ宗教と同列に置くような扱いをし、そしてインチキ宗教への番組視聴者への誘いこむ企画を久米宏あろうものが進行する。無残というほかはない。

「アジアを知らなくてどうする」と久米は言った。番組の企画内容を文字で読み、彼の意図が無残に砕けたと思ったとき、私は芥川龍之介に準えて次の言葉を心に浮かべた。

「誰よりもアジアに関心を持たせようとした君は、誰よりもアジアを馬鹿にした君だ」

でもこの番組を改めて見て、この言葉はこの番組にはもったいなさ過ぎると思った。

「ちょっとだけアジアにちょっかいを出してみた君は、やはり日本人の中の日本人だった」

「君」は久米宏なのか、日本テレビなのか、それはよくわからない。

2005年06月07日

■ リハビリ中

とりあえずリハビリ代わりにということで購入した「哂う日本の『ナショナリズム』」。

予想外に面白かった。基本的に私は「今」の状況を説明するのに歴史をさかのぼる、という手法は評価しないのだが、この本に関しては最初の連合赤軍をテーマにした部分が圧倒的に面白かった。私は世代的にも連合赤軍事件は記憶の外であるし、これまでも特にコミットしたこともなかったのだが、あらためてその話題に触れて、とても興味を引かれた。

北田が取り出してくる事例自体は、私にとって、それほど驚かされるものはない。むしろ逆に、「さもありなん」、ある意味とてもリアルに感じられた。

私は北田と同年代なのだが、しかし「左翼運動」にかかわる時代感覚にはずれがあるようで、それが逆に興味深かった。北田は、淡々と記述はしているのだが、連合赤軍内部で起こった「総括」を、感性的にはありえないこととして捉えているように感じられた。そのような「ありえない」ことが起こった構造を北田は取り出そうとする。

私は逆に、そこで起こった事態には明確に「既視感」を覚える。「総括」を要求する指導者の論理が、「構造」以前に、私にはベタに了解できてしまうのだ。

もちろん「分析」とはそうしたベタな次元から離れて、構造を取り出すべきものであり、その意味で正しいのは北田の態度のほうだ。しかし、それにもかかわらず、そうして取り出された構造の残余、ベタな感性への共感、の欠落が、私にはどうにも気になってしまう。それをいささか批判的な言葉で言ってしまえば、北田の分析は、構造ありき、さらには結論ありき、の議論にも思えてしまうということだ。

北田の論点は「準拠枠組みなき」「形式主義」という言葉に尽きる。そのタームで北田は連合赤軍事件から2ch現象までを捉えていくのだが、私の関心はむしろその裏、「にもかかわらず」その場で必然的な意味を持ったものは何か、なぜそれが選ばれたのか、という論点である。

例えば連合赤軍事件における「総括」のきっかけを北田は「偶然的」と評するのだが、本当に偶然的であったのだろうか、というのが疑問なのである。むしろそれは必然であったのではないか、そしてその必然性は、その閉ざされた集団固有のものですらなく、社会一般にある種の形で反復される類のものではなかったのか、という疑問である。

ひとつ例を出そう。「総括」を強要され、リンチ殺人されていったある女性「兵士」が問題とされたのは「他人の発言中に髪をとかした」、というものであったとされる。それを北田は「偶発的」と評するのだが、果たしてそうか?この「原因」には既視感がある。それからほぼ10年後に起こった教師による生徒リンチ殺害事件である。そのとき生徒が「指導」された原因がヘアドライヤーを持っていたことであった。この10年という年月を経て反復される髪のおしゃれと死との連続性に私は拘る。

「髪の毛」という身体は集団における秩序に対する霍乱要因として明確に存在し続けているのであって、それが引き起こす「乱れ」が組織全体を瓦解させるのではないかという「恐れ」(妄想)は、私には北田が言うほど「些細」なものとは思えない。

こうしたズレが現状分析にまで及ぶことになる。たとえば2chで行われた二つのバッシング、「イラク人質被害者」バッシングと拉致被害者家族会へのバッシングを北田は等値なものとして並べるのだが、その両者のバッシングに備給されたエネルギーが等価なものだとは私にはどうにも感じられなかった。確かに、匿名性の高い掲示板ゆえに、何に対してもバッシングは起こりうる。しかしそのなかで特に何が獲物として選ばれるのか、何が「祭り」として盛り上がるのか、はそれほど偶発的なものとは私には思えないのだ。

この論点と係るかどうかは現段階では不明な論点。シニカルとアイロニカルとの概念をどう使い分けているのかが、私には読み取れなかった。私は現在の2chの言説はシニカルではあってもアイロニカルなものではない、と感じているので。

この論点に関するジジェクの論考。自分へのメモ代わりに。

PLEXUS / Lacanian Ink: Slavoj Zizek - From Joyce-the-Symptom to the Symptom of Power

ついでにたまたま自宅の本棚にあった日本赤軍関係の本。

日本赤軍派―その社会学的物語

日本赤軍派―その社会学的物語

今から読むべ。

■ 靖国神社

この先の記述は政治的な話題を含みます。あしからず。

靖国神社、A級戦犯分祀問題。

私は反対ですね。いや、別に靖国神社側が突然「やっぱA級戦犯は祭りたくないっす」とかなんとかいいだして、放り出すというのは別に咎めはしない。が、政府が介入して分祀だなんだというのは賛成できない。

政府が一宗教法人にそのような介入をすれば、それこそ政教分離の原則はどうなるのだ、ということだ。そうして分祀したらそれで靖国神社は政府お墨付きということになってしまう。それは靖国神社がどうという以前に政教分離に反する。

そもそも、だ。靖国神社という神社はA級戦犯を分祀するとかしないとか、そういう次元で「問題」なのではない。A級戦犯が祭られている、というのは問題の表象であって、原因ではない。そこを分祀論は完全に取り違えている。靖国神社とは、その名から成立の経緯から、祭られているものの選別から、その全て、骨の髄にいたるまで、「お国のために命を賭すのは崇高なことである」という価値観に彩られている。たまたま東京裁判で「A級戦犯」と認定された人間が祭られているとかどうとかそういう次元で問題なのではない。国家と「私」との関係に対する思想全体にかかわる問題なのであって、そうしたなかで民主主義・平和主義・政教分離を標榜する日本国家において、公的な意味合いを担わせることが良いことなのかどうか、そして「私」たち個人が靖国神社が体現している思想をどう評価するのか、それらが問われているのだ。

私の結論は簡単だ。前者に関しては端的に否である。もちろん思想信条の自由というのはあるから、一宗教法人として靖国神社なるものがあるのは一向構わない。しかし公的な形で何らかの役割を担う、というのは、右とか左とかの思想対立とは無関係に、近代国家としてありえないことである。この簡単な原則を朝日新聞あたりに寄稿する「良識派」が忘れていたりするのは何たることか。いかに妥協であっても政府の介入する「分祀」論はありえないはずなのだ。

後者に関して。軟弱非国民を標榜する私にとって靖国神社的なるものは個人として受け入れる余地はまったくない。「戦争で命を落とした人を偲び、平和への思いを馳せる」という感性もあるらしいが、それを否定する気はないが、平和とは今生きている人のためのものであって、靖国神社が体現している思想は、今、そして未来のあるべき(と私が思う)国家観とは完全に対立しているので、死者を言い訳に靖国神社的なるものに敬意を表する余地はまったくない。

最後に。中国・韓国との関係について。私は基本的には、「それ」以前の問題として処理されているので、私個人の判断としては中国がどういっているとかはあまり関係はないのだが、早い話中国がかりに「靖国万歳」と言ったとしても、私は靖国神社を認めるつもりはないのだが、利用できるものは利用するというのも立派な戦略であり、リアリズムだ。そしてまた外交、それにかかわる「国益」というのも徹底したリアリズムが要求されるはずだ。それからして、小泉及びそれを支持する人たちは、「平和主義」に対しては「左翼」のロマン主義を哂うくせに、この場面ではずいぶんとロマン主義に徹するじゃないの、と笑い返してやればそれでいい。

2005年04月30日

■ ミス

尼崎電車脱線事故の件。

その当日、私も尼崎にいた。前日に東海道線で尼崎入りをしていたので、事故そのものにはまったく影響を受けなかったし、事故情報の第一報も人伝に聞いただけなので、おそらく東京当たりでテレビを見ていた人よりも情報には疎かった。さらに日ごろ情報への感度が極度ににぶっていることもあいまって、今度の事故に関しても当事者意識を持ってニュースを見ることは出来ていない。

それでも一点、今回の事故は社会の「緩み」であるという分析を目にしたときは、あまりの見当違いに驚いた。おそらく報道の主流はそれとは逆の分析をしているものと思うので、それ以上言うことはとくにはないが、少なくとも「緩み」だけは違う。まったく逆で社会的な余裕のなさ、非寛容が事故を生み出した、というべきだろう。それは今はただただ結果論でしかないが、しかし私はJRの駅でしばしば旧国労の人たちの演説で、JRの労働者への締め付け、安全への目配りのなさ、への訴えを聴き、さもありなんと危惧していただけに、いたたまれないものを感じる。だから今回の報道でも、運転手一人を悪者にするような報道だけは許さじ、と思ってみているし、ミスをしたときの「日勤」なるものの実態がもっともっと問題になるべきだと思っている。

人命につながるミスはもちろんなくさなければならない、しかし人間は機械ではない、ミスをなくすのは精度を高めることによってではなくて、精神に余裕を持つことによってなされるはずのものだ。

2005年02月20日

■ 新たなバッシングネタ

あびる優なるタレントがバッシングに会っているようだ。日本テレビの深夜放送で集団窃盗をした過去がある、と告白。そんなの犯罪じゃないか(そりゃそうだ)というわけで、2chではいつものお「祭り」騒ぎ。

そのあびる優、安倍なつみの件のときに「優だったら恥ずかしくて出てこられないと思う。あいつ、ぱくってるよ、みたいな」とか何とか言ったとかで、安倍ヲタからはうらまれていることになっているらしい。それでそのバッシングに安倍ヲタが加担しているとかいないとか。

ほかの安倍ヲタのことは知らないが、私はあびる優の件の発言自体には恨みがましい思いはまったくない。むしろ逆だ。ほかの「アンチ」やら「にわか評論家」やら大手メディアに登場するご意見番とか専門家とか称する連中のほとんどが「著作権」を掲げて法律論で問題を斬った。中には法律の条文を掲げて、最高懲役何年などとテロップを流した番組もある。その手の、問題の本質を見ようともせずに、ただ面白がって「罪人」を作りたいだけの安っぽい輩を私は決して許さない(と誓ったつもりだが、どの番組がどんなことを言ったか、忘れてしまったのでその決意はもはや意味を持たない)。そのなかで数少ない正論の一つがあびるの発言なのだ。

安倍なつみの行為は最高懲役何年だとか、だれそれの権利を侵害しただとか、そういうフェーズで語るべき問題ではない。ただ一人の、安倍なつみとの比較において相対的に知名度の低い原作者を除き、小室哲哉やYUKIやaikoや、そういった安倍なつみよりも実績も知名度も上の人たちのどれだけの権利が侵害されたというのか。単にかれらに憧れ、その言葉を使ってみただけの行為に、法律だ何だのを振りかざして見せて、いったい何の意味があるのか。

そうではなくて、件の問題はまさにあびるが言ったとおり、安倍なつみの側の誇りにこそかかわるべき問題だったのだ。安倍なつみの行為は「悪いこと」である以前に「恥ずかしい」ことなのであって、邪悪なことではなくて、未熟なことであったのだ。だからまた必要なのは世間に向けての謝罪などではなく、己自身に向けての内省であったのだ。

あびるのバッシングの件に関しては、ここでことさらに触れるような関心事ではない。安倍なつみの件の出版サイドに対する「呆れ」と同じ意味の感想を日本テレビに対して持つのと、芸能人が過去の悪事を時に英雄気取りで語る悪しき風潮に歯止めがかかればよいな、という思いを持つぐらいだ。

■ あいつ、ぱくってるよ

身近で立て続けに剽窃(盗作)問題に出くわす。

ひとつは非常勤先のレポート。外国書購読のレポートで英字新聞か何かの引き写しと思われるものがあった。題名が英語として間違っているのに、本文は見事な英語。こんなのは私にだって書けねぇや、と読んでいてあきれていた。元ねたはおそらく朝日の英字新聞のコラムあたりだろうと推測をつけるが、割と一般的な内容のものだったので、いつごろのものかまで推測するのが難しい。学生を呼んで、その文を訳させればたちどころに白状させられるのは確実だが、面倒なので黙って60点合格にする。ああ、手抜き。一応、出席点だけで60点、提出物は採点の対象外、という扱い。仮に剽窃でなかったとしてもレポートの課題からは大きく意図をたがえていたので、どの道大差はない。99.9%剽窃なのはわかっているが、言ってしまえばたかが非常勤のために、英字新聞を一から捜しまくるだけの手間はかけられない。学生はうまく逃げおおせたと思っただろうか。己の手抜きにやや自責の念に駆られつつ、60点合格(ぎりぎり)の意味を少しでも感じ取ってくれたら、と願って見せるのは卑怯者の振る舞いか。

某大手IT教育組織の元インストラクターから、一般市民向けのインストラクター養成講習用の企画を持ち込まれ、受講者への配布資料なるものを渡される。用語の使い方に妙な個性があり、また文章が妙に整っている。かと思えば、日本語として明らかにおかしな表現が目立つ部分もあり、かなり奇妙な印象を持つ。これは怪しい、と隣にいた「同僚」と話していると、その同僚が手元にあった本を見て、「これだ」と叫んだ。市販のテキスト。なるほど見事な引き写し、その劣化コピーだった。

「著作権」とかそういう問題ではないんだよな。要は誇りの問題なのだと思う。誰かの権利を侵害しているなどという以前に、そんなことをしてむなしくはないか、と。その意味では学生の行為は、とりあえず私は理解は出来る。単位を取れればそれでよいのであって、それ以上に意味など求めてはいない。そのレポートに、それ以上の意味を持たせることが出来なかった教師の負けだ、というしかない。

一方、講習企画の件はあきれるほかない。講師をやりたい、と企画を持ち込んできて、それが市販テキストの劣化コピーですか。何か自ら伝えたいことがあって、わざわざ企画から持ち込んだのではないのですか。

もろもろの事情で、その企画を握りつぶすわけにも行かず、とりあえず企画料・講師料こみでこれこれ、と提示した金額は実質講師料分のみの額。それで文句を言ってきたらけんかしてやろうとつめを研ぐが、何も言わずそれでいい、といってきた。何だ、うまくだまして金額の上乗せがあればラッキー、ぐらいの考えだったのか。「誇り」なんて高尚な精神を持ち合わせていない輩とは喧嘩も出来ない。

結局、二件の剽窃、いずれも明示的にはとがめだてせず、スルーした。安倍なつみおよび事務所、出版社を云々言う資格は私にはやはりないようだ。

2005年02月05日

■ 妖怪が忍び寄る

マネシタもとい松下電器がJUSTSYSTEMを特許権侵害とかで訴え、勝訴。

くだらねー特許でせこい金儲けしようとするんじゃねえの。

最近こういうのが多すぎる。著作権だとか特許だとか、知的財産権というものを悪用もとい最大限に主張して、お金儲けか。それはいいが、あまりにもユーザ側の実情とかを無視したやり口の横行にいらいらする。大体この手の「所有権」というのは、そもそもの意図はどうあれ、結果的には「持てるもの」が得をするように出来ている。資本主義だしな。

しかし生産財とは比較にならないほど「情報」というものの占有は難しい。法がしゃしゃり出てくる場面が多いのが、逆説的にそれを表象している。もしかすると今の知的財産権「ブーム」はもはや桎梏でしかない旧体制の最後のあがきなのかもしれない。

2005年01月03日

■ リンクの続き

はてなダイアリー

読めば読むほど、この人悪質だな。

まぁ、被害女性の弁護士さんも、ちゃんと考えがあってそうしているのでしょう。僕には理解できないだけで、被害女性の幸せのために必死に闘おうとしているのだと思います。ただ、結果として、戦いの火種を撒き散らしているのでは?だって、僕なんかですら、紳助さんの復帰に不快感を表明したりされると、どういう権利で創造の自由を奪われなくてはならないのか、正直、とっても腹が立ったりするくらいです。

ま、だからといって、それを声高に訴える、なんてことはしません。その意見に対する反論。またそれに対する反論の反論と、戦いを広げるのは、僕の好む生き方ではないです。

おいおい。「結果として、戦いの火種を撒き散らしている」のはあなただって同じでしょ?別所で「多くの人の目に触れて欲しい」と書いていたその場所に、被害者の悪しき印象を植え付ける文を「声高に」書き散らしているのだから。

それとも言及するだけしておいて、私は完全なる傍観者であって、当事者ではありません、ってか?その程度の覚悟で文を物して、よく恥ずかしげもなく「作家」などといえたものよ。

島田紳助さんは引退しなくてもいいけれど、あなた、引退しなさい。

■ 懲りない面々

はてなダイアリー

島田紳助さん復帰を応援するのはいいと思うが、なぜいちいち被害者に言及するかな。そういうのって構造的にセカンドレイプそのもので、控えめに見たって被害者の神経を逆なでしてしまうだけで、島田紳助さんにとっても益にならないだろうに。単に「いろいろ大変なことはあるだろうが、私個人としても精一杯サポートして、よりよい復帰に尽力したい」とかそういう趣旨で十分ではないか。少なくとも私が耳にした限り、そういう趣旨できちんと島田紳助さんを応援していた「関係者」は明石家さんまさんぐらいだった。もちろんそれだって「引退要求」をしている被害者からすれば批判すべきものかもしれないが、それはそれ。

それからこの「引退要求」、いくらなんでも言いすぎと随分評判が悪く、根強くあるバッシング空気を助長しているきらいはあるが、私はそれも被害者サイドからすれば当然ありうべき反応として受け止めている。第三者たる私はその主張が通るべきだとは考えない。そしてまた当然のことながら、その主張が公権力によって実行されることもない。当然島田紳助さんはタレントを続ける権利を有する、しかし被害者も被害者として自身の要望を出す権利も有する。それだけのことだ。

多くのネット言論人どもは、第三者たる自分の立場(そしてこれまた当然のことながらネット言論人どもは常に第三者なのだ)からして正当ならざる主張は、すべて悪であり、バッシングに値するなどと思っているが、それこそ単細胞にふさわしい平面的社会観の産物にすぎない。

2005年01月02日

■ 言葉の砂漠

今のネット言説の粗雑さとは、「私」と「社会」・「国家」・「正義」といった一般的なものとの間に一切の媒介を設けず、あたかも両者が単一の平面上にあるものとして語られてしまうところにある。もとよりそうした粗雑さはネット言説固有のものではない。学生運動華やかなりしころの「左翼」言説やオウム真理教といったなかでも同じ構造が反復されてきたものだ。きいた批評家風に言えば「青年期」に特徴的に見られるナイーブな全能感の現れである、とも言えるだろう。

しかしネットというメディア形態がそうした傾向を助長しているのは確かだ。一個人が、ほぼストレートに「社会」に向けて己の主張を発露できてしまう今のネット環境。2chあたりで騒いでいる連中が本気かネタか時折誇らしげに口走る「ネットの勝利」などという宣言は、まさに個人としての「私」が社会と直接対峙出来ているかの幻想が見事に表現されている。

個々人が素っ裸で直接向き合い、その集合として社会が存在している、というこの社会観、特定の利害集団などとは無関係に自分は存在しているのだ、という幻想を振りまいた小泉純一郎の戯言を信用できてしまうそこはかとないナイーブな社会観は、二つの一見相反する心性を呼び寄せる。ひとつは「私」は社会に対して直接何かをなしうるのではないか、という使命感、もうひとつは「私」にとっての価値は「私」の内部で完結させられるはずだ、他者なんて関係が無いというシニシズム。「私」も他者も同じ平面に裸でそこにいるのだから、他者も「私」と同じ結論に至るはずであり、そうならないのは間違っている。あるいは「私」は己の感情をありのままにぶちまける権利を有する。

この二つの心性は、あるいは各個人の中では両立していないのかもしれない。しかし匿名の個人が集う掲示板ではこれらは簡単に結合される。他者を欠くがゆえに論理を必要としない「私」の感情を、他者に対してではなく「社会」に向けて訴えようとする。己のルサンチマンの解消が、社会正義実現へと摩り替わる。己の感情にマッチングした平板な正義が全てを支配する。

しかし社会はひとつの平面上に諸個人を布置するようには出来ていない。諸個人は各々固有の立場性を背負ってそこにいる。単純な利害・心情の一致などありえないし、そうであればこそ、そうした対立する立場性を媒介し、調停する仕組みが作られてきた。それが民主主義というものだ。そしてその仕組みの恩恵を最も受けているのはネット言論人どものはずなのに、その仕組みへの配慮を徹底的に欠く。

他者性を尊重するための論理と倫理の欠如。普段己が生活しているときには、法というものが状況に照らして柔軟に運用されているが故に機能していることを頭はともかく身体は日常的に経験しているにもかかわらず、己の気に入らない他者に対しては法の機械的な運用を求める。論理の欠落。他者の立場、感情への配慮をせず、己にとって心地よい言葉をただ投げ捨てる。倫理の喪失。論理も倫理も無くなったこの砂漠のごときネット言説。

2004年12月30日

■ 正義の掃き溜め

最近つらつら考えるのは、倫理的な公準においていまや「善悪」「正義・不正」という二元論はもはやその価値を失っているのではないか、ということだ。それを強く考えるきっかけとなったのはイラク香田さんの時の2ch・ブログの反応を見たことだ。

あの一件を正しいか、間違っているかで論じることの意味はどこにあるのだろう。「正しいか、間違いか」と聞かれれば、どこにも「正しい」ものは無い。彼がイラク入りしたのも間違いだったし、もちろん彼を拉致し、殺害した犯人たちも間違っている。しかしそうして両者「正しくない」と評価して見せて、それでどんな意味があるのだろう。少なくとも香田さんの「間違い」は、いやおうなしに彼自身がその結果を負う事になった、それ以上に*我々*が何を付け加えることがあるのだろう。

私はだから、この問題には触れるべきではなかった、と言いたいのではない。むしろ本質的には問題の映像は、広島・長崎の残忍な写真と同じ意味でもって、「日本人」は見るべきだとさえ思っている。「本質的」と断り書きを入れているのは、今はまだなお遺族の心情を慮る必要も一方であると思うからだ。

その上で私はこの問題は「正しい」「間違い」という公準で語られるべき問題ではない、と思うのだ。こうした判断は、それで自分は事態を客観的に整理し、理解したのだ、という印象を自らに持たせてしまう。感じること、考えることを停止していしまうのだ。もちろん何も感じていないわけではない。ただその感じている印象を、その場の場当たり的な「快・不快」「好悪」というこれまた二元論で整理してしまい、その判断を「正しい」「間違い」の二元論に密輸入してしまう。そうして一時的な印象が、直ちに最終的な客観的判断に摩り替わる。粗野な第一印象を捻じ曲げたものが正しいか間違っているかの判断結果となるのだ。

結果が出てしまえば、あとは簡単だ。結果から逆算して、様々な、しかし場当たり的かつ恣意的な事象をその判断に従ってあげつらえば、それで物事は語れる。いっぱしの批評家にでもなったつもりで、己の「快」を正義になぞらえて、事象をぶった切れる。

もちろん「快・不快」とは己の内面の発露に他ならず、要するにやっていることは己の精神状況を外部に投影させているだけだ。

本来の「不正」の告発とは客観的立場からなされるものではない。「告発」とはある特定の、利害関係などを含んだ、それだけに切実な立場に立って行うことであって、最終結果でもなんでもない、始まりでしかないものだ。そうした過程を全て省いて、ただの野次馬が行う「正しい」立場からの告発などは、糞餓鬼の妄想レベルのものでしかない。

今、正義などという胡散臭い言葉が最も満ちている場のひとつが、2chである。

2004年12月25日

■ トマトはトマト(回覧文)

安倍なつみの盗作問題で、彼女の書いた「トマト」と相田みつをの書いた「トマトとメロン」の*本質的*違いについて前に書いた。そしてその問題はすぐれて批評的な問題である、とも。

その辺のはなしを補講日の英書購読の時間にしたのだが、出席者が少なく(3人)、いかにも惜しい。というので、ここで改めて触りだけ紹介。

トマトにねえいくら肥料やったってさ〜 
メロンにはならねんだなあ
トマトとねメロンをねいくら比べたって 
しょうがねんだなあ

トマトよりメロンのほうが高級だ なんて思っているのは
人間だけだねそれもね欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね当事者同士は
比べも競走もしてねんだな トマトはトマトのいのちを
精一杯に生きているだけ メロンはメロンのいのちを 
いのちいっぱいに 生きているだけ

相田みつを「トマトとメロン」1984

トマトはピーマンにはなれない
トマトは茄子になんかなれっこない

トマトはトマト
赤くて丸くて光ってる
トマトはトマトらしくあればいい
時々レタスに憧れたりもするけれど
トマトはトマトなんだもん

安倍なつみ「トマト」2004

某検証サイトと称するアホサイトは恣意的に一部だけを掲載し、この両詩も盗作の中に入れているが、こうしてきちんと引用すれば、小学生だってこれが「盗作」ではないことが分かるだろう。もちろん「重なっている文字の量が少ない」などということを主張したいのではない。詩の世界が双方で全く違っている、と言っているのだ。

しかしここで「盗作」云々のはなしをしたいのではない。そうではなく、原則気に入った言葉を引き写すしか作詞法を知らなかった安倍なつみがなぜ、この「トマト」に関しては別の詩を書いたのか、ここで考えたいのはその問題だ。

結論から言うと、そこには20年にわたる時代の壁がある、ということだ。両詩とも「トマト」のアイデンティティについて語りながら、しかし己を映す鏡として選ばれたものは全く意味を違えている。

相田の詩が前提としている世界は、まさに近代資本制の論理が貫徹される世界である。個性などという曖昧なものではなく、「(交換)価値」という量的なもののみが全ての評価基準になる。そうして全てのものは量として序列化され、比較されるのだ。そうした論理が「モノ」だけでなく、人間にまで貫徹されるとき、立身出世主義的競争社会が到来する。

1984年とは、まさにそういう時代であるという状況認識が華やかなりし時だったのだ。「受験戦争」という言葉がそれなりの切実さを持って語られ、そこからの脱落者が「落ちこぼれ」として排除される。そういう状況認識が競争社会を否定する言説を招きよせる。相田の詩はまさにそういう時代性を反映して作られたものなのだ。

今もそういう状況認識がなくなったわけではない。「世界にひとつだけの花」という歌がヒットしたのはまさにそういうことだ。しかしある意味既に散々で尽くした言説であり、もはや支配言説なのは「立身出世主義」ではなく、こちらの言説のほうだ。そうなれば、もはやもともと「対抗言説」として作られた相田の詩を、そのまま共感することは難しくなってくる。

おそらく安倍にとって、トマトを擬人化する映像的な部分での面白さは「素敵だな」とは思えても、トマトとメロンを並べ、高級云々で話を進めていく流れにはさして共感が出来なかったのだろう。今の支配言説たる「No1よりonly one」という言説の肝たる後半部分にこそ自分なりのリアリティを感じうるであろう彼女は、ただその部分のみを相田の詩に倣ってトマトを登場人物に仕上げ、作品としたのだ。

20年の歳月、相田と安倍の間を隔てたものはまさに「only one」言説の変容、対抗言説から支配言説への移行、なのである。

2004年12月04日

■ 言説の暴力性

体調がよくない。なっち問題に心を痛めて、ではない(はず)。ただこれに関連する記事をネットで読むためにやや夜更かし気味なのが問題か。

どうせいいこと書いていないのだから読まなければいい、のだが、一応ネット言説を観察対象にしている関係から、まさに主観的には当事者たるこの問題の言説の流れを見極めることを放棄できない。それこそ安倍ヲタと言説観察者と双方としての意地だ。

人のうわさも何とやら、一時に比較すればやや沈静化しつつある。それにしてもネット言説とは何なのだろう、と改めていまさらながらに思う。その問題に対して、特別な思いも持たず、最低限の状況確認もせず、己の言葉の持つ効果についての配慮もなく、ただただ思いつきだけで投げ出される言葉の連なり。ある意味まさに「言説」のお手本だということにはだいぶ前から気づいていた。しかしそれを改めて(主観的には)当事者として読んでみて、その暴力性にいまさらながら愕然とする。少なくとも私は配慮してきたつもりだ。本当か?お前の吐き捨てている言葉だって、今お前が愕然としている言葉の一つなのだぞ。

誰もが己の思いを簡単に言葉で世界に向けて発信できる。その気安さが二重に安倍なつみを苦しめる。自分自身、発信してはならない「作品」を発信したこと、そして問題にあまりにも安易に投げかけられる「第三者」からの言葉の無作法さ。

「ペンの暴力」とはマスコミへの警鐘としての言葉だったはずだが、「キーボードの暴力」はネット言説への警鐘として、多少なりとも考える時期に来ているように感じる。

2004年10月31日

■ 理論の反復

美しい。というのは皮肉に過ぎるのだろうか。社会学理論がこうも見事に現実を言い当てていると、なんだか悲しさを通り越して笑いさえこみ上げてくる。

差別理論にあるセジウィックの「クローゼットの認識論」。ある権力磁場の元では従属的な立場にいるものが可視化され、見世物化され、ますます従属的な立場に追いやられる。今は出先なので詳細は確認できないがそんな筋書き。

島田紳助の一件を聞いて、すぐにそうなるだろうな、と予測がついた。そして実際にネットでいろいろ見て回ると見事にそういう言説空間が成立していた。散々やっただろう、横山ノック事件で。ネットでものを物す一人として、わずかでも抵抗しておこうと思った。

私は告発を100%字義通りに信用せよ、などといっているのではない。被害者は被害者なりに、加害者は加害者なりに、少しでも己に有利になるようにものを申す。それは当然のことだ。ただ告発というのは、「直訴は死刑」という心性をいまだに引き継ぐ日本においてはとりわけ、非常な困難を伴うものだ。現にこのマネージャーだって、批判している人がそう期待しているように、どう考えても会社内での立場は悪くする。意地で簡単にやめるまい、とは思うが、針の筵だろう。それをさらに周りの言説が包囲する。告発を疑問視し、告発者を可視化しようとする言説は逆に、例えば紳助がもし本当に暴力を振るっていたのなら、どのみち裁きを受ける、だからそれに関してはもういいではないか、などとして「加害者」を守ろうとする。しかしそれを可能にするためには、最初の「告発」が必要だったのだ。

繰り返すが告発はリスクを背負って行われているのだ。その内容が正当であるか否かは当然慎重な調査を要する。ただせめて土俵に上がることだけは認めなければフェアではないではないか。

何が真実かなどというのはメディアを通してではわかろうはずもない。具体的な調査を経て明らかになるやも知れないし、ならないかもしれない、そういうものだ。告発者が、あるいは加害者と名指された側が、嘘を言っているのだとすれば、それは具体的な調査の中で明らかにされるよりない。それを外野があれこれ想像でものを言うのは、よほどの覚悟がなくては言うべきではない。

だから少なくとも私はディテールに関しては憶測でものは語らない。単に告発がなされ、そして加害者と名指された人物がそれをディテールはどうあれ、大筋で認めた。それで外野の批評の素材としては十分なのだ。告発者をそれ以上に可視化しようとする言説は抑圧的でしかない。

2004年10月30日

■ 短慮な権威主義

島田紳助の件で他のサイトの言及をぱらぱら読んでいるが、その多くはまったく論理的にトートロジーに陥ってしまっている。「島田紳助ほどの人が殴ったのだから、女性マネージャに落ち度があったはず」。なんじゃそれ。繰り返すがこういうのをトートロジーというのであって、ロジカルに無効である。この手の発言が反復される場面を想像してみれば、この発言がいかにばかばかしい主張であるかがわかる。「うちの子がそんなことをするはずがない」。親子関係ならばこうした盲目的な属人的信頼も*ありうべきもの*であるが、多くのものにとって直接知りもしない芸能人に対するこの盲目的信頼。この手の属人的権威主義こそが今のネットに跋扈する「プチウヨ」を支える心性なのだろう。それは理念や制度への目配りを欠き、ただ目に見えているものだけ、その場その場の感情だけで物事を判断し、過去と将来、そして「他者」を見据えた上での正しいか間違いかではなく、今の己の快不快で物事を判断する態度である。右翼ではないウヨは、ただ己に耳障りのよい現状肯定、威勢のいい自己愛のみで成り立つ態度に他ならない。

ちなみに私のように「民主主義」とか「人権」とかを盲目的に信頼する態度のことを権威主義は権威主義でも制度的権威主義と呼んでおこうか。もちろん近代社会を本質的に支えているのはこの制度的権威主義なのであって、それが今相対的に弱まってきていることが、2chあたりでの「世論」、石原人気にも通じるシニカルなナショナリズムの台頭を招く結果につながっている。

2004年10月27日

■ 言葉=概念の創出

はてなアンテナには「おとなりページ」というものがあって、あるサイトとキーワードか何かが近いと判断されたサイトがそこにリストアップされる仕組みになっているようだ。Search Directory Pageというサイトのおとなりとしてこのページがなぜか上がっている。そこはフェミニズム周辺の感じだと思うのだが、うちの元サイトWould-be Marxist’s Pageにならそういう話も書いているが、ここはモーヲタネタしか書いていないので、どこが「おとなり」なのかが判然としない。

とそれはさておき、そのサイトをつらつら眺める。「おひとりさま」という女性のあり方を提示し、啓蒙しようとするサイト。趣旨としては面白いと思う。しかし

「おひとりさま」という表記は故岩下久美子さんが考案し提唱したもので、現在商標登録を申請中です。雑誌・テレビなどの媒体で「おひとりさま」の表記をお使いになるときは、必ず「おひとりさま向上委員会」までお知らせください。無断使用はお断りします。

おひとりさま向上委員会

というのを見て、なんとなくがっかり来る。「おひとりさま」はまさに「向上委員会」として理念化し、広めていこうとする鍵概念ではないか。それこそ無断使用大歓迎で、社会に流通させるべきものではないのか。もちろん本意ならざる使われ方をすることもあるだろう、それに対しても使用権などではなく、概念定義の論争を重ねていくことによって概念としての質を高める契機とするべきではないのか。

大体そんな狭量なことを言うのなら、「おひとりさま」という言葉自体には別にオリジナリティはない。日常的に言われている言葉を引用したに過ぎない。そんなものを商標登録してどうするつもりか。日常語を概念化して、闘争していく、その契機を自ら摘んでしまっているように思えてならない。

2004年10月26日

■ ウェブ日記

この場所は『「日記」のようなもの』のようなもの、というわけで、それが結局いわゆる「日記」になっているという仕掛けだが、自分で一からHTMLを書くのと違って、やはりどうにも記述形式が決定付けられている、という感はぬぐえない。ある種のテクノロジーが形式を決定し、形式が内容を規定する、というのは一般論としては当然のことだが、自分がそれをあまりに忠実に反復するというのはどういうものだろう、と今まで抵抗してきた、というのは、多分、ある。

ただ今は、それがまさしくウェブ上での独り言になろうとも、何かをしゃべることのほうがまだしも、というその程度の気持ちで「はてな」に転ぶことにした。しかしそれに付けても、こうした独り言がウェブに満ち溢れ、しかもその独り言同士で一定のコミュニティのようなものができている、という事態をどう評価したらよいのだろう。2ちゃんねる掲示板へようこそも独り言ならぬ「便所の落書き」だがそれもそれでそれなりに情報交換、コミュニケーションのようなものができている。それはヒッキーにとって勇気付けられる状況とも言えるし、ヒッキー化を加速させる状況であるといえる。

少なくともネットがなければ、私にとって今の生活は成り立たないのは確かで、それならそれで私はいかなる方向で生きていたのか、ほんの十数年前の己の生活と今の生活との差異は何か、なんてことをつらつら考える。

十数年前、か。まだネットなんてものがなかったころ、私は一日何をしていたっけ。

妄想、だ。