重層的非決定?

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2005年09月11日

■ 感情と論理

選挙結果、楽しいことになりました。日本の未来はバラ色、ピンク色、ピンクの象さんがお花畑でうた歌っているよね。

とりあえず選挙前にはあえて言わなかった、とても説教くさいことを今更ながら言っておこう。上の記事についたコメントを見ていても、いかにも「頭でものを考える」ということの出来ない人間を目の当たりにすると、どうにも説教の一つも垂れたくなる。年寄りというほど年取ってはいないが、それでも私より若い世代に人に、意味あるなしは別にして、何かを言わねばならない気がしてならないのだ。

「零のかなたへ」に対する方々の感想文を読んでいても思うけれども、その場その場の感情でしか物事を判断できない連中が増殖しているんだろうな、と改めて思う。「悪いやつがいる」と誰かが叫べば、反射的にバッシングに荷担する、「愛する人を守る」とか言われれば、何はともあれ感動してみせる。小泉一派から見れば本当に御しやすい集団だろうな。

たかが省庁間の権力争いの一つにすぎない話が、財務省の犬である小泉がちょっと物語をこしらえて絶叫すれば、日本の将来を決める選挙に早変わりだもんな。で、本当に日本の将来が決まってしまう、という。まあ、あれだ、アメリカでブッシュに投票した連中と同じだ。ブッシュを選ぶ、というのがどういうことなのかを判断もせずに選んでおいて、後になっていろいろわかってきても、もう時すでに遅し、と。

もちろん一般論として、投票には一人でも多くの有権者が行くべきなのだけれど、投票するからには己の感性ではなくて、知性で判断しなければいけないのだ。別に選挙の争点全部についてきちんとした判断が下せなくとも良い、そんなのは無理だ。ただ一点でも良いから自分にとって重要な争点について、自分できっちり理解して投票することだ。特に大切なのは、「自分にとって重要な」争点をきちんと持ち、それを見極める、ということだ。候補者が言う「重要な争点」ではない。その争点が本当に「自分にとって」重要なものなのかどうかも含めて、自分なりの判断をしなければならない。このような、己というものに軸をおいて、己の言語で物事を考え、判断する、という習慣なのか、機会なのかが欠落しているのではないか、そんな気がしてならない。

己の感情を、他人の論理を借りて正当化して、何かを理解し、判断できた気になっている、そういう思考停止に陥っている言説が、少なくともネット周辺に満ちあふれている。

ドラマの話に戻る。「零のかなたへ」をみて、「平和の大切さを思った」という趣旨のことを書いている人たち、ドラマを見て本当に自分の頭でそのような感想を持ったのですか?単に自分が感動した戦争物のドラマを肯定的に評しようとすれば、そのように書くものだと思って書いているのではありませんか?

もしあのドラマを見て、「愛する人のために死ぬ、なんかいいなあ」と思ったのなら、一度は己の頭の中でそう表現してみるべきです。そしてその感想と、たとえば己がなぜか身につけてきた「平和は大切だ」というようなメッセージとの間に整合性があるのかないのか、きっちり考えてみる。もしかしたら己の感想からの帰結として、漠然とした平和などよりも命を賭してでも「敵」と戦うということが価値として見いだされるかも知れない。そこには戦争を肯定し、そこに多くの人々を巻き込んでいくロジックの一端がすでに現れている。それを改めて自分で評価してみるのです。

自前の論理などなかなか簡単には持つことは出来ない。だからこそ、己の感情と他人の論理との対話を不断に行うこと、テレビドラマ一つの中にもそのための材料はふんだんにある。

「零のかなたへ」に対するブログ周辺の反応と、今回の選挙結果、我ながらやや強引にも思えるが、しかし私が思った感情、「薄っぺらいな」を言語化してみました。

投稿者 althusser : 2005年09月11日 00:00

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