重層的非決定?

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2005年01月02日

■ 言葉の砂漠

今のネット言説の粗雑さとは、「私」と「社会」・「国家」・「正義」といった一般的なものとの間に一切の媒介を設けず、あたかも両者が単一の平面上にあるものとして語られてしまうところにある。もとよりそうした粗雑さはネット言説固有のものではない。学生運動華やかなりしころの「左翼」言説やオウム真理教といったなかでも同じ構造が反復されてきたものだ。きいた批評家風に言えば「青年期」に特徴的に見られるナイーブな全能感の現れである、とも言えるだろう。

しかしネットというメディア形態がそうした傾向を助長しているのは確かだ。一個人が、ほぼストレートに「社会」に向けて己の主張を発露できてしまう今のネット環境。2chあたりで騒いでいる連中が本気かネタか時折誇らしげに口走る「ネットの勝利」などという宣言は、まさに個人としての「私」が社会と直接対峙出来ているかの幻想が見事に表現されている。

個々人が素っ裸で直接向き合い、その集合として社会が存在している、というこの社会観、特定の利害集団などとは無関係に自分は存在しているのだ、という幻想を振りまいた小泉純一郎の戯言を信用できてしまうそこはかとないナイーブな社会観は、二つの一見相反する心性を呼び寄せる。ひとつは「私」は社会に対して直接何かをなしうるのではないか、という使命感、もうひとつは「私」にとっての価値は「私」の内部で完結させられるはずだ、他者なんて関係が無いというシニシズム。「私」も他者も同じ平面に裸でそこにいるのだから、他者も「私」と同じ結論に至るはずであり、そうならないのは間違っている。あるいは「私」は己の感情をありのままにぶちまける権利を有する。

この二つの心性は、あるいは各個人の中では両立していないのかもしれない。しかし匿名の個人が集う掲示板ではこれらは簡単に結合される。他者を欠くがゆえに論理を必要としない「私」の感情を、他者に対してではなく「社会」に向けて訴えようとする。己のルサンチマンの解消が、社会正義実現へと摩り替わる。己の感情にマッチングした平板な正義が全てを支配する。

しかし社会はひとつの平面上に諸個人を布置するようには出来ていない。諸個人は各々固有の立場性を背負ってそこにいる。単純な利害・心情の一致などありえないし、そうであればこそ、そうした対立する立場性を媒介し、調停する仕組みが作られてきた。それが民主主義というものだ。そしてその仕組みの恩恵を最も受けているのはネット言論人どものはずなのに、その仕組みへの配慮を徹底的に欠く。

他者性を尊重するための論理と倫理の欠如。普段己が生活しているときには、法というものが状況に照らして柔軟に運用されているが故に機能していることを頭はともかく身体は日常的に経験しているにもかかわらず、己の気に入らない他者に対しては法の機械的な運用を求める。論理の欠落。他者の立場、感情への配慮をせず、己にとって心地よい言葉をただ投げ捨てる。倫理の喪失。論理も倫理も無くなったこの砂漠のごときネット言説。

投稿者 althusser : 2005年01月02日 00:00

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