重層的非決定?

« クリスマスプレゼント | メイン | アノミー »

2004年12月25日

■ トマトはトマト(回覧文)

安倍なつみの盗作問題で、彼女の書いた「トマト」と相田みつをの書いた「トマトとメロン」の*本質的*違いについて前に書いた。そしてその問題はすぐれて批評的な問題である、とも。

その辺のはなしを補講日の英書購読の時間にしたのだが、出席者が少なく(3人)、いかにも惜しい。というので、ここで改めて触りだけ紹介。

トマトにねえいくら肥料やったってさ〜 
メロンにはならねんだなあ
トマトとねメロンをねいくら比べたって 
しょうがねんだなあ

トマトよりメロンのほうが高級だ なんて思っているのは
人間だけだねそれもね欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね当事者同士は
比べも競走もしてねんだな トマトはトマトのいのちを
精一杯に生きているだけ メロンはメロンのいのちを 
いのちいっぱいに 生きているだけ

相田みつを「トマトとメロン」1984

トマトはピーマンにはなれない
トマトは茄子になんかなれっこない

トマトはトマト
赤くて丸くて光ってる
トマトはトマトらしくあればいい
時々レタスに憧れたりもするけれど
トマトはトマトなんだもん

安倍なつみ「トマト」2004

某検証サイトと称するアホサイトは恣意的に一部だけを掲載し、この両詩も盗作の中に入れているが、こうしてきちんと引用すれば、小学生だってこれが「盗作」ではないことが分かるだろう。もちろん「重なっている文字の量が少ない」などということを主張したいのではない。詩の世界が双方で全く違っている、と言っているのだ。

しかしここで「盗作」云々のはなしをしたいのではない。そうではなく、原則気に入った言葉を引き写すしか作詞法を知らなかった安倍なつみがなぜ、この「トマト」に関しては別の詩を書いたのか、ここで考えたいのはその問題だ。

結論から言うと、そこには20年にわたる時代の壁がある、ということだ。両詩とも「トマト」のアイデンティティについて語りながら、しかし己を映す鏡として選ばれたものは全く意味を違えている。

相田の詩が前提としている世界は、まさに近代資本制の論理が貫徹される世界である。個性などという曖昧なものではなく、「(交換)価値」という量的なもののみが全ての評価基準になる。そうして全てのものは量として序列化され、比較されるのだ。そうした論理が「モノ」だけでなく、人間にまで貫徹されるとき、立身出世主義的競争社会が到来する。

1984年とは、まさにそういう時代であるという状況認識が華やかなりし時だったのだ。「受験戦争」という言葉がそれなりの切実さを持って語られ、そこからの脱落者が「落ちこぼれ」として排除される。そういう状況認識が競争社会を否定する言説を招きよせる。相田の詩はまさにそういう時代性を反映して作られたものなのだ。

今もそういう状況認識がなくなったわけではない。「世界にひとつだけの花」という歌がヒットしたのはまさにそういうことだ。しかしある意味既に散々で尽くした言説であり、もはや支配言説なのは「立身出世主義」ではなく、こちらの言説のほうだ。そうなれば、もはやもともと「対抗言説」として作られた相田の詩を、そのまま共感することは難しくなってくる。

おそらく安倍にとって、トマトを擬人化する映像的な部分での面白さは「素敵だな」とは思えても、トマトとメロンを並べ、高級云々で話を進めていく流れにはさして共感が出来なかったのだろう。今の支配言説たる「No1よりonly one」という言説の肝たる後半部分にこそ自分なりのリアリティを感じうるであろう彼女は、ただその部分のみを相田の詩に倣ってトマトを登場人物に仕上げ、作品としたのだ。

20年の歳月、相田と安倍の間を隔てたものはまさに「only one」言説の変容、対抗言説から支配言説への移行、なのである。

投稿者 althusser : 2004年12月25日 00:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL: