重層的非決定?

« x200s使用記2 | メイン | 安倍なつみ鳳トークショー »

2010年03月15日

■ 緊縛高橋愛

twitterでそそのかされたので書いた。後悔はしていない。性的な表現を含むが、18禁ではない。


登場人物が悪者にとらわれて束縛されているシーンはここかしこにある。先日も刑事ドラマでそんなシーンがあった。若手男性刑事が犯人グループに拉致されて手錠で大の字に拘束されている。刑事は拘束から逃れようと抵抗し、身をよじる。別に興奮しない。ヘテロ中心主義に毒された一男性としては、ありきたりなことだ。

そういえば道重さゆみも楽しみにしているドラマ「ブラッディ・マンデイ」では主人公の女友達がやはり拉致されて、拘束されて、薬物を注入されてもだえていた。ヘテロ中心主義に毒された一男性として、何らかの性的興奮を覚えてもおかしくないシーンかもしれないが、別に興奮はしなかった。そんなものだ。

さらに思い起こせば、北乃きいがいじめをテーマにしたドラマ「ライフ」で下着姿で縛られているシーンがあったが、これはさすがにちょっとエロかった。どうでもいいけれど。

高橋愛がやはり何者かに拉致されて、いすに縛りつけられているシーン。次回予告のほんの5秒程度のシーン。その短いシーンが、しかし、エロい。エロ過ぎる。本編はまだ放送されていないので本当はどれだけの尺の、どういうシチュエーションのシーンなのかはわからないが、わずか5秒足らずのそのシーンがあまりにもエロい。

不安と恐怖にゆがんだ顔が大写しになる。胸の下には縄目が見える。身を包んでいるスーツは大きく胸をはだけ、その下の白いブラウスには縛り付けた縄に沿うように胸の膨らみがくっきり刻まれている。すでに視線がエロ過ぎるって?いや、このシーンを描写しようとしたら誰しも同じような視線で見るだろう。

カメラは次第に引いていき、後ろ手に縛られた全身があらわになってくる。清楚なスーツ姿だが、スカートの丈は少し短い。まるでAVに出てくる典型的OLのごとく。

スカートからは白い太ももが覗き、足にはハイヒール、その間に伸びるすらりとした脚が美しい。変態親父の視線丸出しだろうって?いや、このシーンを見たものはだれしも同じ見方をするだろう。

今から自分の身に何が起こるのかを想像しつつ、天を仰ぐ。恐怖と不安に満ちた表情。その仕草、表情には恥辱が浮かび、どこか切なげにも見える。「悪人に拉致された」というだけのシチュエーションなら恐怖が表現されていればよいのだが、そこに何かを懇願するかのような切なさと恥辱心が加わるから、エロさがいや増す。「私をどうしようっていうの?」。そんな台詞が聞こえてくる。お前の脳内がエロいだけだって?いや、このシーンを描写しようとしたら誰しも同じ台詞を聞くだろう。

不安げに視線を落とし、ぎゅっと唇をかみしめる。そしてうつむいたまま、悔しさと恥ずかしさに打ち震える。そしていじらしげに身をよじらせる。緊縛に対して無駄と知りつつの抵抗。身もだえした後、かすかに吐息がこぼれる。「あっ」。吐息なんて別に漏らしてねえだろって。いや、このシーンを描写しようとしたら誰しも同じ吐息を聞くだろう。

あまりにもエロくも美しいシーンはここで終わる。

この高橋愛緊縛シーンと、ありきたりな「悪人にとらわれ、監禁されているシーン」とは何が違うのか?

カメラワークから衣装選びから、作り手が狙っているとしか思えない。そして高橋愛の表情の付け方とか、躰の動かし方とか、演出も狙っているとしか思えない。コンサートツアーの個人テーマが「エロ可愛く」だから、エロさ底上げのための調教の一貫なのではないか、という想像は妄想的すぎるだろって。いや、このシーンを見れば、誰しも似たようなシチュエーションを思い描くだろう。

このシーンのエロさは、しかし、こうした作り手の狙い、SMチックなシーン造りによって表現されたものではない。それはエロスとしてはあまりにも安直で浅はかだ。作り手の狙いどころはどうしようもなく下品でくだらないものだ。しかしそうであるにもかかわらずこのシーンを、ありきたりな「悪人にとらわれ、監禁されているシーン」でもなく、作り手の狙いたる下品でくだらないSMチックな作りでもない、高度にエロティックなものに仕立て上げているのは高橋愛という人の表現者としての在りかたにほかならない。

「次の撮影時には拉致監禁されて、いすに縛りつけられるシーンがあるから。はい台本」。「え〜?そんなシーンあるんですか〜?」。「いや?」「ちょっとだけ抵抗はありますけど、でも大丈夫です(ちょっと早口で)」。

「この椅子に座って腕を後ろに回して」。「こんな感じですか?」。「はい、じゃあ縄をかけるよ」。「なんか恥ずかし〜」。

「はい、カット!お疲れ様!いや〜高橋さん、よかったよ!」。「本当ですか!けっこう頑張りましたよ〜」。「ちょっとエロくて良い感じだったよ」。「そんなこといわんでや〜。あっしはエロくなんかないし〜」。「でもエロ可愛くがいまのテーマなんでしょ?」。「あっひゃー」。

恥ずかしいのになんだかんだノリノリでエロスを表現する高橋愛。撮影時は毅然と演じきって、その後恥ずかしくてほほを染める高橋愛。うーん、エロい。恥ずかしさを感じつつ、それを一途にやりきるというそのけなげさがエロい。なに完全に妄想モードに入っているのかって?いや高橋愛を知るものなら誰しも似たような状況を思い描くはずだ。

すべてを見せびらかすハードコアポルノよりも羞恥心とチラリズムを、しかしエロス表現者の主体性は不可欠という私のエロ指向からして、高橋愛は至上のエロアーチストだ。そしてこの感性は、エロティシズムの本質に確かに触れている。

というわけで、このテキストが全体的にエロ妄想に満ちているのは、高橋愛を受容する者にとってはまっとうに駆り立てられる普遍的なエロティシズムに由来するものであるということが見事に立証された。私が特別にエロいわけじゃない。Q.E.D.証明終了。

投稿者 althusser : 2010年03月15日 23:26

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://macmini/cgi-bin/blog/althusser-tb.cgi/1190