2005年08月05日
■ 地割れ
明日8月6日はヒロシマ原爆記念日。
小学校の頃は夏休みの折り返し点、登校日とともに「平和教育」を受けたものだった。それ自体の評価はさておき、すっかりそのような文化から離れていたが、久々TBSで「戦後60年特別企画」と称して、原爆関連番組を見る。
原爆開発に携わり、原爆投下を見届けた科学者が被爆者と面会する。
被爆者は、原爆開発に対する悔恨の言葉を科学者に求める。子どもや一般市民があまりに無惨にたくさん死んでいった、そのような結果をもたらしたことに対する謝罪はないのか。科学者は答える。
「戦争では皆に責任がある」。
ふむ。しかしそれはあまりに一般論であって、その責任が大量破壊兵器による虐殺に相当するか否かは別問題だ。そもそも国際法を読め。それでおしまい。
つまり科学者の言ったことは詭弁にもなっていない。しかしそのような強弁を反復するしかないのだ。そこを譲れば、己を支えてきた世界が崩壊する、そういう部分がきっと誰にでもあるのだ。
それを言い争ってもどうにもならない。双方が傷つき、痛ましい思いをするだけだ。話してもわからないこともある。そうした社会の亀裂、傷を診断し、少しずつでも癒すことが社会科学の役割だと信じてきた。
「頭」だけでは社会科学は出来ぬ。枯れ果てた「思い」に少しだけ雨が降る。すぐに干からびるだろうけれど。
投稿者 althusser : 2005年08月05日 00:00
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