重層的非決定?

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2010年05月03日

■ ガキ亀さゆ

今ツアーでの高橋愛以外のメンバーの印象をつらつらと。といっても例によって高橋愛ばかり見ていたので、たまたま目についたメンバーについてだけ。触れられないメンバーは関心がないわけではなく、たまたま。私のライブ鑑賞辞書に「公平」「客観」という文字はない。

道重さゆみ。メンバーでは珍しい黒髪。長く伸ばしたその黒髪をたなびかせて踊る姿は実にかっこいい。可愛いというよりもかっこいい。なんということだ。

化粧も他メンバーと比べてナチュラルメイクに見える。それだけに幼くも見えるのだが、その顔の幼さと、そして踊りのどこかしらぎこちなさが、しかしなぜか未熟さではなく、かっこよさに転化するという不思議。特に「大きな瞳」でのパフォーマンスには目を奪われる。

またこの人は確かに高橋愛のフォロワーなのだ、とも思わされた。曲中の表情の作り方。高橋愛と並んで、曲ごとに表情を作ろうとしている。その曲の登場人物になりきろうとしている。今のところメンバーでそれをやっているのは高橋愛と二人だけ。

バラエティの道重さゆみしか見ていない人には、是非ライブでの道重さゆみを見てもらいたいと思った。とてもストイックにがむしゃらに、ステージパフォーマンスに賭けている姿が見られる。

亀井絵里。彼女のキャラに合わせて、これまでに提供されたソロ曲などはほわっとしたかわいらしいものが多かった。私はそれを残念に思ってきた。しかし今ツアーでの亀井絵里の歌声には渋さがある。低音をどっしり響かせる。元々定評あるダンスは、運動神経を生かしてダイナミック。でもMCになれば、またいつものぼけぼけの亀ちゃん。この落差、それがいい。

新垣里沙。最大の見せ場、というより聞かせどころは高橋愛とのデュエット曲「あの日に戻りたい」。

この曲は二人の声質の違い、そしてそれも含めて表現される世界の微妙なずれのようなものがおもしろい。題名のごとく過去の恋愛を振り返る歌。高橋愛はみずみずしく透明感あふれる声でしっとりと歌う。いまだに相手への思いがリアルに生きており、その相手へかつてと同じように甘えたい気持ちも残っている。まだ「女の子」をしている。過去と、そして今も生きている「恋」の歌。

一方新垣里沙は少し乾いた声。じっくりと自らに語りかけるように歌う。過去の自分への後悔の感情、相手への思いはもはや「恋」としては生きていない。それをできなくしたのは自分の振るまい。それを受け止めつつ、なお相手へのつきることない思い。恋が終わった後の「愛」の歌。

しかしそれでは終わらない。「春だよというのに、震えてる私」のところで突然強い感情が発露され、何とも言えない艶っぽさが出る。かつての、相手に甘えられていた「女」としての弱い部分が隠しきれなくなったような。

新垣里沙の歌は声量音程とも申し分なく、また包み込むような優しさにあふれた表現力も秀でていた。ただ一点、艶っぽさだけがあまりない、と思っていた。しかしこの曲の、一瞬の、しかしにじみ出るようなこの艶やかさ。これだ、と思った。

安倍なつみ。まさに安倍なつみと同質の表現をこの曲の新垣里沙の歌唱から感じ取った。力強さと弱さと、人間愛と切ない恋心と。高橋愛のエロさと可愛さとはまた違ったベクトルのこの落差をこそ私が新垣里沙に求めていたものだった。

もっと新垣里沙の歌を聴きたい、と思った。たとえば「Loving you Forever」を新垣里沙ソロで聞けたらどんなによいだろうとも思った。バックの音がいまいちな娘。コンではなくて、生演奏で、大胆なストリングスの音色が混じるアレンジで、新垣里沙の歌を聴けたらどんなにすばらしいだろう。

それを思い出すと、「音」の部分では今の娘。コンではやはり何とも物足りなく感じてきた。もっと贅沢な音の世界に耽溺したい。娘。コンは視覚的にはすばらしい。でもそれだけでは満たされないものが絶対的に残っている。ああ、なっちライブに行きたい、と思考はあらぬ方向に向かってしまった。簡素な舞台装置、衣装もシンプル、なのに終わってみればおなかいっぱい、この感覚は今の娘。コンでは味わえないものだ。そして新垣里沙ソロライブがあれば、なっちコンと同様のこの感覚が味わえるのではないか、と思ったのだ。


きわめて蛇足ながら、高橋愛ソロライブがあれば、満足感・満腹感ではなく、一層の飢餓感を煽られることになるだろう。それもまた一興。

投稿者 althusser : 2010年05月03日 10:04

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