重層的非決定?

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2005年08月09日

■ ナガサキ

今日は長崎原爆記念日。

仕事後、NHKスペシャルをみる。「赤い背中」。

何とか己の肉体をさらしても、原爆の罪を訴え続けようとする男性の話。こうした被爆者の体験談というものも年を重ねるごとにその意味合いは否応なく変化する。先日言及したアメリカの科学者はいった。「今まで生きて来られてけっこうじゃないか」。

ひどい言葉だ、と切って捨てるのは簡単だ。しかしたとえば小学生に被爆体験を話すとき、それと似た意味合いを意味合いを持たれかねないこともまた確かである。私が小学生の頃(25年ぐらい前)には、被爆者の語りの中の「未だに常に死と隣り合わせ」であるという言葉には十分な切迫感があった。しかし今となっては小学生が件の科学者と似た感想を心の底で持ったとしても、それは責められない。

しかし切実さの意味合いが変わっただけなのだ。「赤い背中」に出てきた男性は語る。「自分が死ぬまでに何とか一人でも多くの人にこの現実を伝えたい」。寿命がそれほど残っていないかもしれないこと、それが「やむなきこと」ととらえられる年齢になったこと、そうした状況での切実さは、これまた代え難きものである。被爆体験を後世に伝えられるものがどんどん亡くなっていく。そして多くのアメリカ人は原爆の被害の事実に目を背けつづける。そうした中で日本でも被爆体験というものの語りの場がどんどん失われていく。死んでも死にきれぬ、その思い、察するにはあまりに重すぎる。

投稿者 althusser : 2005年08月09日 00:00

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