重層的非決定?

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2005年04月30日

■ ミス

尼崎電車脱線事故の件。

その当日、私も尼崎にいた。前日に東海道線で尼崎入りをしていたので、事故そのものにはまったく影響を受けなかったし、事故情報の第一報も人伝に聞いただけなので、おそらく東京当たりでテレビを見ていた人よりも情報には疎かった。さらに日ごろ情報への感度が極度ににぶっていることもあいまって、今度の事故に関しても当事者意識を持ってニュースを見ることは出来ていない。

それでも一点、今回の事故は社会の「緩み」であるという分析を目にしたときは、あまりの見当違いに驚いた。おそらく報道の主流はそれとは逆の分析をしているものと思うので、それ以上言うことはとくにはないが、少なくとも「緩み」だけは違う。まったく逆で社会的な余裕のなさ、非寛容が事故を生み出した、というべきだろう。それは今はただただ結果論でしかないが、しかし私はJRの駅でしばしば旧国労の人たちの演説で、JRの労働者への締め付け、安全への目配りのなさ、への訴えを聴き、さもありなんと危惧していただけに、いたたまれないものを感じる。だから今回の報道でも、運転手一人を悪者にするような報道だけは許さじ、と思ってみているし、ミスをしたときの「日勤」なるものの実態がもっともっと問題になるべきだと思っている。

人命につながるミスはもちろんなくさなければならない、しかし人間は機械ではない、ミスをなくすのは精度を高めることによってではなくて、精神に余裕を持つことによってなされるはずのものだ。

投稿者 althusser : 2005年04月30日 00:00

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