重層的非決定?

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2009年05月21日

■ 落選&購入報告

本日の購入品。

モーニング娘。「しょうがない 夢追い人」DVD

ついでに発売記念イベント名古屋、悩んで結局応募したけれど、落選でした。ま、そんなものでしょ。

まあ名古屋まで行ったら、今年の予算完全にオーバーだし、無理をしなくて良かったのかな、と。

これで娘。さんとは8月末の愛ガキDSまではしばしのおさらば、という感じ。当分はなっちなっちで行きます。

そっか、名古屋行く金を回せば、なっちコン岡山に行けるのか。。。

って、だから名古屋行く金なんて最初から予定にないんだって!

2009年05月19日

■ 祝杯

とりあえず祝杯。

いろいろ思うこと、注釈を付けるべきこと、あるけれども、とにかく祝杯。

モーニング娘。メンバーの皆様、おめでとう。そしてありがとう。


「いろいろ思うこと、注釈をつけるべきこと」というのは主としてオリコン自体に対してであって、娘。に対してネガなことを言いたかったわけではない、念のため。

オリコンの何がいけないかって、調査対象店を公表し、対象店もそれを売りにしているところ。もうその時点であの会社は「調査会社」ではなくて、広告会社でしかないわけで、そんな会社の出した「数字」なんてもので一喜一憂するのは本来はナンセンス。

なんだけれども、現にメンバーが喜んでいる話を聞くと、ねえ。

稽古の休憩中、嬉しい報せが入る。

みんな当然ものすごく喜んでたけど、

特にあんなに素直に全身で喜びを表わしてる愛ちゃんを見てると、

自分のことのように本当に嬉しく思う。

淡い期待の覚書

とか。

そういうのを見聞きして、一緒に喜べずにぐちゃぐちゃ「しょうもない」ことを言っている人って、もはや自分は「ファン」という心性とはずれてしまっている、と思わないのかな。

2009年05月17日

■ 夢追い人

どことなく「昭和」な香りが漂うというモーニング娘。新曲「しょうがない 夢追い人」。「人」を「びと」と読ませるのが特に昔の感じがするとかとんちんかんなことをいっていたのは久住小春だったか。

というわけで購入品記録。

  • しょうがない 夢追い人(初回生産限定盤A)[Single]
  • しょうがない 夢追い人(初回生産限定盤B)[Single]
  • しょうがない 夢追い人[Single]

割と好き嫌いの分かれるらしいこの曲、それでもファンブログを見ていると意外と好きだという人が多い。一方で毛嫌いしている人もいるみたいだけれども。

まあ好みなんて人それぞれなんで、どっちでもいいんだけれども、否定派はいつものことながら、「きらい」ではなくて、「曲として出しては駄目」みたいなこと書くんだよな。なんで全否定しなければいけないのだろう。まして発売週にそんなネガキャンしなくてもいいのに、と思ってしまう。さらに読むと、だから「買っていない」とか。おいおい、ラジオかネットPV音源聞いただけかよ。否定的な批評をする方がずっと責任も出てくるし、慎重さも求められるはずなのに。

モーニング娘。はアイドル、アイドルたるもの、これこれの曲を歌わなければならず、そのファンもそれを求めているはずだ、そんなドグマにとらわれている人の文化批評力の貧困さよ。モーニング娘。はアイドル「なのに」。結成当初からこの「なのに」がついていたのがおもしろさの一つであったと私は思っていた。なのに今はそういう幅を許容できずにアイドルドグマを振りかざす人が多くて、ちょっと鼻について仕方がない。

楽曲については、結成二曲目シングル「サマーナイトタウン」以降の初期モーニング娘。と同じ路線で、要するにつんく得意の演歌歌謡(一応ちょいロック)。そんなのはシャ乱Q時代からそうなのだから、今更演歌だ何だと否定されても、ハァ?という感じにしかならない。

私は別につんく信者ではないし、安倍なつみの曲をつんくに提供してもらいたいとはあまり思っていないし、さらにいえばモーニング娘。のプロデューサーが交代しても、それはそれでいいかも、と思うところもあるけれども、最近のアイドル原理主義的立場から来る否定論にはもううんざりなのだ。「ハロプロ」はアイドルオタクどもの所有物ではない!と大声で言いたくなる。けれども「現」ハロプロはもはやそういう存在でしかないのかもしれない、と思ったりもする。

曲の感想はライブの感想文で既に書いたとおり。もっとも私はあらゆる曲に於いて、楽曲自体の純粋な感想というのは持っていなくて(それだけの音楽的素養がない)、歌い手のパフォーマンス込みでしか判断していないのだけれども、この曲の娘。たちの歌唱は実にすばらしい。個人的にはもう少しバックの音を抑えてコーラスも含めたボーカルをフィーチャリングして欲しいと思う。幻聴でヴォーカルオンリーバージョンを聞いたのだけれども、あまりの素で純な美しさ(個々の声、その重なり、そこから映し出されてくる世界全体)に聞き惚れてしまった。

あとおまけの握手会付きイベント。今回は関西圏ではなく、名古屋ということで、どうしたものか、ちょっと考えている。名古屋は行っていけなくもないけれども、交通費往復1万円払ってまで行くものか、そんなお金があれば、関西圏のライブに1回余計にいった方がいいのではないか。ただ娘。「現場」が8月末までなさそうだし、ここで行っておいてもいいかなあ、とか。もうちょっと悩む。

2009年05月16日

■ 休息中

「三文オペラ」が終わって少し呆けモード。キティちゃんグッズを身につけたポリーちゃん、可愛かったなあ、とか、そんなのも含めて、2回しか見に行かなかったけれど、あの空間は本当に好きだった。DVDにもならないし、楽曲のCDも出ないし、そういうものとしては残らない。

まあ、それでいい。思い出ならこの頭の中にあるから。

お次は一ヶ月後の安倍なつみ夏ツアー大阪公演。7月は何の予定もなくて、8月に同じく安倍なつみツアーラスト東京公演とスペシャル公演?山梨を考慮中。ということで当分はなっち、なっちかな。

2009年05月11日

■ 染められない

ややしつこめの三文オペラの総括。

この舞台は3層構成になっているのだ。舞台上の登場人物がもがきつつ、生きる世界、それを観察する観客のいる世界、そしてこの二つの世界の乖離をことさらに言い立てる制作サイドの世界(最初に書いた感想文は舞台上の世界についての言及を完全に取りこぼしていた。反省)。

登場人物はかれらの論理でもって、「真っ当に」生きている。しかし観客である*我々*はそうはなかなか感じられない。登場人物に共感できる部分が出来たかと思えば、裏切られる。だから*我々*にとっては舞台上のストーリーはどこか現実離れしていて、その登場人物に己を仮託できない。

舞台の世界は*我々*のリアルさからはどこかずれているのだが、しかし真にリアルに触れているのはかれらなのかもしれない。どこかしらに大きな穴が開いており、それを埋めようとして賢明に何かを求め続ける。この空疎さと、リアルさを求める執着とを、ポリー役の安倍なつみは実に見事に演じ分けていた。普段はひたすら軽薄で、ひたすら色恋沙汰にかまけている(しかもその恋がそれほど真っ当なものと見えない)。しかしその時々に突然豹変し、しっかり何かをつかんだようなどっしりした態度で、ドスのある声を響かせる。

こうしたリアルさを巡るせめぎ合いの中で、*我々*は己の論理の中にかれらの世界を馴化させていこうとする。そうして生にもがくメッキメッサーに「共感」を覚えようとしたときに、「どんでん返し」がやってくる。

お前たちにとってのリアリティなどというものはかくも脆いものなのだ。このどんでん返しは、舞台の世界と、そして観客の立場と、その両方をひっくり返してしまう。そして観客は永遠に舞台の世界には真にコミットできないことを思い知らされるのだ。こうして舞台上の「リアル」な世界は観客の馴化への意志を断ち切って、そのままの姿で温存されるわけだ。

2009年05月10日

■ あなた色

「三文オペラ」大阪公演千秋楽無事終了。

カーテンコールは何回あっただろうか。そのうちの一回、デーモン小暮閣下が突然「この中になっちファンはいるか?」と問いかける一幕があった。特に前方中心に固まりで必死で手を挙げる一群。そのほかにもバラバラといて、意外と結構潜んでいるものだと思った。その安倍さんの挨拶、「今日はなっちじゃなくて、ポリーだよ」とかいって、いかにもポリーっぽくアホっぽくおどけて見せた。それまでは安倍さんらしくきまじめに遠慮がちに振る舞っていたのが一転。いやはや役者だ。

高橋愛のWebトークで、新垣里沙とともにこの「三文オペラ」を見に行った感想を語っていたようで、まずは「大人でしたね〜」。「みっつぃとか大丈夫かな」。ま、それはそう思うわな。客席を映す演出とか色々興味深いとかも。そしてこの舞台を色に例えると、というところで愛ちゃんは「灰色」、ガキさんは「赤」。

なるほど、よく分かる。灰色はこの舞台の作り出す表面的な世界。皆が貧しく、燻っていて、薄暗い世界。しかしその中に生きる人々の心の中には強烈な執着が。その執着を色にすると「赤」。

人々が執着しているのは金、性そして生。道徳やら、制度やら、権力やらが全て欺瞞的で脆く、それだけに人々は真にリアルなものに執着する。

植民地戦争にかり出されて、様々なトラウマを抱えた兵士は、一人は女王陛下に見込まれ警視総監に、そしてもう一人は悪党の親玉になった。そして二人はその後もなお、「友情」で結ばれている。悪党メッキ・メッサーは警視総監に金を分け与え、警視総監はメッキ・メッサーの悪事を隠蔽する。「持ちつ持たれつ」。利害に塗り固められた友情。それでも二人はそれを友情だと信じる。

メッキ・メッサーと深い関係にあった娼婦は過去にふるわれた暴力にトラウマを持ち、メッキに対する憎しみと愛情とを併せ持つ。そして金のために二度もメッキを裏切る。裏切ったのは復讐のためか、あるいは金のためか。

金、性、生に振り回されもがくメッキ。そしていよいよ処刑されるというところになって、突然女王陛下の、いや脚本家のというべきか、何の必然性もない思いつきのようなもので恩赦が下り、生を得て、さらに貴族に叙せられ、多額の年金をもらえることになる。いったいメッキが執着したものは何だったのか。メッキが生きた世界とは全く無関係な世界の論理で、彼は全て救済される。自らが執着したものの価値の軽さ。メッキの生還を喜ぶ人々の空疎な笑顔。メッキが現存すると信じ、確かにその中で生きてきたはずの世界は消え失せていた。その時のメッキの目に映った色は何色だったのだろう。

「白」だと私は思った。空白。登場人物の白塗りの化粧、そしてラストシーンのキティちゃんのお面、色々な顔を持って生きていても、それらは全て仮面。そして様々な物事に執着し、生きてきたリアルな世界も、最後には全て白紙にされてしまう。灰色の世界とその中で蠢く赤い血潮を最後の最後に全て白く塗りつぶしてしまう。真に暴力的なのはまさにこの「白」。様々な色を持ったリアルな世界を遮断し、キティちゃんのお面のように無表情にその世界を観察する、そんなパラレルワールド。

会場にはタクシーで乗り付ける人多数。公演終了後にもタクシーがずらり。もちろんモーニング娘。コンサートでは見られない光景だ。

2009年05月06日

■ プラチナ9DISCO大阪公演

前日の三文オペラ、そして今日の娘。コンサートで私のゴールデンウィークは終わるとともに、私にとっての娘。春ツアーも終了。東京でしか開催されない「おじぎ」舞台はスルー、夏の「ハロコン」もスルーなので、次はもしかすると8月末の愛垣ディナーショーまで娘。現場はないかもしれない。新曲「しょうがない 夢追い人」発売イベントをどうするかにもよるが。

名残惜しく、寂しい一方で、三文オペラと「連戦」した感想としては、私としては三文オペラのほうがずっとホーム感があった。娘。コンは客、会場スタッフともに何とも「がさつ」な感じがしてよろしくない。三文オペラの会場にいる方がふつうにずっと心地よかった。コンサートよりも舞台の方が楽しいと思う日が来るとは。それだけ三文オペラが内容的にも私にとってしっくり来た、ということではあるのだが。

さて、私にとっての娘。コンラスト。私にとっての「本番」は福井公演だったので、今日はいわばお見送り公演。大阪厚生年金大ホール三階はやはりどうにも距離が遠くて、必ずしも良会場とは言い難かった福井フェニックスホールのほうがずっと楽しみやすい意味もあった。これまでは大阪厚生年金大ホールで満足していたけれども、できれば他の会場の方がいいかもなあ、とあらためて思った。

今日の高橋愛。おでこを出していたこともあって、かなり幼い雰囲気で可愛らしい。個人的に愛ちゃんにはもうちょっと別な雰囲気を求めているところもあって、可愛い娘なら他のメンバーでもいいかな、とも思ったので、福井公演と比較して他のメンバーを多く見ていた。愛ちゃん自身は元気そうで、楽しそうで、いい感じだった。ちなみに歌い方を変えたらしい「夢から醒めて」は、涙も流さなかったし、福井公演と比較してそんなに変わった気はしなかった。音程・発声ともに安定していたし、そういうものとしてはよいパフォーマンスだったと思う。ただ変わったというパフォーマンスも感じたかったかな。

今日は田中れいなが目についた。界隈では評判がいまいちなところもあるようだけれども、私はいいと思っているソロ曲「美学」、今日もきらきらと輝くようなパフォーマンス。ソロアイドル歌手田中れいなを見てみたい!という思いを強くする。

対照的にややおとなしく感じたのが久住小春。ライブが続いていてお疲れらしいという話もある。それはそれとして、そうしてきゃぴきゃぴしていない小春はこれがなかなか美しい。ちょっと見とれる。

パフォーマンスはやはり全員ここ数年のレベルアップが顕著に感じられて、とても安定していた。新曲「しょうがない 夢追い人」などはどのパートにも隙がなくて、変な引っかかりを覚えることなく、安心して歌の世界に入っていけた。そしてそうして聞くとこれが実になかなかいい。娘。コンサートで、娘。全員のパフォーマンスで純粋に歌だけでじんとくることは実はあまりないのだけれども(必ずしもネガティブな意味ではなくて、ダンスを含めたビジュアルの締める部分が大きいということ)、この曲は歌だけでもちょっとよかった。

MC。メンバーが撮ってきた写真をネタにあれこれしゃべる「プラチナフォト」コーナー。これまではジュンジュンと小春が担当してきたのだが、今日はジュンジュンと田中れいなになっていた。そしてジュンジュンの写真紹介。たこ焼きとスイーツ。もしや、と思ったら、果たしてなっちこと安倍なつみの差し入れらしい。れいなによれば、突然「元気ー」とかいって入ってきて、差し入れを持ってきたらしい。そしてそのとき、安倍さんは既に舞台化粧済み、つまり白塗りの顔。ちょっと驚いた、とか。と、ここまではいい話なのだが、れいな、ジュンジュンに向かって突っ込む。「どうせ撮るものがないから、食べ物でも撮っとこうとか思って持ってきたんでしょうが」。ジュンジュン「違いますよ」と必死に否定。安倍さんに失礼、ということでこのトークのいきさつは安倍さんには内緒、とお願いされました。言いつけたっと。

一人トークコーナー、昼公演は光井愛佳。タクシーに乗ったら運転手に子持ちと間違えられる。そんなに年上に見えるんですかねえ?と。夜公演は高橋愛。「ヤンタン」で共演している村上ショージさんの経営している?食堂村上食堂の話。ステーキが500円とかで、肉が実に薄いとか、キュウリもむこうが透けて見えるぐらい薄いとかそんな話をさんまさんから聞いて、機会があったらいつかいってみたい。「明日〜」と会場から。「いやいやいや」。

ラストMC。亀井絵里は客から「エー」とブーイングされるのが快感らしい。ということで、今日もぐだぐだトークをしては「エー」とブーイングされていた。亀ちゃん、とてもうれしそうだった。

愛ちゃんのなっち話が聞けなかったのは残念だったけれど、愛ちゃんソロMCも聴けたし、れいな・ジュンジュンのなっち話も聞けたので、MC的にも満足かな。

というわけで、私は合計5公演、娘。さんたちは3月末から5月10日まで、まだ少し日程は残っているけれども、とりあえずお疲れ様でした、ということで。楽しい時間をありがとう。

■ プロレタリアの世界からこんにちは

会場前、我々の同志が集っている。そしてその同志をなにやら猿山の猿を見るような視線でみる人たち。中にはわざとらしく晦渋な顔をしている人もいる。何者だろう。

会場前の張り紙を見ると我らが集いとは別に「三文オペラ」なる舞台をやっているらしい。かすかな記憶をたぐるにこの舞台、共産主義者として名をはせた劇作家ブレヒトの作品だという。そんなブレヒト劇をいかにも有閑層とおぼしき人々が衒学的な雰囲気を漂わせて鑑賞に来る。皮肉なものだ。

年齢も高めだ。老夫婦という風体の人も多数見られる。今更共産主義でもあるまい。真に革命的なプロレタリアは若者の中から生まれる。女性比率?女性が多いというのがなんだというのか。真の共産主義的革命においては男女などという差は解消されなければならない。しかし現に生産労働を主として担っているのが今なお男性である以上、革命的プロレタリアの養成は男性において先行する。若い男性、まさに革命的プロレタリアが生み出されるべき集団を我々は擁しているのだ。欲を言えば、もっと若さがほしいところであるが、資本制労働の矛盾を一番に受けている世代が多くいるこの年齢層も捨てたものではない。

私のつまみ食い的知識によれば、ブレヒト劇は鑑賞者に批判的精神を呼び覚ますことを意図しているらしい。主体性の確立、それは未だブルジョワ的ユートピアの反復に過ぎない。真に革命的プロレタリアはそのような屁理屈など不要なのだ。頭で考えるのではなく、まず体を動かすこと。そのリズムを、労働へ向かうリビドーを増幅させること。それには音楽が適している。まして対象が鬱屈した男性だ。華やかな女性の舞踊を加えればよりよい。これこそ真の革命的プロレタリアに必要とされるべき精神の養成手段なのだ。

(編注:以下意味不明な左翼プロパガンダが続いたため削除)。

■ 非批評的態度とは

自分はアンチではない、といいきる人間の厚顔さ。

否定的なことを書いてもいいのだ。しかしそのとき、「自分のやっていることはアンチ的行為かもしれない」という可能性を留保に置きさえもしない、他者にネガティブな評価をすれば、それはそのまま自分に返ってくる、それだけの覚悟すら持たずに、辛口だかなんだかの批評とやらを開陳してみせる、そんな厚顔さ。

そして最悪なのは、自分の中で既に結論が出ていること(誰某が好きではない)を反復するためにそのネタを探してきて反復すること、それをアンチ的言説といわずしてなんなのか。自分の実感にあわない「ネット投票」結果は信頼できないとわざわざ言及し、自分の実感にあう投票結果は信頼に足るいうとか。そういう連中がアカデミズム気取りで跋扈するこの界隈。


あと「アイドル」とか「ヲタ」とかいうタームを隠れ蓑にして個人の感想を語るのもどうかと思う。一度そういうのは使わないで徹底的に「私」を主語にして目の前のパフォーマンスについて語れば、また見えてくるものが違ってくるんじゃないのと思う。特に「ヲタ」を主語にして語られても、「ヲタ」概念が不明確なままで、結局言説責任主体が拡散しているだけにしか見えない。その感想は誰が語っているの?誰の感想?「アイドル」概念も同じ。自分の好みに合うものを無批判に「アイドル性が高い」とか評価しているだけじゃないかという可能性は考えてみるべきだと思う。

私の好みを語ってはならないといっているのではない。逆だ。私の好みを、私という限界、好みという限界をふまえた上で、一般的な言語として表現する作業、それこそが文化批評の出発点となるはずなのだ。


結局亜門「三文オペラ」のメッセージとして私が受け取ったのは、状況に「関わり」ながら、自らの「顔」を持たない存在(キティちゃんのお面をつけた人々)の不気味さ、ということかな。

ブログなどの語りに於いては、客観的な分析者とか「ヲタ」とかに隠れて、意図的に顔を隠しているケースもあれば、単に「ヲタ仲間」に埋没してしまって、その価値観の反復をするだけになってしまっているように見えるケースもある。

今一度、ものを観察・鑑賞するということ、そしてそれを語るということについて、もう少し突き詰めて考えてみたい。

2009年05月05日

■ ハッピーエンドだ。さあ、喜べ!

今まで見た演劇舞台の中で一番しっくり来たかな。何というか大学時代の文化を思い出すというか。

といっても、大学時代に舞台にかぶれたとかそういうことはない。ただ大学内にその世界ではそれなりに有名な前衛舞台のメッカみたいなのがあったりして、そういう空気はそれなりに嗅いでいた、というぐらい。しかしそういう空気感というのは不思議なもので、この劇が始まってまもなく、スクリーンに新聞のコラージュが映し出される演出を見た途端、一気にそういうモードに入っていけた。さらに舞台を見ている客席をモノトーンでスクリーンに映し出す。見ている「私」を客観視せよというメッセージか。

ある種の舞台というのは、多分(ストーリーとは別の)メタメッセージが伝わるか否かに勝負を賭けている(強いていえばトゥーランドットとかシンデレラは「愛」の力とかそんなの。まあこれはメタメッセージという感じでもないが)。そしてこの三文オペラの発するメタメッセージとは、もちろん資本主義・拝金主義批判というのもあるだろうが、それ以上に、演じられる舞台と見る観客との予定調和な関係を崩すこと、そこに力点を置いているように感じた。

たとえば、コンサートなどでの客席は常に一体感があって、そして目の前のライブは常に「最高!」といい、目の前にいる歌い手、グループのパフォーマンスなど見ていなくても、その歌い手、グループへの愛を語るその予定調和的な語り。その一方で愛とやらを持ちきれていないグループ、メンバーのパフォーマンスへは小姑のようなケチをつける。欠落しているのは、ステージを見ている観客自身に対する批評精神。「内輪」でお約束となっている感動を再認する儀式。結論はステージを見る前に決まっている。そんなステージ鑑賞態度。ドラマで登場人物の死を見せて、「さあ、泣け!」。そんな空疎なお約束の儀式の反復。

三文オペラでは有名なラストシーン。お前たちはハッピーエンドに終われば満足なのだろうと言い放って、何の脈絡もなく、無理からにハッピーエンドに持って行く。このシーンがこうしたお約束を笑いものにしているのは明白だが、そのシーンに演出家宮本亜門はキティちゃんのお面を用意した。

キティちゃんは実はここが初出ではない。安倍なつみ演じる、いかにもイマドキの、ちょっとイカれた女の子ポリーがキティちゃんバッチをじゃらじゃら衣装に付けている。

まさにこのキティちゃんこそが空疎さのイコンに他ならない。ただひたすら軽薄で、リアルな顔を持たない存在。ポリーはその代表的存在だが、登場人物ことごとくがそうなのだ。主人公メッキ・メッサーを裏切る娼婦は、最初の裏切りの時にはその苦悩を語ってみせるが、二度目も、ほとんど何の必然性もなく、裏切る。登場人物ことごとくがそんな具合で、観客は結局のところ悪人の主役メッキ・メッサーに仮託してストーリーを見守ることになる。彼のみがストーリーの中で確かな実在感・存在感をもっているからだ。

しかしそれが前述のラストシーンで見事に裏切られる。まもなく処刑されるというその緊迫感の中で、唐突に女王陛下の恩赦が下り、さらにあらんことかメッキ・メッサーは貴族に叙せられる。ハッピーハッピー。

そのときのどんちゃん騒ぎの中でキティちゃんのお面をつけた人がぞろぞろ出てきて、踊り狂うのだ。メッキ・メッサーの恩赦を祝して。もちろん踊り狂うかれらには顔はない。感情はない。ただハッピーエンドであるが故にかれらはそれを言祝ぎ、踊り狂うのだ。「さあ、ハッピーエンドだ。者ども、喜べ!」。

安倍なつみについては言うことはあまりない。とにかく薄っぺらで、うざくて、可愛らしい小悪魔=天使っぷりを遺憾なく発揮していた。外向けの演技ではこれまでちょっと気の強いひたむきな女の子ばかりを演じてきた安倍なつみだったが、ようやく「なっち」の本領発揮というところ。ハロプロファン的にはハロモニやら、2006年ぐらいにテレビ東京深夜枠で放送されていたコメディドラマ「絵流田4丁目の人々」あたりで既になじみではあったが。

ちなみにこの舞台、東京公演にモーニング娘。メンバーの高橋愛、新垣里沙、亀井絵里、光井愛佳、リンリンが見に来ていたというレポートがある。歌詞の中に「おまんこ」がどうとか、セリフの中に「下の口ではなくて、上の口にものを入れろ」だとか、そんなこんなのシーン満載のこの舞台、他のメンバーはともかく光井愛佳に見せてもよかったのかなあ。


隣の大ホールで行われていたモーニング娘。コンサートで愛ちゃんこと高橋愛が安倍なつみのことを話題に出したらしい。安倍さんの方から電話してきて、差し入れ、何がいい?と聞いてきたので、「たこ焼き」と答えたら、直接持ってきてくれた、とか何とか。

愛ちゃんのなっち話、直接聞きたかったよ。今日(5月5日)、娘。コンに入って明日三文オペラに行けばよかった、かな。

■ ブルジョワの世界からこんにちは

会場前の公園、なにやら得体の知れない粗野・野卑な集団がいる。何者だろう。

とりあえず当日券を求めて、芸術ホール入り口にはいる。既に当日券を求める人がちらほら。販売開始時間になるにつれて、徐々に人が増えてくる。どこかの界隈が女性比率の高さを競っているらしいが、こちらは圧倒的多数が女性。ちなみにその界隈は「若さ」も競っているらしいが、こちらは大して若くはない。公園前にいた集団の方がかなり若い。その分野卑。こちらは年齢を重ねているだけに、文化を享受するということ、そして教養というもののなんたるかを知っている。そもそも客層が若い、というのはそんなにすばらしいことなのか。ゴミならぬCDを会場前に捨てるような「若者」がそんなに褒めそやされる世界というのも奇妙なものだ。

ちなみに公園前にいた不思議な集団は、こちらの客がひそひそ話しているのを聞けば、どうもモーニング娘。とかいうアイドルグループのファンらしい。大ホールの方でそのアイドルグループのコンサートが行われているらしいのだ。モーニング娘。(笑)。アイドル(笑)。まあいかにもそういうのを追っかけているような集団だ。合点がいった。喫茶コーナーでへそを上にしてふんぞり返って座ったり、我が物顔であちこちに座り込んだり、アイドルを追っかける若者というのは人目というのはあまり気にしない人種らしい。

そういえばこちらの劇にもそのアイドルグループ出身者が出演していると知った。一幕終了後にこんな話し声が聞こえてきたのだ。「ポリー役の子、なかなかおもろいやん」。「ああ、あれ、安倍ちゃんやろ。ほら、モーニング娘。の」。ちょっと得難いブリッ子(死語)ぶりを見事に表現していて、たしかにアイドルそのものだった。アイドルをバカにしてはいけない、とちょっとだけ反省もした。

終演後、会場を出ると、人は少なくはなっていたが、未だ件の集団がゴロゴロたむろしていた。まだコンサートはやっているようなのに、喫茶コーナーとかを占拠して、大声ではしゃいでいた。そしてグッズ売り場には長い列。不思議な光景だった。

思えばこういう野卑な若者にこそ、真に前衛的な共産主義的精神をたたき込まなければならないはずだ。なのにチケット代金1万2千円は高すぎるだろう。とうていこの若者たちの手が出せる額ではあるまい。モーニング娘。とやらのコンサートなど二束三文の値段だろうから。真っ当な文化を享受できるのは一定の所得のあるもののみ。これこそ格差社会というものなのか。残酷なものだ。

えっ、モーニング娘。コンサートのチケット代金6800円!?。しかも昼夜連続して鑑賞するもの多数?。高度資本主義社会、現代日本。不思議な社会だ。

■ アートな空間へ

定額給付金をつぎ込みました。

偉大なる政治家、麻生誠万歳!

■ 迷うなぁ〜! ビッグなの?アーティスティックなの?

急遽大阪厚生年金会館に行くことにした。

さて大ホール、芸術ホール、どっちに入るのでしょうか?

■ いいわけ

なっちこと安倍なつみがラジオでなにやら裏切りにあって、大泣きしたという話をしていて、界隈で微妙な波紋を呼んでいたりする。

すみませんでした!!!

悪いのは私です!私が裏切るようなことを言ってしまったんです。

ほら、4月1日の更新で、一推しを変えたとか言っちゃったじゃないですか。あれがエイプリルフールネタだって、なっちは読めなかったんだよね。ごめんよ、なっち。あれはジョークだから。もう11年ずっとなっち一推しできているんで、そんな今更一推しを変えるなんてあり得ないから。・・・

(編註:以下、意味不明な妄想的いいわけが続いたので、削除した)。

2009年05月02日

■ 購入品記録+購入予定

かなり前の分から。

Hello Project 2009 Winter「ワンダフルハーツ・エルダークラブ公演」

ワンダとエルダが一つのパッケージになっている。例年ワンダはほとんど興味なし、とエルダのDVDから見るのだけれども、今年はワンダのDVDをトレーに乗せる。

「Take off is now!」の高橋愛の振りがなかなか、というレポートを読んでいたこともあって。んー、でも衣装がイマイチかな。娘。単独コンサートの時の方がやっぱりいいかな。他、娘。関連以外は早送りの連発で、あっさり見終える。やっぱエルダだな。

「十年愛」、「青いスポーツカーの男」などちょいマイナー目な曲もあったりして、んー、やっぱエルダだな。今年で最後だというのに、なんとなく昼公演だけで帰ってきてしまったけれども、私の好きなハロプロはこっちだったと再認する。

Hello Project 2009 Winter「アワー'09 エルダークラブ卒業スペシャル」

私がステージの真横から見た公演のDVD。ようやくまともに見られる。当然DVDというのは特等席から見ている感じになるのだけれども、これまた当然のことかも知れないけれども、生で見たときの感慨とは全然気持ちの入り方が違う。開始早々から早送りしているし。

5期を除いて、娘。卒業メンバーと現娘。メンバーとの連帯感がいまいち希薄な感じで、こうして過去との断絶を演出していこうとする「革命」というのは何だったのだろうという思いが再燃する。

今後の購入予定。amazonの注文履歴より。

  • モーニング娘。コンサートツアー2009春〜プラチナ9DISCO〜[DVD]
  • NHK TVドラマ「Q.E.D. 証明終了」BOX[DVD]
  • 高橋愛写真集「私」
  • 未定[DVD](高橋愛イメージDVD)
  • しょうがない 夢追い人(初回生産限定盤A)[Single]
  • しょうがない 夢追い人(初回生産限定盤B)[Single]
  • しょうがない 夢追い人[Single]

え〜と、私は間違いなくなっちファンです。

なっち関連商品が出ていないんだもの。しょうがない。

■ 予定と予算と

なっちこと安倍なつみ、Summer Live Tour 2009〜やっぱりスニーカーがすき!〜。うーん、いまだにツアータイトルがなじめない。

とりあえず大阪公演昼夜チケット入手。あとは8月初めの東京厚生は行くとして、翌週の山梨河口湖はいかんせん。一昨年は広島・福岡、昨年は仙台と旅しているのだから、今年は福井・山梨というのも悪くはないか。七夕の神奈川OTODAMA SEA STUDIO開催回も興味はあるけれども、「荒天中止」とか「写真付身分証明書」が必要とか、色々敷居が高いので、こちらはスルー。

とりあえず予定はそれぐらいかと思っていたら、なんと高橋愛・新垣里沙でディナーショーとは。娘。八月は、今年は何の予定もまだ入っていないので、何をやるかと思っていたら、シンデレラ漬けだった昨年と比べるとしょぼいけれども、そう来ましたか。大阪でも開催されるということで、たぶんチケットは取れるだろうから、是非行かせていただきましょう。愛ちゃんの素っ気ないぐだぐだ振りをフォローするガキさん、これは見ずにはいられない。

さらにまっつぅこと松浦亜弥の秋ツアーの日程が出ている。昨年が春ツアーだったから丸1年以上ツアーがなかった。ドラマ「クイズショー」出演のため、ということのようだけれども、あの程度の登場頻度だったら、平行してやれそうなものなのに、と思ったりも。昨年秋は関東圏しか相手にしていなかったり、それでも頑張って行った六本木STBライブが非FC会員、非リピーターにとってはやや楽しみにくい内容だったりで、やや醒め気味。今年は予算もほとんど計上していないので大阪昼公演に行くぐらいかな。

というところで、今年初頭に立てた予定と比べて、なっち河口湖が予定外の出費になりそう、というぐらいで、今のところまずまずいい感じに収まりそうか。

愛ガキのディナーショーなんて予定に入っていたのかって?ふふふ。こんなこともあろうかと、高橋愛特別予算3万円を別途計上しておいたのさ。ん?全然足りない。ああああ、ドラマ「Q.E.D.証明終了」DVD Box14000円(amazon)也を予約済みだったー!

■ 無い物ねだりしても しょうがない

夢追い人

性格的な部分にかかわることなんて、簡単に変わりゃしないわけで、そういうものとして、あるいはそうであるからこそ、面白い、好きだ、という人もいるわけで、そういうところであれこれ言っても生産的だとは私は思わないのだな。

ということで、モーニング娘。新曲、「しょうがない 夢追い人」PV。