重層的非決定?

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2004年12月04日

■ 言説の暴力性

体調がよくない。なっち問題に心を痛めて、ではない(はず)。ただこれに関連する記事をネットで読むためにやや夜更かし気味なのが問題か。

どうせいいこと書いていないのだから読まなければいい、のだが、一応ネット言説を観察対象にしている関係から、まさに主観的には当事者たるこの問題の言説の流れを見極めることを放棄できない。それこそ安倍ヲタと言説観察者と双方としての意地だ。

人のうわさも何とやら、一時に比較すればやや沈静化しつつある。それにしてもネット言説とは何なのだろう、と改めていまさらながらに思う。その問題に対して、特別な思いも持たず、最低限の状況確認もせず、己の言葉の持つ効果についての配慮もなく、ただただ思いつきだけで投げ出される言葉の連なり。ある意味まさに「言説」のお手本だということにはだいぶ前から気づいていた。しかしそれを改めて(主観的には)当事者として読んでみて、その暴力性にいまさらながら愕然とする。少なくとも私は配慮してきたつもりだ。本当か?お前の吐き捨てている言葉だって、今お前が愕然としている言葉の一つなのだぞ。

誰もが己の思いを簡単に言葉で世界に向けて発信できる。その気安さが二重に安倍なつみを苦しめる。自分自身、発信してはならない「作品」を発信したこと、そして問題にあまりにも安易に投げかけられる「第三者」からの言葉の無作法さ。

「ペンの暴力」とはマスコミへの警鐘としての言葉だったはずだが、「キーボードの暴力」はネット言説への警鐘として、多少なりとも考える時期に来ているように感じる。

投稿者 althusser : 2004年12月04日 00:00

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