2004年10月31日
■ 理論の反復
美しい。というのは皮肉に過ぎるのだろうか。社会学理論がこうも見事に現実を言い当てていると、なんだか悲しさを通り越して笑いさえこみ上げてくる。
差別理論にあるセジウィックの「クローゼットの認識論」。ある権力磁場の元では従属的な立場にいるものが可視化され、見世物化され、ますます従属的な立場に追いやられる。今は出先なので詳細は確認できないがそんな筋書き。
島田紳助の一件を聞いて、すぐにそうなるだろうな、と予測がついた。そして実際にネットでいろいろ見て回ると見事にそういう言説空間が成立していた。散々やっただろう、横山ノック事件で。ネットでものを物す一人として、わずかでも抵抗しておこうと思った。
私は告発を100%字義通りに信用せよ、などといっているのではない。被害者は被害者なりに、加害者は加害者なりに、少しでも己に有利になるようにものを申す。それは当然のことだ。ただ告発というのは、「直訴は死刑」という心性をいまだに引き継ぐ日本においてはとりわけ、非常な困難を伴うものだ。現にこのマネージャーだって、批判している人がそう期待しているように、どう考えても会社内での立場は悪くする。意地で簡単にやめるまい、とは思うが、針の筵だろう。それをさらに周りの言説が包囲する。告発を疑問視し、告発者を可視化しようとする言説は逆に、例えば紳助がもし本当に暴力を振るっていたのなら、どのみち裁きを受ける、だからそれに関してはもういいではないか、などとして「加害者」を守ろうとする。しかしそれを可能にするためには、最初の「告発」が必要だったのだ。
繰り返すが告発はリスクを背負って行われているのだ。その内容が正当であるか否かは当然慎重な調査を要する。ただせめて土俵に上がることだけは認めなければフェアではないではないか。
何が真実かなどというのはメディアを通してではわかろうはずもない。具体的な調査を経て明らかになるやも知れないし、ならないかもしれない、そういうものだ。告発者が、あるいは加害者と名指された側が、嘘を言っているのだとすれば、それは具体的な調査の中で明らかにされるよりない。それを外野があれこれ想像でものを言うのは、よほどの覚悟がなくては言うべきではない。
だから少なくとも私はディテールに関しては憶測でものは語らない。単に告発がなされ、そして加害者と名指された人物がそれをディテールはどうあれ、大筋で認めた。それで外野の批評の素材としては十分なのだ。告発者をそれ以上に可視化しようとする言説は抑圧的でしかない。
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