重層的非決定?

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2005年06月07日

■ 靖国神社

この先の記述は政治的な話題を含みます。あしからず。

靖国神社、A級戦犯分祀問題。

私は反対ですね。いや、別に靖国神社側が突然「やっぱA級戦犯は祭りたくないっす」とかなんとかいいだして、放り出すというのは別に咎めはしない。が、政府が介入して分祀だなんだというのは賛成できない。

政府が一宗教法人にそのような介入をすれば、それこそ政教分離の原則はどうなるのだ、ということだ。そうして分祀したらそれで靖国神社は政府お墨付きということになってしまう。それは靖国神社がどうという以前に政教分離に反する。

そもそも、だ。靖国神社という神社はA級戦犯を分祀するとかしないとか、そういう次元で「問題」なのではない。A級戦犯が祭られている、というのは問題の表象であって、原因ではない。そこを分祀論は完全に取り違えている。靖国神社とは、その名から成立の経緯から、祭られているものの選別から、その全て、骨の髄にいたるまで、「お国のために命を賭すのは崇高なことである」という価値観に彩られている。たまたま東京裁判で「A級戦犯」と認定された人間が祭られているとかどうとかそういう次元で問題なのではない。国家と「私」との関係に対する思想全体にかかわる問題なのであって、そうしたなかで民主主義・平和主義・政教分離を標榜する日本国家において、公的な意味合いを担わせることが良いことなのかどうか、そして「私」たち個人が靖国神社が体現している思想をどう評価するのか、それらが問われているのだ。

私の結論は簡単だ。前者に関しては端的に否である。もちろん思想信条の自由というのはあるから、一宗教法人として靖国神社なるものがあるのは一向構わない。しかし公的な形で何らかの役割を担う、というのは、右とか左とかの思想対立とは無関係に、近代国家としてありえないことである。この簡単な原則を朝日新聞あたりに寄稿する「良識派」が忘れていたりするのは何たることか。いかに妥協であっても政府の介入する「分祀」論はありえないはずなのだ。

後者に関して。軟弱非国民を標榜する私にとって靖国神社的なるものは個人として受け入れる余地はまったくない。「戦争で命を落とした人を偲び、平和への思いを馳せる」という感性もあるらしいが、それを否定する気はないが、平和とは今生きている人のためのものであって、靖国神社が体現している思想は、今、そして未来のあるべき(と私が思う)国家観とは完全に対立しているので、死者を言い訳に靖国神社的なるものに敬意を表する余地はまったくない。

最後に。中国・韓国との関係について。私は基本的には、「それ」以前の問題として処理されているので、私個人の判断としては中国がどういっているとかはあまり関係はないのだが、早い話中国がかりに「靖国万歳」と言ったとしても、私は靖国神社を認めるつもりはないのだが、利用できるものは利用するというのも立派な戦略であり、リアリズムだ。そしてまた外交、それにかかわる「国益」というのも徹底したリアリズムが要求されるはずだ。それからして、小泉及びそれを支持する人たちは、「平和主義」に対しては「左翼」のロマン主義を哂うくせに、この場面ではずいぶんとロマン主義に徹するじゃないの、と笑い返してやればそれでいい。

投稿者 althusser : 2005年06月07日 00:00

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