重層的非決定?

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2005年08月05日

■ 何を守るのか

上のことにも少し関係するのだが、一般的に言って当事者というものは譲れないものを持っているものだ。むしろ逆にそれこそが当事者の定義だと言ってもよいぐらいだ。

しかしそうはいっても、同じ当事者の間にも余力の差はある。まず持って己自身を守ろうとするのは、何にせよ余裕のない状態であって、それは時に見苦しく見えようとも、そうせざるを得ないだけの必然性があるものだ。それならば己自身ではなく、「正義」を守ろうとするものの方こそ、余裕を持って事に当たらなければならない。「正義」「大儀」を掲げて物事に当たるのもよいが、その「余裕」だけは確保しないと、それによって抹殺されてしまうと感じるものがいたりするものだ。それを「わがまま」だ何だと切り捨ててしまうのはプチファシズム、「焚書」運動につながる。

投稿者 althusser : 2005年08月05日 00:00

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