2004年12月30日
■ 正義の掃き溜め
最近つらつら考えるのは、倫理的な公準においていまや「善悪」「正義・不正」という二元論はもはやその価値を失っているのではないか、ということだ。それを強く考えるきっかけとなったのはイラク香田さんの時の2ch・ブログの反応を見たことだ。
あの一件を正しいか、間違っているかで論じることの意味はどこにあるのだろう。「正しいか、間違いか」と聞かれれば、どこにも「正しい」ものは無い。彼がイラク入りしたのも間違いだったし、もちろん彼を拉致し、殺害した犯人たちも間違っている。しかしそうして両者「正しくない」と評価して見せて、それでどんな意味があるのだろう。少なくとも香田さんの「間違い」は、いやおうなしに彼自身がその結果を負う事になった、それ以上に*我々*が何を付け加えることがあるのだろう。
私はだから、この問題には触れるべきではなかった、と言いたいのではない。むしろ本質的には問題の映像は、広島・長崎の残忍な写真と同じ意味でもって、「日本人」は見るべきだとさえ思っている。「本質的」と断り書きを入れているのは、今はまだなお遺族の心情を慮る必要も一方であると思うからだ。
その上で私はこの問題は「正しい」「間違い」という公準で語られるべき問題ではない、と思うのだ。こうした判断は、それで自分は事態を客観的に整理し、理解したのだ、という印象を自らに持たせてしまう。感じること、考えることを停止していしまうのだ。もちろん何も感じていないわけではない。ただその感じている印象を、その場の場当たり的な「快・不快」「好悪」というこれまた二元論で整理してしまい、その判断を「正しい」「間違い」の二元論に密輸入してしまう。そうして一時的な印象が、直ちに最終的な客観的判断に摩り替わる。粗野な第一印象を捻じ曲げたものが正しいか間違っているかの判断結果となるのだ。
結果が出てしまえば、あとは簡単だ。結果から逆算して、様々な、しかし場当たり的かつ恣意的な事象をその判断に従ってあげつらえば、それで物事は語れる。いっぱしの批評家にでもなったつもりで、己の「快」を正義になぞらえて、事象をぶった切れる。
もちろん「快・不快」とは己の内面の発露に他ならず、要するにやっていることは己の精神状況を外部に投影させているだけだ。
本来の「不正」の告発とは客観的立場からなされるものではない。「告発」とはある特定の、利害関係などを含んだ、それだけに切実な立場に立って行うことであって、最終結果でもなんでもない、始まりでしかないものだ。そうした過程を全て省いて、ただの野次馬が行う「正しい」立場からの告発などは、糞餓鬼の妄想レベルのものでしかない。
今、正義などという胡散臭い言葉が最も満ちている場のひとつが、2chである。
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