重層的非決定?

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2008年08月14日

■ 君はユートピアを見ようともしないのか

「ヲタ」「一般人」葛藤話の続き。

この話のポイントはこの問題においては「一般人」側は何も考えることはなく、何も妥協する必要がないということだ。単に「あいつらうるさい」「邪魔だ」「何とかしろ」とだけ言えばよい。それで「ヲタ」集団に一定のダメージを与えることが出来る。「ヲタ」がそれに抵抗したところで、結局応援対象アイドルの活動を狭め、自分たちの首を絞めるだけのことだ。これは構造的にそうなのであって、「ヲタ」集団は負け戦を戦うしかない、というのはそういうことだ。「ヲタ」と「一般人」と双方が妥協点を探っているのではない。「ヲタ」の妥協を「一般人」は要求し、それがかなえられなければ(アイドルごと)排除するだけのこと。「ヲタ」側が妥協・変化をすることを拒否したら、それでゲームセットであって、結果はベリキュー可哀想、となるだけであって、それでも変化はあり得ないとする人はもはや「ファン」とはいえない、はずなのだけれども、そうは思わないのが「アイドルファン」なのか。

もう少し前向きな話を。

まずは理想状態、ユートピアを想像してみよう。そしてそのユートピアに向かう力学を現実から析出すること。その力を現実の場において編成すること。

二つの集団に葛藤がある場合、両者に共通の利益をもたらす方向性が提示できれば、それが一番理想的なのだ。それは机上の空論でしかあり得ないことだろうか。私たちはユートピアを見たことは今までになかっただろうか。

「音楽」である。しかもポピュラー音楽である。堅苦しいことは何もない。本来から言えば単に音を皆で楽しめればよいのだ。

それが何故簡単なことではなくなるのか。細分化・専門化が進むからだ。音楽を楽しむ集団間においても細分化・専門化が進行し、集団内外での差異化戦略が発動される。例えばクラシック音楽にはクラシック音楽の作法が作られ、それを理解できないものを排除して、集団の正統性・高尚さを誇る。そしてこうした差異化戦略は各音楽ジャンルにおいて進行していくのだ。

アイドル歌謡といえども例外ではない。内部のタームを駆使し、作法を確立し、集団としてもまとまりをほこる。意識するしないにかかわらず、そこには一定の差異化・排除の戦略が動いている。これは集団としての確たる行動規範となる。モーニング娘。でいえば「シャボン玉」の冒頭は「愛する人はれいなだけ」と叫ばなければならない。こうした細かく、外部の人間には理解できない規範が次々に立ち上がる。

場内部で楽しむために作られた規範が、その規範を守ることが楽しみとなる。これは一種フェティシズムであって、その信仰を弱め、規範をもっと柔軟に運用すること、場の広がりに応じた規範の運用が出来ることが求められているのだ。

理想論を続ける。要するに問題は「楽しみ」と「規範」が転倒・逆立していることだ。それを解消し、場に応じた「楽しみ」を構築すること、そしてそれに応じた「規範」をその都度編成すること。

今回のケースで言えば、花火会場に出てきたベリキューステージを「ヲタ」の閉ざされた場とするのではなく、「ヲタ」「一般人」双方を巻き込んだ場として定義しなければならない。「ヲタ」に求められるのは妥協ではなく、「楽しみ」の構築であり、「規範」の再定義である。

これは単なる理想論、机上の空論でしかあり得ないのであろうか。私たちはこのようなユートピアをただの一度も目撃したことはなかったのだろうか。特に熱心な者・集団(要するに「ヲタ」)が先導して場をもり立て、それを多くの者(「一般人」)が追随して楽しむ。野球の応援、2000年前半のハロプロ、ほころびはあってもユートピアは確かに見えていたのではないか。ほころびは大きいかも知れないけれど、「シンデレラ」現場でもその萌芽は見えているのではないのか。ベリキュー現場だけそれを「あり得ない」として切り捨てるこの傲慢さは何なのか。

特にポピュラー音楽、「一般人」側からすれば堅苦しいことは何もない、まして前の「ヲタ」が席を立つために「見えない」と不満を感じる「一般人」、出来れば見て、楽しみたい気があったということ、「一般人」側の条件は整っている。

問題は「ヲタ」の側だけだ。それを「ヲタ」の都合だけですべて台無しにする、応援対象のアイドルを巻き込んで台無しにする、それほどのリスクを背負ってまで守られなければならない「ヲタ」の論理(倫理)とは何なのだ。

投稿者 althusser : 2008年08月14日 14:41

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コメント

ご返答ありがとうございます。
>「ヲタ」の閉ざされた場とするのではなく、「ヲタ」「一般人」双方を巻き込んだ場として定義しなければならない。
「閉ざさない」ことの重要性は痛感します。ただ、「シンデレラ」と「ベリキュー現場」の様々な環境の違いはかなり大きいです。僕は現場でユートピアを夢想することはできませんでした。
ただし、ユートピアに近づける努力はしなければならない。それは強く感じます。例えばハートプロジェクト様(http://blog.heartproject.net/)がこうした動きに反応していただいていることは大変ありがたいと思っています。

投稿者 onoya : 2008年08月14日 20:00

ご返答ありがとうございます。
「閉じない、開かれること」の重要性は痛感します。
ただ、「シンデレラ」と「ベリキュー現場」の環境の諸々の差異はかなり大きいと感じます。私は、当日の現場で、(自分も含めて)個々のヲタが主体的にその場の規範を構築していくことは望めないのではないか、と絶望しました。
ただし、主催者に超越的ルールを丸投げするのではない方策もありうるのではないか、とは思い始めています。例えば、僕を含めたブログでの動きに対し、ハートプロジェクト様(http://blog.heartproject.net/)のように反応していただけるのは大変ありがたいと感じます。そうした中で、他者(一般やアイドル)との関係を良好にするべくヲタの規範が構築できていければよいのではないかと考えます。

投稿者 onoya : 2008年08月14日 23:34

すみません。
MovableTypeのコメントフィルターに引っかかっているのに気づきませんでした。
とりあえず「閉じない」こと、それをいかに模索していくか、がポイントだろうと思います。

投稿者 はたの : 2008年09月04日 10:41