重層的非決定?

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2005年01月27日

■ 世界革命へ

ハロプロ関係のファンサイトでは「推し順」を公開している人が多い。私はあまり順位付けを厳密にやるというのが好きではない(上位はともかく、下位までそれをやるのは下位に順位付けをしたメンバーに対する否定的表現に他ならない)ので、それをサイトで公表するとか以前に、己の中で順位をつけることも敢えてしないようにしてきた。

とはいっても今現在、なんとなく気になるメンバーを挙げておくぐらいのことはいいんじゃないか、そうでないと安倍なつみ「右翼」(ハロプロ界隈の用語で「DD」の対概念とされる。なぜか「左翼」という言葉は使われない)と思われるだけというのも癪に障る。もちろん私は「右翼」ではなくて単に原理主義者にほかならず、もっと言えば安倍なつみ「トロツキスト」なのだが、「革命家」が禁欲的でなければならない、というのも悪しきスターリニズム、ここは敢えて享楽的な側面も押し出すべきであろう(などと屁理屈をつけてしか「萌え」話ができない様を笑いたければ笑え)。以下、順不同(偶然に思いついた順)。

ミキティこと藤本美貴。加入当初は安倍さんの天敵ともうわさされる。私はそういう(他人の)揉め事が大好きなので、ソロのころより注目度大幅増。なんというか、「男の子」好みのさっぱりした雰囲気がよい。安倍さんが面白くもない話を一生懸命しゃべってくれるというイメージなのに対して、藤本さんはこっちの話をダル気に聞き、最後に「ふーん」と冷たくあしらう、というイメージ。オジさんもミキティに冷たくあしらわれてみたいです!

愛ちゃんこと高橋愛。安倍なつみをボケ方向に大幅拡張したバージョン。安倍さんが、本人的には空気を読んでいるつもり(で実はずれまくっている)のにたいして、高橋さんは「空気」なる概念を知らない感じ。周りをしばしば呆然とさせるが、本人はまったく気づかない。安倍さんとの相性は悪い。というか、安倍さんは高橋さんに冷たい。あのずれ振りが(自分は棚に上げて)気に入らないのだろう。

マサオこと大谷雅恵。私の中でハロプロ内で恋人にしたいNo1。友達がいなくて、家に引きこもっているのが好きで、愛想がなくて、笑顔が硬くて、髪型がいびつで、ある意味安倍さんとは対極的。ThinkPadT40も愛せるけれど、Let'snoteR3も愛せる、ということで。

続きはまた気が向いたときに。

■ 右翼はいても保守主義者はいないらしい

うたばん。かおりこと飯田圭織最後の出演。なのにテレビ欄には「モーニング娘。」の「モ」の字もない。

モーニング娘。出演場面はこの番組定番のクイズ。それはそれで面白かったが、飯田さん卒業企画はないの?

それでとある大手娘。ファインサイトの掲示板を見に行く。さぞかしこのことで紛糾しているだろうと思いきや、後藤真希のアルバムに松浦亜弥がシングルリリースしたばかりの「渡良瀬橋」が収録されている、とかいう事でなにやら紛糾していた。そんなのどうでもいいだろう。オリメン最後の出演がこの扱いだよ?もっとこう、なんというか、「歴史」に対する敬意みたいなのが欠落していないか?

■ 自宅サーバ

なっちこと安倍なつみの話題も落ち着き、あとは2月11日(多分)の復帰を粛々と待つのみ。

と、それはそれとして、ここ数日は自宅サーバ作りに時間を取られる。「自宅サーバ」といっても仕事半分。

今後の仕事に使うサーバを用意しなくてはならなくなって、取引先の人からNAS(ネットワーク接続ストレージ)をLinuxBoxとして使おう、と提案される。「Mac miniというのもありますが」と言ったら「Mac?ふん」と鼻であしらわれた(ように私には感じられた)ので却下。結局ネットその他でLinuxBox化で盛り上がる「玄箱」を購入。アイオーデータのLANDISKシリーズとの比較が問題だが、情報量の差を考慮して「玄箱」に決定。

ネットで出尽くしている方法を用いて「玄箱」にLinuxのDebianをインストール。きちんとパッケージ化してネットで配布している方がいて、大助かり。Debianが入ってしまえば跡はアプリケーションのインストールは楽勝。Apache,Samba,PHP,Postgres,Webminをざっくりインストール。ただ一点PHPのバージョンが古すぎ。Debianのstableは更新が遅かったと思い出して、unstableに切り替える。

ここまでは先人たちの知恵のおかげで比較的ざっくりと進むが、問題は肝心のJAVA。CPUがPowerPCである、ということの意味を失念していた。まずSUNがPowerPC版のJAVAをまともにサポートしていないようなのだ。イタタ。結局IBMのサイトからインストール。早速5行の「Hellow World」プログラムを書き、コンパイルして実行するが、、、、。遅い。信じられないぐらい遅い。これではTomCatによるサーブレットなんて使い物になるのか?大いなる不安を抱えつつ、JAVAの作業は中断。とりあえず外部からウェブでアクセスできるよう設定。ルータに穴を開けて、無料ダイナミックDNSサービスに登録。PHPベースでなら、文句のないウェブ環境が出来上がる。

それにしてもLet's Note、玄箱と立て続けにお金を払っているが、元は取れるのだろうか?

2005年01月22日

■ THE マンパワー!!!

Mステーションでモーニング娘。の新曲を見る。

なかなかいいんじゃないですか。久々に「黄金期」の娘。を髣髴させる雰囲気で、メンバーおのおのに見せ場もあって、私は好きです。

ただ楽天という外部向けの応援歌としてはいまいちかな。そういうのはもうちょっとメロディーがキャッチーでこなれた感じのほうが、それらしかったかも。

ただこの曲名ってあまり「PC」じゃないよね?

■ Let’s note

注文していたLet's note CF-R3はとっくに入手済み。型落ち寸前の機種なのでいまさらどうこうという話でもないが、私は大変気に入りました。キーボードに意外と剛性感があって、たとえば初代VAIO505などよりよほどストレスがない、とか、10.4インチのXGAの液晶が意外と見やすい、とか(冬だからもあるけれど)筐体が意外と熱くならない、とか割り切ろうと思っていた部分が想像していたよりずっとよかった。

あと筐体自体ももっと安っぽいかと思っていたが、カジュアルな感じではあってもぜんぜん安っぽくなく、とてもしっかりしていた。というわけで、全体的な満足度はきわめて高い。

あえて今回はThinkPad T40とは対極の機種(キーボードや液晶などの操作性は妥協して、軽量重視)にしたので、きちんと「使い分け」ができそうな感じ。データの同期をどう取るか、はまだ未定だけれど。

2005年01月19日

■ ドラマファーストインプレ

今クールのドラマがほぼ一巡。夏川結衣最高、とか深田恭子はやはり可愛いな、とか石原さとみが思っていたよりいいな、仲間由紀恵はあいかわらず可笑しい、久々に見る国仲涼子いいなあ、とか書いていると、なちヲタといいながら実は「若い女性タレント」DD(ハロプロ界隈のタームで「誰でも大好き」の意)だということがばれたりする。というか、ただのオヤジか。

■ 安倍なつみの言葉

いまさらながら蒸し返すのは安倍ヲタとして失格といわれればそうだと思う。しかし、私にとってあの一件は安倍なつみという人を捉え返す貴重な契機となった。私はだからあの問題に拘泥し続けるだろう。それは確かにやっていることはアンチと同じかもしれない。ただ私がアンチを軽蔑するのは、彼らがパラノイア気質の持ち主だからではない。そうではなくて、むしろ逆に、物事の表面しか見ずに、自らものを突き詰めて考えることを放棄している連中だから軽蔑の対象となるのだ。

私が安倍なつみという存在に惹かれ続けるのは、彼女の存在のある種の希薄さゆえだと思う。それは「弱々しい、だから守りたい」という類のものではない。そうではなくて、もっと言説的存在としての希薄さだ。その希薄さゆえに、たとえば松浦亜弥のように、存在から発するメッセージを持たず、逆に観客がさまざまなメッセージを存在から読み込もうとする。そしてその解釈に容易に染まる。まるでどんな色にでも染まりそうな、しかし染めても染めても常に色がつかないこの「純白」さ、どんな解釈も許しながら、しかし常にその本質を取り逃がす「神秘」性。

安倍なつみは己の言語を持たない。人の言葉の中に己を見出す。そうであればこそ、彼女の一人称はいまだ「なっち」なのだ。そして後輩メンが増えたころに「安倍さん」という一人称も加わる。一人称「なっち」から「安倍さん」への推移は彼女の成長ではない。周囲の呼び方の変化を反映したものに過ぎない。まるで幼児が手に取るものを一つ一つ口に含もうとするがごとく、安倍なつみは出会う言葉一つ一つを己の心と触れ合わす。言葉を持たないがゆえに言葉へのセンスが磨かれることもあるのだ。それは歌い手としてはむしろ望むべきことなのかもしれない。

少なくとも私はあの一件の前より、むしろ後のほうに、言葉の使い手としての安倍なつみに興味を持つようになった。思い返せばコンサートMCでのたどたどしい語りの中に見える彼女自身のもどかしさ、それは言葉を操ろうとするものが突き当たるもどかしさと同質のものだ。

■ 近況(更新しなかった言い訳)

看護学校の授業が後2回、ということでようやくやり切る目処がついた。年間計画立てていないのかい!、と自分で突っ込みたくなるが、そこはもごもご。

後は大学の採点、試験をやらなかったので、出欠+授業ごとの小レポート提出状況により採点。かなりの作業量。

ついでに懸案のノートPC新調。Let's note CF-R3。ソフマップで179800円、ポイントが25000円分。単純に引き算ずれば価格.com系の店並みの価格になったのでここで注文。今日か明日当たりに届く見込み。

本当は天板の色を変える(希望はワインレッドかピーチブロッサム)サービスを受けたかったが、値段がかなり違うので、標準色ホワイトシルバーで。デザイン的にはほとんど面白みもそそるものもないが、実用第一。

アンダー1kgといえば、一昔前なら「ミニノート」と分類されるような重量。バッテリ持ち時間9時間はPDA並み。それでXGAの解像度の液晶を持ち、WindowsXPが動くのだから、ずいぶん世界が広がる(と妄想する)。

そうは言いながら、いままで2台のPCをまともに使い分けられた経験がない。2台持っていてもすぐにどちらだけを使うようになる。さて使わなくなるのはThinkPad T40か、買ったばかりのLet's noteか。

2005年01月13日

■ なちコン

参加もしない「レビュー」とやらに気を揉むのもおかしな話だが、参加する人には、まあなんというか、せいぜい励ましてやってよ、っていう気分。

客が気を使うのも考えようによってはおかしな話ではあるのだが、一度だけ参加したなちコンを思い起こしてみても、なんとなくそういう双方向的な空間として成り立っているのだな、などと了解できてしまう。一方がパフォーマンスを見せ、他方が応援する、という双方向ではなくて、おしゃべりな女の子がいろいろだらだら、それでも一生懸命しゃべっているのを、面白くなくても「うんうん」と一生懸命耳を傾けてやる、という、それで二人は幸せ、というアホカップルのノリのような。

要するにあれだ、なちコンというのは、ショーを見に行っているわけではなくて、一種のデートなんだな。で、今日は仲のいいお友達連れてきましたぁ、え?二人のほうがよかったのに、ま、いっか、とか。客観的に見れば不気味な空間だが、そういうことだ。

あ、ちなみに私は「お友達」も大好きなんで、大歓迎ですよ。

■ NHK

まったく安倍は実にけしからん。もうこのまま出てこなくていいよ。といっても、ぜんぜん気にもせず、一寸の反省もせず、そのまま居座るんだろうけどさ。

あ、なつみのことではありませんよ。

■ Mac mini

Mac mini。いいねえ。思わず買ってしまいそうだ。

昔からAppleってエントリー機はエントリー機なりの主張を持たせていて、単に安いだけではないようにしているところがいい。古いところではClassic、LCシリーズとか初代iMacを経て、いずれも筐体デザインに上位機種にはない「売り」がある。本当は安いから買うにしても、そうではない振りができる、あるいはそうではない気にさせられる。

メモリが256MBで足りるものなのか、とか、普通のUNIXマシンとしてどの程度使えるのか(サーバ系のソフトの導入がLinuxよりも手間がかかるとかだったら、なんとなく馬鹿馬鹿しい気がする)、とか、静粛性がどの程度のものなのか、とかいろいろ確かめたいことはあるけれど、sambaが入って(標準で入っているようだ)、Postgresが簡単に導入できて(出来そうだ)、Javaが使えれば(使えないわけない)、転ぶかも。

2005年01月10日

■ 「抑圧」

遅ネタだけれど、安倍なつみさん復帰公演の概要がだんだん明らかになってきました。メロン記念日と競演?すばらしい。とても期待しています。なちヲタにして大谷雅恵推しとしてはこれ以上ない取り合わせじゃないですか。見に行かないけれど。

その復帰公演の初日の「迎え方」を巡って、ヲタ内で論争が起こっています。サイリュームの色を統一して、盛大に出迎えよう、という提案をした人たちがいて、それに対して、そういう盛大なのはまずいんじゃないか、という反論をする人たちがいる。

正直よくわからん。出迎え方にもっといいものがある、という議論なら、わかる。でも、そうじゃなくて、「悪いこと」をしたのだから盛大なのはよくない、というのがまったく理解できない。「悪いこと」に見合うことは紅白出場辞退をはじめ、ずっとやっているじゃない。で、ようやく復帰というときもまだ頭をたれろ、と。安倍さんもそのヲタも2ヶ月じゃ足らん、もっとずっと長い間頭をたれ続けろ、と。

別に安倍さん関係じゃなくても、そういう「非寛容さ」が「正しい」意見としてまかり通るのはとても気分が悪い。狭量な正しさはファシズムへの道、というのはいささか飛びすぎか。しかし小泉ほか政治屋をはじめ、マスコミ、ネットの名無しずれ、芸能レポーターまでもがそうした狭量な正しさを押し出す世の中、ファシズムにはいかねども、とても精神状況が貧困であるのは確かである。

モーニング娘。7期オーディション、結果は割りとどうでもよいが、その特番、ふざけるな、と思う。モーニング娘。の歴史を振り返るコーナーで、中澤さん、後藤さんがコメント出演して、安倍さんの出演がないのは別にいいですよ。でも過去の映像からも安倍さんの名前を削るというのはどういう了見か。平家さんとか福田さんとか市井さんとかは本人の希望とか権利関係とかでややこしい部分もあるだろうから、あまり大々的に取り上げづらい、というのは、まあわかりますよ。でも現在もハロプロに所属している安倍さんを「いなかった」ことにするのは酷い。「傷物」は埋葬してしまって、「正史」からは消し去りますか。そうやって歴史を書き換えて、体面作りですか。

で、「エース」にふさわしい人材がいました、新メンバー、安倍なつみです、とかだったら、、、、泣くな。

■ 世間なるもの

何が気に入らないって、結局判断の根拠が「自分」じゃなくて「世間体」だということだ。「私」が安倍さんのやったことが気に入らない、復帰はまだ早い、というのであればチケットを払い戻せばよいことだ。それが一番の意思表示になるだろう。それは安倍さんにとっても事務所にとってもとても痛いことのはずで、でもそれは己のやったことに対する正当な反応だから、受け止めるよりない。

しかし今度の復帰公演を巡る議論はそうではない。ファンの出迎え方をマスコミ、世間は見ている、そうしてファンが歓迎ムード一色で出迎えると結果的に安倍さんのためにならない。そういう意見が散見される。

あなたはどうなのよ、と聞きたくなる。

テレビとかじゃなくて、安倍さん名義の公演の話ですよ?安倍さんを見たくてお金を払う人たちが集まる場ですよ?そんな場でのファンの出迎え方に世間とかマスコミとか、何の関係があるというのか。ファンが安倍さんを甘やかせているととられかねない、などとのたまう。ファンなんだから「甘い」に決まっている。それが「ファン」の定義みたいなものだ。

安倍さんより歌がうまい人は五万といます。安倍さん程度の歌唱力でCDを買う人がいるのは安倍さんの歌唱への向上を妨げ、スポイルしてしまいます。

少なくとも「世間」は安倍さんのCDなんて買うやつには共感していない。別に安倍さんに限らない。もちろんハロプロにも限らない。世間とファンとのほとんど定義レベルの当たり前のずれだ。

要するにある事象にコミットしていない人間集団のことを「世間」というのだから、早い話当事者性を持たないのが「世間」なのだから、そんなものに何かの判断をゆだねるのは端的に間違っている。物事を判断するのは「世間」ではなくて、あなただ。あなたが安倍さんをいまだ許せない、というのなら仕方がない。私はこの問題にそこまで悪しき物があるとは思っていないし、少なくとも「世間」が安倍さんを糾弾できる資格もありはしない、と思っているが、それはおのおのの判断だ。ただ私なら、仮にこの期に及んで安倍さんの行為が許せない、と感じる価値観を持っていれば、いまだにファンであるという自己認識も持たないだろうし、そういうスタンスにも立たないだろう。ファンとして、安倍さんを教え導く、ファンとはそれほどにまで「偉い」ものだとは思わないので。

2005年01月03日

■ リンクの続き

はてなダイアリー

読めば読むほど、この人悪質だな。

まぁ、被害女性の弁護士さんも、ちゃんと考えがあってそうしているのでしょう。僕には理解できないだけで、被害女性の幸せのために必死に闘おうとしているのだと思います。ただ、結果として、戦いの火種を撒き散らしているのでは?だって、僕なんかですら、紳助さんの復帰に不快感を表明したりされると、どういう権利で創造の自由を奪われなくてはならないのか、正直、とっても腹が立ったりするくらいです。

ま、だからといって、それを声高に訴える、なんてことはしません。その意見に対する反論。またそれに対する反論の反論と、戦いを広げるのは、僕の好む生き方ではないです。

おいおい。「結果として、戦いの火種を撒き散らしている」のはあなただって同じでしょ?別所で「多くの人の目に触れて欲しい」と書いていたその場所に、被害者の悪しき印象を植え付ける文を「声高に」書き散らしているのだから。

それとも言及するだけしておいて、私は完全なる傍観者であって、当事者ではありません、ってか?その程度の覚悟で文を物して、よく恥ずかしげもなく「作家」などといえたものよ。

島田紳助さんは引退しなくてもいいけれど、あなた、引退しなさい。

■ 懲りない面々

はてなダイアリー

島田紳助さん復帰を応援するのはいいと思うが、なぜいちいち被害者に言及するかな。そういうのって構造的にセカンドレイプそのもので、控えめに見たって被害者の神経を逆なでしてしまうだけで、島田紳助さんにとっても益にならないだろうに。単に「いろいろ大変なことはあるだろうが、私個人としても精一杯サポートして、よりよい復帰に尽力したい」とかそういう趣旨で十分ではないか。少なくとも私が耳にした限り、そういう趣旨できちんと島田紳助さんを応援していた「関係者」は明石家さんまさんぐらいだった。もちろんそれだって「引退要求」をしている被害者からすれば批判すべきものかもしれないが、それはそれ。

それからこの「引退要求」、いくらなんでも言いすぎと随分評判が悪く、根強くあるバッシング空気を助長しているきらいはあるが、私はそれも被害者サイドからすれば当然ありうべき反応として受け止めている。第三者たる私はその主張が通るべきだとは考えない。そしてまた当然のことながら、その主張が公権力によって実行されることもない。当然島田紳助さんはタレントを続ける権利を有する、しかし被害者も被害者として自身の要望を出す権利も有する。それだけのことだ。

多くのネット言論人どもは、第三者たる自分の立場(そしてこれまた当然のことながらネット言論人どもは常に第三者なのだ)からして正当ならざる主張は、すべて悪であり、バッシングに値するなどと思っているが、それこそ単細胞にふさわしい平面的社会観の産物にすぎない。

2005年01月02日

■ 謝罪

一応前に話題にしたので島田紳助さんについて。

といっても「踊る大捜査線」見おわって、チャンネル回したら「行列のできる法律相談所」に引っかかって、ついでだからと見ていただけで、それ自体としては実はあまり関心が無い。視聴者に向けての謝罪にさして意味を感じていないので。

まあ、タレントのADやらマネージャやらに対する暴力を肯定的にネタにするような風潮に歯止めがかかれば、私はそれ以上どうこう言うものは無い。

謝罪自体は、これ以上もこれ以下もない、というもので、といっても批判の余地は多分あると思うし、本当に本質的な部分での反省にいたったのか、と仮に問えば、そうではないだろう、と思うが、一般論として本質的な反省・謝罪なんて無理なんだよね。少なくともテレビカメラを通じて、語る形式では無理。文章で、しかも謝罪文とかではなく、エッセイという形式で、己の内面を自ら解きほぐす(もちろんその際には単に謝罪するだけではなくて、逆に己の正当な部分はどこまでもそう主張しなければ意味がない)、とかそういうことをやれば、かなりのものになるだろうが、そこまでやるべきか、というとそうは思わない。少なくとも他者から要求されてできる性質のものではないわけで。

だから、正直言って安倍なつみさんの復帰も気が重い。島田紳助さん以上に本質的な謝罪なんて無理だろう。スタッフから「悪いことだった」と教えられたからそう認識はしているだろうが、理解なんて全然出来ていないと思う。島田紳助さんは、まあ、割とどうでもいいんで、神妙な顔を「そら、そういう顔をするしかないわな」とスルーできるけれど、安倍なつみさんが神妙な顔をして見せても、きっとうそ臭く見えてしまうだろう。そうしてそういう嘘をついていると見えてしまう顔を彼女がしているのを見るのは忍びない。

まあ島田紳助さんが、「司会者」でありながら、あれだけきちんと演技して見せたのだから、安倍さんは「女優」としてしっかりやってくれ、というぐらいだろうか。

■ 言葉の砂漠

今のネット言説の粗雑さとは、「私」と「社会」・「国家」・「正義」といった一般的なものとの間に一切の媒介を設けず、あたかも両者が単一の平面上にあるものとして語られてしまうところにある。もとよりそうした粗雑さはネット言説固有のものではない。学生運動華やかなりしころの「左翼」言説やオウム真理教といったなかでも同じ構造が反復されてきたものだ。きいた批評家風に言えば「青年期」に特徴的に見られるナイーブな全能感の現れである、とも言えるだろう。

しかしネットというメディア形態がそうした傾向を助長しているのは確かだ。一個人が、ほぼストレートに「社会」に向けて己の主張を発露できてしまう今のネット環境。2chあたりで騒いでいる連中が本気かネタか時折誇らしげに口走る「ネットの勝利」などという宣言は、まさに個人としての「私」が社会と直接対峙出来ているかの幻想が見事に表現されている。

個々人が素っ裸で直接向き合い、その集合として社会が存在している、というこの社会観、特定の利害集団などとは無関係に自分は存在しているのだ、という幻想を振りまいた小泉純一郎の戯言を信用できてしまうそこはかとないナイーブな社会観は、二つの一見相反する心性を呼び寄せる。ひとつは「私」は社会に対して直接何かをなしうるのではないか、という使命感、もうひとつは「私」にとっての価値は「私」の内部で完結させられるはずだ、他者なんて関係が無いというシニシズム。「私」も他者も同じ平面に裸でそこにいるのだから、他者も「私」と同じ結論に至るはずであり、そうならないのは間違っている。あるいは「私」は己の感情をありのままにぶちまける権利を有する。

この二つの心性は、あるいは各個人の中では両立していないのかもしれない。しかし匿名の個人が集う掲示板ではこれらは簡単に結合される。他者を欠くがゆえに論理を必要としない「私」の感情を、他者に対してではなく「社会」に向けて訴えようとする。己のルサンチマンの解消が、社会正義実現へと摩り替わる。己の感情にマッチングした平板な正義が全てを支配する。

しかし社会はひとつの平面上に諸個人を布置するようには出来ていない。諸個人は各々固有の立場性を背負ってそこにいる。単純な利害・心情の一致などありえないし、そうであればこそ、そうした対立する立場性を媒介し、調停する仕組みが作られてきた。それが民主主義というものだ。そしてその仕組みの恩恵を最も受けているのはネット言論人どものはずなのに、その仕組みへの配慮を徹底的に欠く。

他者性を尊重するための論理と倫理の欠如。普段己が生活しているときには、法というものが状況に照らして柔軟に運用されているが故に機能していることを頭はともかく身体は日常的に経験しているにもかかわらず、己の気に入らない他者に対しては法の機械的な運用を求める。論理の欠落。他者の立場、感情への配慮をせず、己にとって心地よい言葉をただ投げ捨てる。倫理の喪失。論理も倫理も無くなったこの砂漠のごときネット言説。

2005年01月01日

■ 隠し芸

なっちこと安倍なつみがテレビには出ないので、それ以外にテレビの正月特番には用は無し、近所の神社見物に出かけ、年賀状と今年の手帳を買い、早速今決まっている今年の予定を書き込むなど本来の正月らしい一日を過ごす。

それでも夜は後藤真希と松浦亜弥と加護亜依と辻希美と高橋愛と矢口真里と飯田圭織と大谷雅恵に免じて隠し芸を見ることにした。

東西の分け方の根拠が分かりません。

■ 年賀状

一年ぶりに年賀状を書く。当たり前か。

年末に新年の挨拶を書く気にはどうにもなれないので、というか、誰に出すとか考えるものめんどくさいので、というかヒッキーなので原則年賀状を出す人もいなければ習慣も無いのだが、それでも送ってくださった方がいたので返事を出しがてら、たまたま思いついた人にも出すことにした。

もともとの悪筆がさらに悪化しているので、プリントアウトしようと思ったのだが、プリンタが不調でうまく印刷が出来ない。結局全部手書き。

いまや希少なローテク年賀状と相成った。