2005年08月17日
■ 非国民宣言
扶桑社の教科書の市販本とやらを立ち読みしてきたが、当たり前のことではあるが、たいしたことはなかった。問題なのは教科書それ自体というよりももっと社会を覆うイデオロギー・言説の方だ。実際、私は扶桑社の教科書なんか真っ青の日本軍万歳の子ども向き戦記物を小学校の時に読み漁ったが、勢いで「お話太平洋戦争」とかいう共産党よりの本を読んだら、価値観はすっかりそっちに負けてしまった。もちろん愉快なのは前者の方だ。ミッドウェー海戦、本来あった(ともの語りが語る)チャンスを惜しみ、日本海軍の技術力とやらを賞賛し、「日本人」の優秀さを誇りつつ、取って付けたように「平和」を謳うこの手の本は読んでいて結構愉快だ。「敵軍」とりわけ中国軍なんてアメリカのウェスタン映画における「インディアン」・日本のヒーローものの雑魚キャラのような、顔のない存在として、優秀なる日本の最新兵器(たとえば零戦)の餌食となっていく。もちろん零戦の搭乗員には顔がある。半端なヒーローものなんて目じゃない。
そして最後には、「本来勝てた」ミッドウェー海戦の敗戦よりことごとくなす手が裏目に出て、敗北していく過程も、まさに源義経のごとくで判官贔屓的心情をくすぐる。そして悲壮な覚悟での特攻戦、神風特別攻撃隊、戦艦大和の突撃、そして司令官自身の自爆攻撃、小泉がどこに涙したか知らないが、いずれにせよいちいちよくできている。
しかしわたしは、平安鎌倉時代の話ならともかく、近現代において、そのような「私」が語り手の位置にいる物語には結局のところ納得しなかったのだと思う。「お話太平洋戦争」も同じくとてもよくできた話で、こちらにはしかし「私」を容易に重ねられる登場人物が出てくる。沖縄戦で軍部に言われるままに竹槍を持って米軍に突撃する小学生。特攻隊員に指名され、何とか断ろうと決意しながら結局ずるずる断り切れずに攻撃に参加することになり、最後の飯を惜しみながら食べて、結局米気に打ち落とされて命長らえた体験者の話。体質的に「へたれ」で「非国民」の私にはこちらの物語の方の己を容易に重ねられた。
櫻井よしこは、日本の近代の歩みは今から振り返れば間違っていると言う。ただ当時の価値観からそれを断罪することは出来ない、と。そうであればこそ問いはこうたてられなければならない。当時の価値観において何ら間違っていなかった選択は、なぜかくも悲惨な結末を迎えたのか。そしてそこから今、私たちが未来に向かっていかなる選択をする教訓を得るべきなのか、と。
当時の言説が、イデオロギーが今の価値観からして明確な過ちをもたらしたのであれば、そのイデオロギーからは徹底的に離脱しなければならない。過てる選択を必然のものとした時代状況からは決別しなければならない。「へたれ」で「非国民」な「私」が生きづらい社会にはしてはならない。
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