重層的非決定?

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2010年09月19日

■ モーニング娘。コンサートツアー2010 秋 ライバル・サバイバル 初日

たまたま仕事で東京に来ている翌日がモーニング娘。ツアー初日。セットリストが分からないどきどき感というのがよいようで、初日ファンというのはかなり多い。またハーモニーホール座間という比較的小規模のホール。関東圏初日で、キャパも少なめということで、ダメ元で申し込んだ昼公演チケットに当選してしまった。娘。ツアー初日に行くのは初めて。もっとも私はセットリストはある程度予習して、臨みたい方なので、初公演というのは実はそれほど嬉しくはない。セットリストの善し悪しみたいな余計なことも考えてしまったり。

渋谷近辺での仕事を終え、そのままその周辺で宿泊。8月10日、安倍なつみバースデーライブで止まったのと同じホテルを取る。もう少し会場寄りに宿泊しても良かったが、あれこれ考えるのも面倒だった。

チェックアウト時刻ぎりぎりになって、宿を出る。東急から小田急を乗り継いで、相武台へ。iPod touchの地図機能を頼りに会場着。すでにグッズ列が出来ている。何となく並んでいたら、グッズ列がそのまま入場列に。ラッキーなことに入場列最前になる。娘。ツアー初回公演に一番入場。だから何?といえばそれまで。

娘。の水着姿が拝めるというカレンダーを含め、ごちゃごちゃと購入。ちなみに最近の水着連発はあまり快くは思っていない。思っていないが、それでも見たいと思ってしまう、それも性。

亀井絵里、ジュンジュン、リンリンが卒業、そして次のメンバー選定のオーディションが始まるとあって、娘。自体が大きく変わるかも知れない狭間のツアー。必ずしも後ろ向きな意味ではなく、次の娘。は新生娘。のファンに、という気もしていて、私としても一定の区切りにもなり得るツアー。

事前にセットリストが合計4種類あるという情報が流れ、少なくとも昼夜二公演見ないとセットリストの全容も分からないよう。そういうこともあって、チケットを持っていない夜公演も見てみたいとの思いがあったところ、昼公演終了後、当日券販売列の前を通りかかるとファミリー席を売っているという。希望者多数なら抽選と書いてあったが、抽選なしでチケットを買えるという。ついつい購入してしまう。購入後に慌てて、帰りの足を調べる。最終のぞみにぎりぎり間に合いそうだが、最終列車は混む。ぎりぎりに滑り込んでも座れないかも知れない、とか考えると、つい安きに走ってホテルを押さえてしまう。

そんなこんなで見た昼夜二公演。想像以上に昼夜でセットリストが変わっていて、二つでワンセット状態とも言える。そういうのはあまりいいとは思わないが。私にとって今ツアーの最大の山場たる高橋愛・新垣里沙のソロを両方見たければ2公演セットで見るしかない。それが一番残念。

昼公演。中盤までに6期におのおのソロがあり、6期曲「大きな瞳」も入っている。5期は?と少しさみしく思っているところでなんだか妙に懐かしいメロディーが。すぐに曲名が思い出せない。そして出てきたのが高橋愛。その段階でまず思ったのが、なるほど、この部分が昼夜で高橋愛と新垣里沙で入れ替わるのだろうな、と。5期は2公演でソロがそろうのか、というのが分かって、またさみしくなった。そういう余計なことをライブ中に考えてしまうのが、初日の欠点。

どこか懐かしい、静かなのに深い情熱を感じるこの曲は後藤真希のシングル曲「スッピンと涙」。曲名を思い出すのに若干時間がかかったのは私の記憶力のせい。後藤真希の曲だと思い出せないうちから、とてもしっくりとはまっていた。艶やかな声が、後藤真希を彷彿とさせて、しかし、それよりも少し落ち着いて、少し乾いた感じも出ていて、とても良かった。

一方夜公演。高橋愛ソロを聴きたい気持ちと、でも新垣里沙ソロも聴きたい気持ちと、そして昼夜のセットリストの変わりぶりからして、ここは新垣里沙だろうと確信しつつそのときを迎える。イントロ。これまた懐かしいような、しかしとてもなじんだメロディー。こちらはすぐに曲名が分かる。安倍なつみのアルバム曲「夕暮れ作戦会議」。さすがに安倍なつみのアルバム曲を今の娘。ファンのどれだけが知っているのか、と微妙に疑問に思いつつ、私にはよくよくなじんだ曲に聴き入る。新垣里沙の声は安倍なつみの声のかわいらしさや艶やかさとはまた違ったものだが、しかし、実に良くはまる。声質は全然違うのに、やはり安倍なつみの「後継」はガキさんだ、と改めて思う。

この5期ソロ曲を山場に、娘。曲において高橋愛の跳んだりはねたり、ちょいエロな衣装・踊りを楽しむのが今ツアーの楽しみ方となるだろう。願いとしてはガキさんの聞かせどころがもっともっと欲しい。あとリンリンの歌唱力を見せつける部分がないのも残念無念。

2010年09月12日

■ 「私の頭の中の消しゴム」

ブログへの更新意欲を失ってだいぶん経った。その分Twitterにいろいろ垂れ流しているわけだが、ある程度まとまった文章を書こうという気にはならなかった。安倍なつみ出演の舞台「リトルショップオブホラーズ」、モーニング娘。出演の「ファッショナブル」もスルーしてしまった。特に「リトルショップオブホラーズ」は書きたいこともあったのに。安倍なつみのバースデーライブまでスルーしてしまった段階で、もはやブログを更新することは出来ないのではないか、と思った。そのぐらい「インターネット」と「ハロプロ」という組み合わせに嫌気がさしていた。モーニング娘。を、インターネットにおいて少しでももり立てようという気がなくなった。モーニング娘。メンバーブログにコメントすることさえなくなった。

そんな荒んだ気持ちの中で、再びブログを更新しようという気になったのは、ひとえに高橋愛の演技である。朗読劇「私の頭の中の消しゴム」。準備期間もさほど長くはなく、また朗読劇という限られた表現形態、どの程度期待して良いものかと多くのファンが思っていたことと思う。後出しもいいところだが、私はしかし、密かに期待するものはあった。「ファッショナブル」よりも実を言えば期待していた。理由は自分でもしかとは分からない。

まず最初に断っておく。私はこの作品の物語自体は評価していない。三流昼メロドラマレベルだ。「ファッショナブル」も大概だと思ったが、この作品は、みる前から、全く期待はしていなかった。恋愛ドラマにおいて「死」をちらつかせる手法は全く持ってあざとい。もちろんそういう設定に乗ってもなお、一定の工夫というのはあるもので、この作品においても結末にはちょっとしたひねりがある。しかしそれを覆う前提が、あからさまに観客に涙を流させることを目的としているために、あざとさの印象が先に出てしまう。

この作品で見るべきは役者の演技であり、またそれで十分なのだ。「朗読劇」という限られた表現の中で、ほぼ声と表情だけで勝負をする。そうした役者の「戦い」を堪能する。そういう舞台なのだと思っていた。

序盤。ちょっと勝ち気な女の子。ぶっきらぼうな男性に出会い恋をする。勝ち気さ、そして恋心。問題ない。及第点。コミカルなシーンが何度か。余計な演技をせずに、さらっとかわいく。それでいい。そして幸せな結婚生活。夫の自分を捨てた母親への憎しみを無くさせようと献身的に尽くす。高橋愛ならこのぐらいはやるでしょという演技。

中盤。自分の病気を知り苦しむ。時折ヒステリックな叫び。時間が経つにつれて少しずつ激しさが増す。こうした激しさは、今までの彼女の演技ではあまりなかったものだ。想定の範囲内ではあったが、しかし、やはり演技において非凡なものがあるのを確認する。

終盤。病状が進行。記憶がどんどん失われ、精神的に子どもに返っていく。美しく、かわいく、幼く、それだけに悲しく、残酷。積極的な演技をしてはこうしたものは出てこない。むしろどんどん引き算をしていく演技。それが出来ている。すごい、と思った。「素晴らしい」という評はこういうときのために取っておくべきなのだ。高橋愛のこれまでの演技を「素晴らしい」と評さずに良かった、と思った。

記憶が失われ、仕事に出かける夫を見送るときに、いう言葉。「行ってらっしゃいカズヤさん」。カズヤというのは夫と出会う前に付き合っていた不倫相手の男性の名前。新しい記憶から失われる、強い印象のある記憶は残る。この記憶忘却の順序の中で、「前の男」の名前を呼ばれる夫の苦悩。そんな残酷きわまりないシーンで、しかし「カズヤさん」と呼びかける高橋愛の笑顔の無邪気なこと。目には生気はなく、どこかしら眠たそうで、相手に依存しきっていて、まるで赤ん坊のようなほほえみを浮かべて。

夫の前から姿を消して、施設で過ごす。症状は進み、記憶はほぼ失われ、精神的な死を迎えつつある。その場所を夫が見つけ、再会する。呼びかけるが帰ってくる返事は「初めまして」。そしてひたすらスケッチブックになにやら描き続ける。そのときの高橋愛演じる女性は魂を抜かれている。うっすらとほほえみを浮かべているが、感情はない。感情はないのに、そのほほえみがとても悲しい。夫もまた無の精神をみるしかない。もはやつかみ所もない。かつて「カズヤさん」と前の男の名前で呼びかけられた記憶がよみがえるのみ。

その残酷で絶望的なまでの無のほほえみがあったればこそ、ラストが生きるのだ。もはや記憶を失ったはずの妻の書いていた下手くそな絵。それが、出会った頃の自分の姿であることに気づく。無になったはずの妻の心の中に、自分がいた。自分だけがいた。それがこの作品最大の見せ場である。