重層的非決定?

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2009年01月28日

■ リセット

2chという場への*憎しみ*が如何ともしがたく、憎しみからはハッピーな言葉は書くことが出来ないので、ちょっといったん気持ちをリセットします。

今回の件がどうとかそういうことではなくてね。2chへの憎しみはこの4年もの間、ずっと募らせてきたもので、ちょっと今の状態ではどうにもならん。4年ですからね。筋金入りですよ。このサイトをそこそこ見ている人からすればその辺に関する私の異常さは何となく分かるとは思うけれども。こればかりはね、どうしようもありません。2chそのものだけじゃなくて、そのネタをそのまま盗用して垂れ流す三流マスコミとか、さらにそのネタをそのまま垂れ流すmixiとかそういうのも全部含めてね。そう、mixiね。よろセン!ヒトラー騒動の時もやらかしてくれましたよね。あのバカスイーツ御用達SNSね。まあ全部同類ですわ。

今回のことについて微妙に誤解されるといやなので、改めていっておくけれど、私は別に安倍なつみでも高橋愛でも、自分から笑顔で「結婚しました!」とか言うのだったら、それで私の気持ちが変わるなんてことは一切ありませんよ。ホント、そういうのは全然いいんですよ。

私が許せないのはプライベートを暴力的に暴く奴がいて、さらにそれをネタにあることないこと、愚劣な妄想を書き立てる輩がいて、それを肯定的に受け取り、広める輩がいる、というそのことです。その点では私に言わせりゃえらそうなお題目を唱えているmixiも同類ですわ。

もうそんなこんなの気持ちが限界で、今日は娘。の秋ツアーDVDが届いてちょっとだけ見てみたんだけれども、それを見ながら「奴ら」への憎しみがこみ上げてきて、ちょっとどうしようもないな、と。そういうのでいったんリセットします。

まあそんなことを言ってもハロコン横浜アリーナ公演のある2月1日に更新再開すれば、結局普段通りの更新頻度になるわけだけれども。安倍なつみ微風ツアー浜松公演のあとに更新がなければ重傷だと思ってください。娘。ツアー福井公演後に更新がなければそのまま「閉鎖」ということで。まあたぶんそんなことにはならないと思いますけれども。


なっちこと安倍なつみのコンサートDVDを視聴。

月並みだけれども、癒された。心が洗われるような。俗世とは無縁の世界。しばらくこの平穏に浸ります。

なっち、天使!

2009年01月27日

■ お詫びとお礼とその他もろもろと

先のエントリの内容に関して、直接ご本人にメールをし、回答をいただきました。その結果、私の側に相当の誤解がありました。また当該アンテナから問題となった記事一覧は削除していただけました。その点についてのお詫びとお礼と、それを踏まえてなお思うことを以下に書きます。

まず私はアンテナに上げられていたエントリ一つ一つが意図的に選別されたものだと認識していました。しかしそれは誤解でした。私も使っているi-knowというアンテナシステムは記事ごとに項目を立てる機能を持っているようで(私は自分が使いながらそのことを知りませんでした)、その結果として2chまとめサイト(このサイトについては後述)の個別エントリの題名がそのまま大量にそのアンテナに表示されてしまっていたのでした。この誤解は小さなものではありません。申し訳ありませんでした。

その上で、しかしなお、私が見たそのときの(そしてそのまま放置されていれば今なおそうであったであろう)そのアンテナの状態はひどいものだったといわざるをえません。はっきり彼女を毀傷し、さらにそのファンを愚弄するためにもっともふさわしい、そのためにある種周到に悪意を持って選ばれた言葉が並んでいたのです。それは2ch本体のスレッド一覧を直接見るよりもさらにずっと醜悪な光景でした。

私からすれば、信頼できるサイトさんのアンテナを見て、あの字面を見せられたのは、いわば夜道を歩いていて、いきなり後ろから殴りつけられたような(そんな経験はありませんが)、そんな気分でした。事態を落ち着いて理解できるようになった今でも胃が縮んで、ほとんど食欲がないぐらいですよ。防御態勢のない中で一撃を受けたショックというのはそれだけの力を持ってしまいます。

そうしたことについて了解していただけ、早速その記事一覧はアンテナから削除していただけました。改めてありがとうございました。

それを踏まえて、改めて思うのですが、やはり2chの取り扱いは私たちはもっともっと慎重にあらねばならないのではないか。私も元2ch言説の観察者として、2chを観察することの意味・意義は理解しているつもりです。人によってその意味するところは当然バラバラだとは思いますが、例えば私にとってはあれは一種プチファシズム研究になぞらえられるものと認識しています。人間のなかにあるわずかな悪意を編成し、動員し、一定の力に仕立て上げていく、そういう力学が蠢いた言説空間です。もちろんそれ以外にも様々な切り口はあろうかと思います。

しかしそれを意義あるものとして提示するのであれば、一層その取り扱いには慎重を要します。成果物は一定抽象化されたもの(例えば言説構造)として提示するべきこと。その具体的根拠を例示する際にも引用者としての責任の下で内容を慎重に選別すべきこと。スレッドの内容を丸ごと転載したり、あるいは当該2chまとめサイトの管理人の選別内容をそのまま転載したりすることは、いわば化学実験で用いる劇物をそのまま一般教室に放置するがごとき危険な行為だと思います。そしてアンテナに2chなり、そのまとめサイトなりをそのまま登録することもそれと同じ危険性を有した行為だと私は思うのです。実際何の注釈もないまま、例えば私のサイトとそのまとめサイトの記事題名が単に並列して並べられている空間というのは私にとってはやはりどうあっても許容しがたいものでした。「なんでオレのサイトがこの糞尿まみれの空間に置かれなければならないのだ?まあうちのサイトも糞尿か」、とか。

蛇足ながら、当該まとめサイトを2ch観察の代用品として用いることにも私は賛同できません。なぜ2ch言説観察の一環としてあのサイトを用いられたのかはまた改めてお聞きしたいのですが、私はあのサイトは2ch言説をとらえるという目的に照らしてふさわしくないサイトだと思っています。2ch言説観察の目的にもよるのでしょうが、あのサイトはご承知の通り、掲載内容の選別にバイアスがかかりすぎています。そこに2chの極限が現れているとも言えますが、私には2chの力学を越えた、まとめサイト管理人の恣意的な思惑、力が作用しすぎているように思えます。あのサイトを見ても2chという言説空間は取り逃がしてしまうのではないでしょうか。

もう一点、ファンサイト言説空間の状況についても私には誤解がありました。当該まとめサイト、私はあのサイトをアンテナ登録しているサイトさんは多数あるものと認識していました。そしてそういう状況に対する憤りがあったのです。実際何故そう思ったかというとhatenaのアンテナシステムには当該サイトを登録しているサイト一覧を表示する機能があり、それによると当該まとめサイトを登録している公開アンテナの数が207件あると表示されるからです。207件という数字は私にとって少なくない数字だと思いました。前述の通り「劇物」としての扱いを要すると私には思えるそのサイトをそれだけの人が公開アンテナにおいて登録している。それは私には理解しがたい状況に思えました。

でもその一覧で並んでいるアンテナの中身を見てみたところ、なぜかそのまとめサイトの登録はほとんど(全く)なされていないのです。他のサイトなら、登録サイト一覧で並んでいるアンテナにはきちんと当該サイトが登録されているのは確認しているのですが、本まとめサイトに限っては全然登録されていない。どういうこと?とちょっと状況が理解できていないのですが、今現在本まとめサイトをアンテナ登録しているサイトさんは私が当初認識していたよりもずっと少数のようです。google先生も駆使して検索してみましたが、ほとんど全く発見することが出来ませんでした。不思議であると同時に、安心しました。

いずれにせよ、アンテナ登録の選別内容について、そこにネガティブな意図を読み込んだのは私の一方的な誤解でした。申し訳ありませんでした。また登録内容に関しての早々の対処、ありがとうございました。

2009年01月26日

■ それでも僕はしゃべる

コメントレスをあえて本文でさせていただきます。

高橋順也さん

あと、http://d.hatena.ne.jp/risapul/20090126←ここをご覧になったら、少しは気持ちが晴れるかな?

いただいたコメントの一番ついでと思われるところからお返事するのは大変心苦しいのですが、私にとってはここが結構キモになるところです。

紹介させていただいたエントリ、読ませていただきました。

うーん、気が晴れるというか、むしろその次元では私は向こうさんよりもずっと楽観的ですよ。最大限まで(疑似どころか本気バリバリの)恋愛モード、処女性万歳!、愛ちゃんに男がいるなんてゆるせなーい!!!という気持ちになったとしても、私は元ネタには、その内容レベルでは何とも思いません。向こうさんはずいぶんいろいろ気にされているようだけれども、私にはそれが失礼ながら滑稽に思えます。まあ写真の中身については(理念として)語りたくないので、ぼかして話すしかありませんが、どうぶっちゃけても(本気恋愛モード全開の感情レベルで)くだらない写真というしかありません。

私が問題にしているのはまずは当たり前で、それ自体はここではどうしようもないことだけれども、ストーカーと呼ばれる盗撮豚野郎が存在しているということ、そしてここ(サイト・言説上)での問題として、それが提供するとされるネタを許容し、おもしろがる人間が存在しているということです。そしてそういう環境全体が彼女たちを傷つけている。私はそれを問題にしています。

それでは私たちは何が出来るのでしょうか?盗撮豚野郎を見つけたら、ぶん殴ってやりたいところですが、それが犯罪であること以前に盗撮豚野郎に出くわすのは同じ盗撮豚野郎だけでしょうから、まあかなわないことです。でも少なくともそやつらの提供したネタを肯定的に語ることだけはしてはならない、そしてそれをしている語りを許してはならない。

そうはいっても語る人は語るのです。どうしようもない。でもせめて自分の知り合いでそういう語りをする人がいれば、身を挺して止めなくてはならないと思いませんか?私はそう思う。絶交することになっても、私はそうした語りを続ける知り合いを野放しにすることは出来ない。してはならないと思う。

でも、(エクセプトミーで言いますが)皆さん、そうできていないじゃないですか※1※2。自分の直接の知り合い、ネット上での交友がある人が、ストーカーネタをおもしろがって話していて、それを断固として批判できますか?mixiでもその手の語りはここそこで見られますけれど、「マイミク」たちはなにも言わないじゃないですか。それで一般論として「ストーカーは許せない」と言っても私には全然説得力が感じられないのですよ。

実を言うと、件の彼は私が直接お会いした唯一の「ヲタ友」です。本当に唯一無二の友になる人だと思いました(思っています)。でもその友を失っても、私は言わなくちゃならないと思った。それも彼には申し訳ないことだけれども、「ヲタ」仲間に気遣って言うべきことも言わない(ように見える)この界隈に対するささやかなデモンストレーションとして、私はあえてこのサイトで公開詰問をすることを選んだのだと思う(前のエントリを書いたときはそこまで自覚はしていませんでしたが)。

だから私は写真の内容についてはスルーするべきだ、というのは全くその通りで、ただそれについてはご紹介いただいたサイトさんよりも私のほうがスルーしていると思っています。そして、それをおもしろがる語りについては逆にスルーしてはならないと思っています。

電脳丸三郎太さん

ありがとうございます。

この一連の書き込みが、私にとって「諦めない」決意だと今は思っています。

はっちまん。さん

一般的にはそうだと思います。ただ知り合いとなるとそうも行かないとも思います。まあ直接メールで詰問する、というのが正解だというのは分かっていましたが。


※1あ、出来ている人もいると思います、当然。表に出さずに、しかし直接はっきりNoを突きつけられている人がいるなら、それが一番だと思います。でもそれが出来ていない界隈もここそこで観察されるのも確かです。私はそれが赤の他人である限りはスルーするよりないし、極力スルーしてきたつもりです。

※2でも一方で2chのまとめサイトと称する、ストーカーネタを含めたスレッドを好んでかき集めている糞サイトにアンテナを貼っているサイト、そしてそういう無神経な管理人と仲良くしているサイトさんなんていくらでもありますよね。例えばそういうレベルの話です。「スルーする」というのは、そういうサイトへのアンテナを外す、という積極的なスルーが必要じゃないですか?そういうサイトを許容しておいて「スルー」は私は違うと思う。ここに来ているひとは自分のアンテナを貼っているサイトさんをもう一度チェックしてみてくださいよ。きちんと「スルー」出来ていますか?私は今回「スルー」出来なかった。私のアンテナには今現在もそういう糞サイトへアンテナを貼っているサイトさんが登録されてしまっている。だから今回は私は話題にすることもスルーできなかった。


結局私はまたしても懲りずに2ch的言説相手に喧嘩したかっただけなのかも知れない。もうそこからは撤退することに決めたのに。

もうひとつは、おかしな話に聞こえるだろうけれども、私はのことを悪く思いたくはなかった。だから問題は彼個人ではなく、2ch的なるもの、ストーカー的なるものを許容する*ファン言説*にあるのだということにしたかったのだと思う。個人的にメールをしたためると、私は彼個人を詰問しなければならない。実際にはサイト上で彼個人を詰問したのだけれども、それでも私の中では*ファン言説*を詰問したのだというエクスキューズを求めていたのだろう。

特に愛ちゃんファンには不愉快な思いをさせたことと思います。きっと私は今回の一件では、その実それほど愛ちゃんとそのファンのことを考えてはいなかったのだと思います。私はただストーカーネタ一般が、例えば少なくとも私が信頼していたの中に普通に流通しているということ、つまり私にとって限りなく「ファン一般」の間で肯定的に流通していると感じられたそのことに多大なショックを受けたのだと思う。

私は件のエントリを書き出したときには、もうこれを最後にサイトを閉鎖しようとまで思っていた。それほど私は*現状*にショックを受けた。ファン言説一般に絶望した。それはきっと客観的には単にへの一方的な過大評価に過ぎなかったことだと、今はそう思うけれど。

■ 親愛なる君へ

あなたのことを僕は最大限の親しみを込めて「君」と呼ばせてもらいます。まだ1回しかお会いしていないあなたに対して、ずいぶんなれなれしいことだと感じられると思いますが、そう呼ばせてください。

僕は君のメールアドレスを知っています。だから僕は君に直接メールをして問いただすことも出来るはずです。あえて公開サイトでお話しするのはナンセンスだ、とも思います。でも僕は君にメールをしたためる勇気が持てません。僕は怖くて仕方がないのです。

僕の言葉は君には通じていませんでしたか。君は僕がかつて書いた「蛇口を占めろ」というエントリに共感の意を表してくれました。このエントリに僕が書いた言葉は君には通じていませんでしたか。僕の日本語はそんなに理解できないものですか。

僕は恐がりです。自分の書いた言葉が全く理解されないことが怖くて仕方がありません。言葉の通じない異国の中に一人放り出され、全くコミュニケーションが取れない、そんな恐怖を僕は今感じています。

だから僕はずるくも、もしかしたら一人でも僕の言葉を理解してくれる人がいるかも知れない不特定少数のこのブログの読者全員にむけて言葉をつづります。誰か一人ぐらいは理解してくれるのではないか、そんな淡い期待を胸に、僕は言葉をつづります。

つまらない、甘えた愚痴から書きます。馴れ合いが好きではない僕がこんなことを書くのは恥ずかしくて仕方がない。でも僕はどういう次元で君と話が出来るのかが分からないので、あえて僕の甘えに満ちた感情的な文章から入ります。

君は僕が高橋愛という人のファンであることを知っていますよね。その君が、僕と直接会ったそのあとで、高橋愛を誹謗する複数の記事にアンテナを貼りました。作品・パフォーマンスへの批評でも何でもない、ただの誹謗記事にアンテナを貼りました。君のアンテナを覗いた僕がそれを見てどれほど悲しい思いをしたか、君は想像できるでしょうか。

僕の個人的な事情を続けます。

僕は2chを毛嫌いしてきました。してきましたが、いろいろな思惑で観察はしてきました。しかしそうして観察して得られる考察が2005年段階から一歩も進歩しないことにようやくあきらめて、ようやく2chを観察することを完全にやめることにしました。もちろん君の知ったことではない、僕個人の事情です。

2ch断ちをしてずっと僕は平穏でした。そりゃ多少はプラスの情報を取り逃がすこともあるだろうけれども、それでもやはりあのサイトは見るべきではない、とつくづく思いました。まあそんな結論はもっとずっと前から分かっていたことですが、それをつくづく実感しました。

なのに2chとは直摂なんの関係もないはずと思っていた場所を見て、そこで騒がれているらしいネタを見せつけられました。僕はバカな人間です。せっかく見ていなかった2chもまた覗いてしまいました。

はっきり言ってくだらないネタです。だから君も軽い気持ちでアンテナを貼れたのかも知れません。でも考えてみてください。盗撮された写真は実在するのです。その写真がそれ自体としていかに「無害」なものであっても、それをネタにあることないことをかき立てられている。それが彼女を傷つけることだとは君には思えませんか?そしてそれを見たファンもまた心を痛めるだろうと君には想像できませんでしたか?数日前、君の目の前にいた僕がどういう思いをするか、君はアンテナを貼るときに一顧だにしてくれなかったのですね。

あの記事をアンテナに貼った君の気持ちが僕には分かりません。どう想像しようとしても、僕には全く想像できないのです。あのような記事を書き、また嬉々としてそれを拡散させる人の顔は僕の想像の中では最大限に醜いものでした。そういう頭の、精神のおかしい輩がいるのだ、と信じることで、僕は何とか「この世界」との折り合いを付けようとしていたのかも知れません。

でも数日前に見た君の顔はとてもジェントルだった。そのギャップが僕を苦しめています。

ストーカーネタやらその他の妄想ネタで彼女を誹謗し、傷つけている、少なくともその片棒を担ぐようなことをしている人が、君のような人であったことが僕を苦しめています。

ストーカーが盗撮をしようとつけねらい、そしてそうして撮られた写真をネットに上げ、そしてそれを拡散させる人がいる。そういう環境に彼女を追い込むことに君の心は痛みませんか?その片棒を担いだのだという自覚はありませんか?撮ることだけでなく、それを拡散させることも同じ種類の罪を犯しているとは思いませんか?

お前も拡散させる片棒を担いでいるではないか、という第三者の突っ込みがあることは理解はしている。私は私なりにぎりぎりのラインでこの文章をつづっているつもりだ。他の誰でもない、私が今そういう状況に追い込まれることを一番辛く思える彼女のことだから、私はこの綱渡りを何とか出来るはずだと思って、この文章を書いている。他のメンバーなら、私もまた安直に誤るかも知れない。もちろん今回だって私は誤っているのかも知れない。それでもぎりぎりの思いで私はこの文章をあえてしたためる。

続けます。君がここ数日にアンテナに貼った一連のエントリを見て、君が高橋愛という人を余り快く見てはいないのだ、ということがよく分かりました。明らかにリンクをはるエントリの内容に偏りがあったからです。でもそんなことはいいのです。僕は「友」とそういう次元で一致しなければならないとは思っていません。だから僕は君が高橋愛の演技とか諸々のパフォーマンスを酷評するエントリを書いたからといって君のことを否定しません。でも君のしたことはそんなことではない。プライベートに関してあることないこと妄想を書き立てた、それもストーカー・盗撮というもっとも卑劣な行為を通じてえられた素材を元に書き立てた、そんな記事を君は僕を含む君のサイトの読者に「お勧め」したのです。

僕は君を軽蔑したい。軽蔑できたらどんなに楽だろうと思います。

一度だけ君に甘えさせてください。僕はどうすればいいのですか?「軽蔑すれば?」とでもいってくれますか?


2005年段階の私の2ch評。

■ 僕がこの世界を終わらせるんだ

自分のプライベートを盗撮する人間、それをネタに「盛り上がる」人間、そういう連中が「ファン」と称して跋扈する*この世界*は彼女たちにとってどういう世界なのだろう。その世界に本当に愛着を持って、楽しんで、誇りを持って仕事が出来るのだろうか。

盗撮された本人だけではない、自分たちの仲間をそのような目に遭わせられて、メンバー全員にとってこのファン界隈というものはどのようなものとして目に映るのだろうか。盗撮し、そのネタで盛り上がり、そしてライブでは熱狂的な声援を送る「ファン」たち。悪魔たちの送る声援。それに涙するメンバー。歪んでいる。腐っている。耐え難い。

もうこんな世界なんて消えてなくなればいい。

ハロプロとはファンクラブの名称、ファンとともにあるべき世界だった。そのファンが、その根っこまで腐っているのだとしたら、ハロプロなんてものはいっそなくなってしまえばいい。

■ 悲しみに

かつてストーカー写真とそれを元に騒いだ連中のせいでハロプロを辞めていったメンバーがいた。そのことへの怒りを共有した人なら(そうでなくとも、だが)、ストーカー写真をネタに盛り上がること、あるいはそういうことをしているサイトへのリンクを貼るということは絶対にしないものと思っていた。

なんで?なんで、ストーカー写真なんてもので盛り上がることに絶対的な嫌悪感を感じられないの?私には分からないです。

なんでそういう写真をネットに上げられることへのメンバーの痛みが想像できないのか、そういうネタを見せられてそのファンもまたいかに心を痛めるかが想像できないのか、私には分からないです。

良き友が出来た、と思ったのに。

もう何もかもよく分からないです。


参考エントリ

蛇口を閉めろ

2009年01月25日

■ オーラの泉

「オーラの泉」に安倍なつみ登場。

はてさて、どう見ればよいものか、困り果てる。ほとんど生まれついてのごりごりの素朴唯物論者ゆえ、この手の「スピリチュアル」系なお話というのはどうにも言及しづらい。いまさら「うさんくさい」だとか批判する気にもならない。私の世界観と相容れるものは全くないし、でもそういう世界観の現実的効用というのは理解は出来るし、基本的には生暖かく見守る、という姿勢でいるしかない。

まあ安倍さんはこういうのは好きだよなあ、というのも認識はしていたし、でも究極自分が一番な人だから、最後までずるずるはまりこむというところまでは行かないだろうと、その辺は安心はしている。安倍さんに限らずこの辺の若い女性はこういうの好きな人結構多いだろうなあ、とか。もっとも織田信長好きな高橋愛はまたちょっと違った感性を持っている気がするのだけれど。

一般的にこの手の語りというのは大仰な舞台装置を用意はするけれども、実際に語っている内容というのはぬるいというか、一般常識を薄くそのまま反復しているだけというか、対象に深く切り込むということが全く出来ないというか、そういうもので、それは構造的にそうなるのだけれども(きちんと対象に切り込む手間をかけられる人はその外部によけいな舞台装置など必要としないのだ)、この番組を見た印象もそのままだった。ありきたりのことしかいわないよなあ、と。

ただそれでもこれだけの舞台装置を用意した効用というものはきっとあって、安倍なつみおよび事務所にとって「盗作」に触れさせるためにはそういうのが必要だったのだろう、と。私はそういうのもちょっと不満だけれども。

もし私に究極の筆力と、多大な人脈と、多少の権力があれば、この件について安倍なつみに語らせる語り部には私がなったのに、という妄想は4年来持ち続けていて、そういう意味では「初」をこんな番組にさらわれたことが悔しくて仕方がない。

もっともこの話題に主として話をしたのは江原啓之さんではなくて、美輪明宏さんのほうで、美輪さんというのは表現者として一流の人であるので、それ自体としては良かった。それでも、仕方がないとはいえ、美輪さん自身はこの一件をほとんど何も知らないので、いっていることは間違ってはいないけれどもやっぱり少し皮相だなあ、と思う。安倍なつみの詩と元作品とを比べてみたことはないのだろう。それは美輪さんサイドからすれば当たり前のことで、いちいちそんな手間をかけるわけがないのだが、逆に安倍なつみサイドからすれば、この話題に最初に触れさせる相手としてはやはりきちんとそれにコミットできる人を選ぶべきだろう、と。理想論でしかないことは承知。

結論としての、創作活動を行うべき、というのには同意する。たぶんそのきっかけとして、この手の番組出演で「タブー」を破る必要があったのだ、とは思う。

ついでに「楽器」という話も出たが、楽器の演奏に関しては保田圭が先輩としてサックスに取り組んでいることもあるので、やればいいんじゃないか、と。ただやるにしても何をやるのか知らん。鉄琴?

番組冒頭の「ヒット曲が欲しい」という願いはあまりにも切なすぎるのだが、江原さん、美輪さんの「自分の作品を作れ」というのが至極真っ当で、よかった。ソロとしてのヒット曲はなくとも、モーニング娘。としてのヒット曲はあって、それは明らかに財産となっているわけだけれども、一方で足かせになっている部分もあって、未だにおちゃらけた歌しか歌えない「アイドル」というイメージが強固にしがみついてしまっている現実がある。それを思うと、ヒット曲なるものが空中戦でしか生まれにくい状況において、その空中戦で生み出されたヒット曲なるものの代表がモーニング娘。時代のヒット曲であるわけで、そういう次元のヒット曲をねらえる状況を今の安倍なつみが作っていくべきか、というのはちょっとわからない。それでもヒット曲が欲しい、というのなら、今の事務所にいては全く可能性がないのも明白で、その辺をどう折り合いを付けるか、だろう。それよりも、作詞作曲も含めて、自分の作品をとにかく作り込むことに精力を使う方が生産的だと思うが、そのためのサポート体制も今の事務所は結構微妙に思えたりもする。なんだ、八方ふさがりじゃないか。まあ個人的には作詞も作曲もしない、ただの歌手、というのも路線としては悪くないと思うけれども。それなら良質の楽曲提供者が不可欠になるのだが、それも今の事務所は結構不安。駄目じゃん。

モーニング娘。時代はメンバー全員がライバルだったから、食事とかも一緒に行かなかった、というのはこれまた強烈な話。メンバーの食事会に安倍さんがあまり出席していない、というのはファンでは知られた話だったのだが、単に出不精なだけかと思うところもあった。そうではなくて、自覚的にそうしていたのだ、というのをはっきり聞いたのはたぶん初めて、だろうか。「アットホーム」を標榜する今のモーニング娘。体制とはちょっと違う。どっちがいいとかいうのではなくて。

最後に非常に残念なこと。

平家みちよの近況を安倍さんって全く知らないのだなあ。まあそうだとは思っていたけれど。ちゃんと今でも歌手だし、ソロライブもやってますので。うちのサイトを見てくれていれば、把握できるはずだから、安倍さんがうちのサイトの読者でないことだけはよく分かりました。

あ、誰か突っ込んでね。

2009年01月24日

■ Q.E.D.落ち穂拾い

本質に迫るドラマ批評を書けた満足感でとりあえず今はいっぱいなのだが、些末なところにも少しだけ触れておく。

演技。高橋愛の演技についてはその評価にかなりばらつきが見られる。でも第一回分はともかく、二回目、三回目の演技はきちんと見れば、絶対に下手ではないよ。まあ、あれだ、歌手グループの歌を聴いて、一人が音をはずすとグループ全体が下手という印象を持たれるのと同じ。ちょっとまずい台詞回しがあった、というだけで、もうそういう印象を持ってしまっている人がいる、ということだろう。二回目、三回目はかなり微妙な感情を、決して舞台演技ではない、抑えた良い演技で表現できている。というよりもいい意味で演技をしていない。素な高橋愛をそのまま出している。素直で、繊細で、でもどこかがさつ。

三回目でもまだ多少のばらつきはあるけれど、「若手アイドル女優」と呼ばれる面々の水準には達している。特に台詞回しよりも個人的には重要だと思っている「目の演技」がきちんと出来ている。「目」の中に自らの中に宿る思いがけない恋心に戸惑い、相手の反応にいらつき、しかし愛おしく思う、そんな心の動きがきちんと表現されている。この「目力」はハロプロにおいてドラマ演技で一定の評価を得られている安倍なつみよりも上でしょう。

ドラマ全体としてはもはや推理ものとしての魅力はほとんどなく、高校生男女の成長物語からだんだんと恋物語へと進みつつある。原作は決して恋愛ものではない、という風に聞いていたので、第三回放送分でここまで恋心をほのめかしてくるとは正直思っていなかった。切なくも甘酸っぱい仄かな恋の香り。初恋の時のあの胸のときめきを思い出させてくれるドラマ。

というわけで愛ちゃんとの疑似恋愛モードで見れば、このドラマは傑作としか言いようがない。だったら原作はQ.E.D.でなくてもいいじゃないか、という突っ込みはこの際却下。

■ 「Q.E.D.」三回目

地デジでの録画に失敗したQ.E.D. 第二回放送分、再放送が1月31日にあると聞いて浮かれていたら、「関西地区・沖縄地区は別番組を放送予定です」。

というわけで個人的に傑作回となった第二回分は最高画質でのファイルは手元に残らないこととなった。毎度毎度なんで関西地区ってよけいなことをするかなあ。ぶつぶつ。

まあでもPCで録画した地デジファイルなんて、PC買い換えたらおしまいだし、DVDに焼けば画質が落ちる(はず)だし、Blu-rayディスク環境は持っていないし、「永久保存」とはどのみち行かないから、いっか。手元に残ったファイルは画質はいまいちだけれど、使い勝手はいろいろいいし。画質もどのみちPCがSXGA+の解像度しかないノートPCで見ることになるので、そんなに差があるわけでもあるまいし。あ〜、でも残念。

とまあいつもながらに地デジへの愚痴からはじめたわけだが、Q.E.D.三回目「学園祭狂想曲」。

だんだんとこのドラマの本質は高橋愛のプロモーションドラマなのではないか、という気がしてきた。とにかく愛ちゃんが可愛い。そういう感想はドラマ批評としては本質をはずしている、と思っていたが、間違っていたのは私だった。このドラマから我々が受け取るべきメッセージとは「愛ちゃん、きゃわ」、それが正しいようだ。

実際このドラマを見ているハロプロファンの感想を読んでも、ドラマの出来はともかく、演技もともかく、高橋愛は可愛い、というものが並んでいる。どうも私はハロプロファン視点を自らに持たせようと意識しすぎて、かえって本質を見失ってしまっていたのだ。

というわけで、あらためてこのドラマを見た感想。

愛ちゃん、きゃわ!愛ちゃん、きゃわ!愛ちゃん愛ちゃん。

うん、我ながら素晴らしい批評文が書けた。

2009年01月18日

■ 泣いちゃうかも

モーニング娘。2月18日発売の新曲「泣いちゃうかも」。

文化を享受した人はその対価を支払うべきである。

ということでこのページにアクセスした人はもれなく1PVにつき、100枚購入するように。

2009年01月17日

■ 2009エルダークラブコンサート大阪昼

ハロプロエルダークラブコンサート大阪昼公演。

いやあ、さすが10年連れ添ってきた仲間の集まりのエルダークラブ、一体感が凄くて、とても濃密な時間だった。ただその中に真野ちゃんとか音楽ガッタスのエッグメンバーとかが浮いた感じだった。とくにワンダ所属の真野ちゃんなんかを無理から押し込むなんて事務所ももっと空気読め!

みたいな感想をオブラートに包んで物すつもりだった。見る前の予定では。

あ、全然違う感想でした。一体感まるでなし、真野ちゃんがいても無問題。全体的に雑然とした構成で全体の印象もかなり雑ぱくなもの。考えて見りゃ、そりゃそうなるわな。ハロプロとはこうしたものだったはずだ。メンバーの個性もバラバラ、見ているファンの気持ちもバラバラ、それを無理から一つの箱に詰め込んで、まあ適当に楽しめ。これぞハロプロ!

というわけで、本来のハロプロを思い出し、そういうものとして楽しんできましたよ。必然的に以下の感想文もかなり雑ぱくなものとなる。一つのまとまった作品を見たという印象はほとんどなく、まあいろいろ見られました、という感じ。

I WISH
おお、いきなり!というところだけれども、私は事前予習派なのでそういう感慨はなし。この曲のオリジナルの主要歌唱メンバーの不在をまざまざと感じさせられる。というかなんで安倍なつみが普通に歌ってんだよ。この曲の私の思い出は「安倍なつみがろくに歌わせてもらえなかった」という拗ねモードに入っていた類のものなのに。
I know
あややだよ、あやや。ってそれだけかい!
松浦亜弥の骨折報告
もう痛い話は聞きたないっつうねん。この話題を読みたくなくて、エルダーコンのニュースとかまともに読まなかったぐらい。という極度の骨折恐怖症の私は骨折未経験。そう、30数年生きてきていまだ1回も骨折をしたことがない。痛いのだいっきらい。
十年愛
十年愛、来たよ、十年愛。念願の十年愛。まあガキさん(新垣里沙)とか小春(久住小春)よりも娘。初期メンバーが歌う方が説得力あるよね。歌詞の中に過去の娘。曲のフレーズを入れた「キャンディーズ微笑み返し」形式の曲だが、振りまで過去曲の振りをちりばめていたのには笑った。しかし本当に10年間見続けてきてしまったよ。自分でも笑っちゃうよ。「Thank you for your LOVE!」。ふむ、愛ですよ、愛。
安倍なつみソロ二曲、「スクリーン」「恋のテレフォンゴール」
ま、ここで「微風」なんか出さないよね。とても正しい。
ラララーソソソ(真野ちゃん)
「事務所空気読め」的押し込みなんだけれども、そういうのに一番うるさそうな安倍なつみファンを籠絡すべくなっちに真野ちゃんを紹介させるあたりは「おぬし、やるな」というところ。原理主義者としては軽くスルーしつつ、一応聞いた感想。「あ、普通に聞けるじゃん」。安倍なつみソロコンサートオープニングアクトの時のあのひどい歌唱はいったい何だったんだ?ただ普通すぎて、結局全く何の印象も残りませんでした。オープニングアクトの時にはもう思い出したくないのに、真野ちゃんの歌声が頭の中をぐるぐる回っていたのに。
Give me Up(メロン記念日)
東京公演のレポートで「メロン記念日になんでこの曲を歌わすんだ!」的な感想をいくつか読んで、「そうかなあ、この曲は80年代のノリのいい名曲だし、メロン記念日に合うと思うんだけど」と不思議に思っていたんだけれども。あ、やっぱりイマイチでした。メロン記念日といえば娘。OGやら松浦亜弥やらといった「中心メンバー」をさしおいて、場を圧倒的に支配してしまう有無をいわさぬパフォーマンスが魅力だったのに、この曲にはそれだけのパワーはなかった。メロン記念日単独コンの一曲として歌うのならばよいと思うのだけれど。
ケンチャナ(前田有紀)
ここ2曲ぐらい「ド演歌」が続いていたので、ちょっと辛かったが、この曲はいい!十分ストライクゾーンですよ、と藤本美貴の「遠い恋人」がど真ん中の80年代歌謡曲好きの回顧野郎が言ってみる。
BABY! 恋にKNOCK OUT!
プッチモニ来たよ、プッチモニ。よっすぃ(吉澤ひとみ)可愛いよ、よっすぃ。加入当初の初々しいよっすぃを思い出したよ。小川麻琴もなんだか生き生きしてた。2006年時、娘。卒業前あたりの「目が死んでいた」小川麻琴とは別人のようだ。
「あのとき、君は若かった」。稲葉貴子
あっちゃん(稲葉貴子)よりも後ろにちょっとだけ映っていた安倍なつみに目を奪われてしまったことは内緒にしておこう(とブログで公表する)。
松浦亜弥ソロ二曲、「100回のキス」「Yeah! めっちゃホリディ」
あややだよ、あやや。
たんぽぽ(飯田圭織、矢口真里、石川梨華、柴田あゆみ、紺野あさ美)
ん〜、この曲をやるなら前二人だけで良かったような。
エーゲ海に抱かれて(飯田圭織)
娘。リーダー就任以降の、どこかにリミットをかけていた雰囲気が抜けて、なんだか生き生きしているように見えた。いや〜、カリの歌を聴くのも久々で、心に染みました。
This is 運命(メロン記念日)
This is メロン記念日。これですよ、これ。この場の支配力。これぞメロン記念日。
愛〜スイートルーム〜(美勇伝)
ん〜、微妙に印象の薄い曲、かも。
ブギートレイン'03(藤本美貴)
ミキティ、なんて可愛いんだ。ミキティがこんなに可愛かったなんて。というかやっぱり「置き手紙」路線はご本人は余り好きではないのかも、と感じさせられてしまうぐらいこの曲を歌うミキティは楽しそうでした。
悔し涙ぽろり(中澤裕子)
今回一番声援が多かったのは中澤裕子だったような。この曲に限らず、姉さん終始気合いは入りまくりでしたからね。
「あのとき君は若かった」。中澤裕子
「アイドルを捜せ」の収録中、アルコールを飲んでいるシーン。完全に酔っぱらってしまって、結局放送できないものになったらしいw。まあこの頃はいろいろたまっているものがあったんでしょう。
Magic of Love(稲葉貴子・前田有紀)
太シス(太陽とシスコムーン)の名曲が来たよ。どうせなら、オリジナルメンバー呼んじゃいなよ。でも「ケンチャナ」と合わせて有紀ドンヲタには中々おいしいコンサートでした。
青いスポーツカーの男(飯田圭織、矢口真里、稲葉貴子、メロン記念日、三好絵梨佳、岡田唯)
かつてのハロプロ恒例シャッフルユニットの第一弾三色ユニットから「青色7」の曲。「赤い日記帳」は後藤真希、中澤裕子が歌い継ぎ、「黄色いお空でBoon Boon Boon」は安倍なつみが歌い継いだが、この曲を歌い継ぐ人はいなかったという、悲運の名曲。あ、名曲じゃなかったから歌い継がれなかったのかしら。でも私は結構好きでしたけどね、「赤い日記帳」よりは。でもやっぱりこの曲も市井ちゃん(市井紗耶香)の不在を感じさせられるなあ。ついでにこの曲を歌う矢口がやたら可愛かったんですけど。クソ、なんで矢口がこんなに可愛いんだ。マサオ(大谷雅恵)も出ているのに矢口ばっかり見てしまったではないか。あ、飯田さんもノリノリで元気でした。
M.C.「ハロプロで学んだこと」(藤本美貴、前田有紀、斉藤瞳)
藤本美貴「団体行動は苦手だったが、ハロプロのおかげで出来るようになった」。前田有紀「大勢の個性のバラバラな女の子が集まって一つのことを作り上げるすばらしさ」。藤本美貴「私もそういうことが言いたかったんです!」。
音楽ガッタス二曲、「Come Together」「鳴り始めた恋のBELL」
なんだか紺野あさ美が普通に歌えているんですけど。2006年時、娘。卒業前あたりの「声がろくに出なかった」紺野あさ美とは別人のようだ。つぅか小川麻琴と紺野あさ美にとって、娘。というのは相当のリミッターになっていたということか。何となくあの突然の卒業劇とそれからの復帰というのが理解できるような気がしてきた。
モーニング娘。メドレー
M-Line(モーニング娘。OG中心の新ファンクラブの名称)コンサートでもまたやるでしょう、やりましょう。ということもあって、思ったよりあっさりさっぱり聞きました。「時代はそれぞれいっぱい、頑張ってきたよね」が心に染みた。
恋する♥ エンジェルハート
この曲もメロン記念日の曲に匹敵するパワーがある。
Never Forget
この曲をここに持ってきたのはちょっともったいなかったかも。この曲は巣立っていく人と残る人との惜別の歌だと思っているので、全員が巣立っていくエルダーコンで歌う歌じゃない。私ならここは「ダディドゥデドダディ !」で明るい未来を祈念し、横浜アリーナ最終公演の1回だけ最後の一曲で「Never Forget」を歌う、という風にして欲しかったかな。

ということで、ファンサイト「現場の声」的掲示板にこのまま投稿しても問題ないようなぬるいテイストでしたためてみましたが、いかがでしたでしょうか。

2009年01月16日

■ コラボ☆ラボ

なっちこと安倍なつみがX-JapanボーカルのToshiさんとコラボ。

この番組を見るのはあややこと松浦亜弥がチャゲさんとコラボしたとき以来。中々いいものを見せていただきました。

初顔合わせから練習シーンまで収録されていて、希代のボーカリストToshiさんと向き合う安倍なつみの緊張感やら感動やら息づかいやらがリアルに伝わってくる。最初に二人で歌うのは昨年末発売のベストアルバム「15色の似顔絵たち」から「微風」。アルバムを直に手渡しして「この1曲目に今回歌わせていただく曲が入っていて」と説明するなっち。「あ、ほんとだ」。そんな何気ないやりとりからも安倍なつみの息づかいが伝わってくる。

練習に入る。「微風に変更」というスタッフの声が入る。練習の順番が変更になったのか、本番で歌う曲が変更になったのか。後者ならどの曲から変更になったのか、何故変更になったのかが気になるところだが、まあ前者かな。アルバムを渡した当日そのまま練習に入ったようで、Toshiさんがハモりにかなり苦戦する。CDにもハモりが入っているのを聞いたToshiさん、「いまハモりが入っていましたよね」となっちに確認。「はいってます。でもあたしが入れたんじゃないんで。。。」。あれ、ハモり担当は誰だっけ?と歌詞カードで確認してみるとNatsumi Abe。あんたじゃねえか。

本番ではToshiさんの喉の調子が相当悪かったらしく、それが影響したかしなかったか、Toshiさんが絡む部分がやや少なかったのが残念。でもバックもヴァイオリンを中心としたストリングス5重奏と贅沢。松浦亜弥の時はギターベースだったので、歌い手に合わせて楽器の選定もいろいろ工夫しているんだなあ、と感じる。金もかかっているなあ。Toshiさんといる時間を「贅沢」と評した安倍なつみだが、視聴者にとっても贅沢な番組。

コラボの二曲目はToshiさんサイドの「永遠に旅すること」。こちらのほうは前もって安倍さんにはCDが渡されていたようで、下調べが済んだ状態からの練習開始。「何となく覚えてる?」。「何となく、はい」。まだ若手のアイドル出身の女性歌手を温かく見守ろうという雰囲気。期待値低めで一回通してみました、という感じで一緒に合わせて歌う。

歌い終わって第一声。「いけますねえ」。「いやーでも、はい」。そして安倍なつみ、カメラを見て「必死」。「すごい」とつぶやくToshiさん。歌詞カードを手作りするところから初めて、かなり研究を重ねていた様子。天才肌の松浦亜弥とは対照的に努力の人、安倍なつみ。

こちらのほうはToshiさんサイドの曲だと思っていたら、パートは安倍なつみのほうが多いじゃないか。しかもハモりあり、ソロあり、とかなりおいしい。ソロパートからハモりに切り替わるところが特に難しい、と安倍なつみ。

その切り替わりの最後のソロパート、「いつまでも」という一節がおそらく最高の安倍なつみ。声の艶から微妙な音程の取り方まで、これぞ安倍なつみという。ハードルを高くして、プレッシャーをかければ、期待以上にそのハードルを越えてくるのが安倍なつみ。確かにぬるま湯ハロプロなんかに止まっていてはいけないのかも知れない。本人は性格的に内弁慶なだけに、事務所まで内弁慶なのはどうにかならないものか、と思ったりも。

いずれにせよ番組スタッフも「すげぇ面白い」と太鼓判を押していたらしいこの組み合わせ、いやあ、本当にいいものが見られました。

■ 「Q.E.D.」二回目

愛ちゃんこと高橋愛主演ドラマ「Q.E.D.証明終了」二回目。

その前にまた地デジがらみの愚痴を。

10日土曜日は「Q.E.D.」の宣伝でNHKの土曜スタジオパークに出演。愛ちゃんのトーク番組なんてあまりに貴重、当然地デジでがっちり録画するぞと準備万端。

なのに、録画を開始すると同時にエラー。あわててPCを再起動したりして、なんとか途中から録画したけれど、出だし10分が飛ぶ。ああ、ショック。まあ急遽アナログで見られたから・・・。ああ、ショック。

写真集を唐突に出されて照れまくる愛ちゃんとか、デビュー前の映像を出されて恥ずかしがる愛ちゃんとか高画質で保存しておきたかったのに。。。

でもこの愛ちゃん、中々どうして、結構しっかりしゃべる。細かすぎて誰にも分からない物まねも披露してくれたし。「これやるの二回目なんですよね」とつぶやいていたその一回目は今は亡きハロモニ@。確か浴衣姿で「ノゥノゥノゥ!」と叫んでました。

終始謙虚で可愛らしく、しかも結構しっかりしたお姉さんぶりを発揮して、まあこの番組を見ていた人で愛ちゃんを好きにならない人とは人間としてどこか欠陥を抱えていると確信するのだけれど、一点、歌を披露する場面で「ラブマシーン」を照れまくってごまかして一節だけ歌ったのはもったいない。かつては藤井隆司会のバラエティ「マシュー」でうざく歌いまくっていた(ま、演出だけど)のに。もったいない、実にもったいない。

そして「本番」Q.E.D.二回目。今度はエラーを起こさないように前もってPCを再起動して準備万端。

とおもいきや、なまじ再起動をしたばかりに外付けUSBのキャプチャボックスを認識せずにまたしてもエラー。別所でリアルタイムに見ていたために録画されていないことすら知らずに、さあ見返すぞと思ってPCを見たら、全く録画されていなかった。録画失敗率高すぎ。

とりあえず低画質のファイルが手元にあるので、それを見返して我慢することにする。再放送があるらしいとのことで、私が取りそびれた2回目は2月初旬ぐらいのはず。それまで低画質ファイルで我慢するのだ。

肝心のドラマの内容だが、これがもう、1回目とは別物。2回目がこのできになるのなら1回目はもっと酷評しておいても良かった。やっぱり今回ぐらいのクオリティは欲しいよね。前回ははっきり言って高橋愛が出てなければ見るのをやめようかというレベル(ちなみに私はドラマは結構しつこく見る方)だったけれど、今回のできだったら、愛ちゃんがいるいないは無関係に見ようと思いますわ。

今回は事前にゲストキャストをみて楽しみにしていた江波杏子さんにつきる。やっぱりこのクラスの役者さんが出てくるとドラマの質が変わる。

もうトリックとかはどうでも良くて(演出・脚本サイドもそれ以外の部分で見せようとしている。それは前回からすでに覗えた)、今回でいえば「親の愛情」が主テーマになっているわけだが、これをぬるく描かずに、実に強烈な描き方をしている。死してなお娘を守らんとする母親の愛情から来る殺人なのだが、その母親を演じる江波杏子さんが鬼気迫る演技を最後の最後にするのだ。台詞もなく、ただ細工を施した人形のなかにじっとその魂を潜ませているというだけのシーンなのだが、そのシーンが狂気に満ちた恐ろしさを感じさせる。同じテーマで、同じ事件ネタでももっとぬるく描くことはいくらでも出来るのだけれども(まあ、「殺人」なのだから、余り綺麗に描かれても困るといえば困るのだけれども)、あえて狂気を前面に出すことで「母親の愛情」の強烈なまでの深さを描き出しているのだ。ちょっとしたホラー仕立ての、背中がぞくっと来るシーンでありながら、なぜか泣けてくる。これは最近のテレビドラマの中では名場面の一つに数えてもいいと思う。

ドラマ全体としては探偵役の天才少年燈馬想演じる中村蒼さんの余り目から鼻に抜ける感じがしないキャラが原作好きからは微妙に評判がよろしくないところもあるようだけれども、ドラマ制作意図からすれば、彼のナイーブな演技・演出も正しいものだと思う。主役高橋愛演じる水原可奈の母親が既に亡くなっていることと合わせて、天才少年の鮮やかな推理が売りのドラマではなくて、「主人公二人の成長」のドラマなのだ。

ドラマとしての完成度が上がるのに合わせて、高橋愛の演技も飛躍的に良くなっている。1回目は上手いか下手かと聞かれれば、「下手」と迷わず答えた(でもそう言いきるのが「ファン」として逡巡してしまったので前回は煮え切らないエントリとなった)が、今回の演技ならばほぼ問題なし。台詞が浮いたところもほとんどなく、表情も自然、抑えた演技をするべきところはきっちり抑えられていて、感情がナチュラルに伝わってくる。単なる元気だけが取り柄の「超健康優良女子高校生」ではなく、かすかな寂しさ、喪失感と、そこから来る愛情深さ、やさしさがシーンの端々に自然に浮かび出てきている。地が決して「脳天気」系ではない高橋愛の素の繊細さが良い方向に出ている。

ついでにやや余談ながら、最後の謎解きの場面で愛ちゃんが涙流しているのは、あれは絶対に目薬とかじゃありませんから。きちんと地で泣ける人。それも含めて、「きゃわ」とかじゃなくて、普通にドラマ批評的な視点から見ても、及第点。

もちろん愛ちゃんファン視点からしたら、終始「愛ちゃん、きゃわ!」の40分でした。あ、結局そこですか。ああ、そうですよ。

■ 酸っぱいブドウ

しばらく更新をサボタージュしている間にもいろいろなことがあった。ありすぎて更新が出来なかったというぐらい。

なっちこと安倍なつみ、春の小規模ライブツアー「〜春の微風〜 」、浜松公演は既にチケット入手済み。その翌日にある六本木STB公演でのチケット販売が火曜日。

関西からだから、浜松までいくのと、そこから一泊して六本木まで出向くのとでは支出額がずいぶんと違ってくる。今年は節約モードだし、今回はスルーかな、と思う。

というのがいつもの振りで、例によってまたまた一応STBチケット予約サイトにアクセスしてみましたよ。販売開始時間ちょうどにアクセスして、予約ボタンを押すところまで成功。でも次の画面に進んだらあっさり満席でさよなら。

ん〜、サイトの作りも良くないよね。普通予約ボタンを押して次の画面に進んだ段階で仮予約フラグを立てておくものだと思うんだけど、まさか個人情報入力早い者勝ち、とかじゃないよね?まあ一気にアクセスが集中した結果だ、と思っておくことにしよう。

というので、激戦が予想されたSTBライブ、文字通り「瞬殺」でした。公演数が違うから比較は出来ないけれど、あやや(松浦亜弥)のSTBライブが割とあっさり(といっても実際はこちらも「瞬殺」だったけれど)チケットが取れたので、何とかなるかなとも思ったけれど。

まあ浜松公演のチケットが押さえられていて良かった。STB一公演余分に見るためにかかる費用、浜松ー品川往復運賃+宿泊費+チケット代。ざっくり2万強。STBから直接買えるチケットって、ファンクラブの余り席しか座れないし、そうすると雑音だらけで、ステージは見えない。それで2万は高いぜ。ああ、チケット取れなくて良かった。

2009年01月10日

■ Q.E.D. 証明終了

高橋愛主演ドラマ「Q.E.D. 証明終了」。

私はドラマオタクだ。ハロプロメンバー出演番組を見る時間よりもドラマを見る時間のほうが圧倒的に長い。主要なドラマはほぼすべてを見ることにしている(昼ドラは除く)。かつては簡単だが一つ一つ批評文を物していたこともある。しかも結構シビアな見方をする。

今回の「Q.E.D.」だって高橋愛主演とは無関係に見る対象になるドラマ。当然、ドラマファンという視点で見る。シビアな視点だって保持する。それがドラマファンとしての矜恃というものだ。ここで「愛ちゃんきゃわ」なんて感想文を書いたら、それはドラマという文化作品への愚弄に他ならない。

さあ、始まった。しっかり見て、久々にドラマ批評をしっかり書くことにしよう。

第一回終了。さあ、批評文をば。

愛ちゃんきゃわ!愛ちゃんきゃわ!


というエントリで更新する予定だったのだが、もう少しまじめに書くことにする。

とりあえずハードディスクが磨り減るぐらい見返している。一応それが私のこの作品への評価のすべてだと言うことだ。愛ちゃんきゃわ!愛ちゃんきゃわ!

いや、だからそうではなくて、演技だとかストーリーだとか。

推理ものとしてはまあいろいろ突っ込みが入るところだろう。特に「容疑者」3人のキャラがあまりたっていないので、一回見ただけでは話の流れがよく分からなかった。これは辛い。少しゲスト役者が地味すぎたように思う。第2回放送予定を見るとキャラのたった役者さんが出演されるのを見てそう思った。トリックもまあ、いややめておこう。そこを突っ込めばきりがない。

演技・演出と言うところではいろいろ言っている人もいるようだけれど、これは演出サイドとして、かなりわかりやすい、小学生でも分かるような演技を求めたのだと想像できる。基本的に子ども向けドラマの演出。石黒賢さんの演技を見ているとそのように理解できる。繊細で、微妙な心理的変化を描く意図はなく、誰が見ても同じ心理解釈が可能な演出。ただその割に台詞の滑舌が悪い場面があったりして、すんなりストーリーが頭に入ってこないところがあったのは少し痛い。

高橋愛の演技についても基本的にはそれを踏襲したものと言うしかないだろう。もちろん堅さも見られたが、その点については場面ごとにずいぶん印象が違ったので、撮影開始当初の演技はかなり堅かったが、段々こなれてきた可能性があり、今後はもっと良くなっていくだろう。あと女言葉でしゃべっているシーンは少しわざとらしさが感じられるので、作中人物像(暴力的なところもある元気娘)からしても、普通に中性言葉でしゃべらせる方がいいと思う。

とくに最終場面、天才少年燈馬想が高橋愛演じる水原可奈に「Q.E.D.」の言葉の意味の説明をし、「いつかQ.E.D.できるのかな」とつぶやくところの二人は表情を含め、良い演技をしていた。そしてこの場面こそ、毎回の謎解きとは別に、このドラマ全体を貫くおそらく最も重要なテーマに関わる部分、ここがしっかりしていた、というのは大切なポイントだ。

あ〜、落ちに繋がらない。え?どんな落ちを用意していたんだって?

愛ちゃんきゃわ!愛ちゃんきゃわ!

ワンパターン。つまんない。

2009年01月07日

■ 古き良き伝統

安倍なつみと矢口真里がレポーターとして出演した「世界の村で発見!こんなところに日本人」。これは中々実によい番組であった。この二人が出ているとかは関わりなく(といっても出ているから見たわけだが)、番組そのものとして面白かった。

しかしその面白さはここで書けるようなたぐいのものではない、見てない人は再放送でもあればまた見てください、というしかない。とりあえずここで書くべきこととして、「モーニング娘。」ファンとしてはやはり「なちまり」がポイントだ。

最初にカメラが二人並んでいるのをとらえたシーン、安倍なつみはきょとんとして何となく初々しく、矢口真里はそれからするとやはり落ち着いた雰囲気。そういうシーンからしても、その他諸々のこれまでの「記憶」からしても、頼りない安倍なつみをしっかり者の矢口真里があれこれフォローするのだろうな、と今後の二人の道中を想像する。その後、「アイスランドはどこか」と問われて、地図も何もない中空の明後日の方向を指して、「こっち?」と答えた安倍なつみと、「またまた〜」という表情を浮かべつつ、それにあえて乗ってみた矢口真里の姿を見て、その思いを強くする。

しかし道中は中々どうして、安倍なつみが結構「お姉さん」っぽく振る舞っているのだ。強風の中、矢口をかばうようにする仕草、ヒッチハイクをするとき、先にターゲットに駆け寄り、身振り手振りでやりとりする様、バスターミナルの窓口で英語混じりに問い合わせをする様、あ〜なっちは自分がしっかりやらなきゃ、と思っているのだなあ、と。

1998年「抱いてHold on me」のキャンペーンのシーンを思い出す。このときは矢口真里はまだ加入してまなし。移動車から出て、大勢の観衆が待つステージに登場する場面。安倍なつみは「怖い、怖い」と言って後輩矢口真里の背中に隠れるような仕草をした。それと比べて10年で何たる成長ぶり!

しかしやはりなんだかんだ矢口はあれこれ気を回して安倍なつみをフォローしているものだ。「姉」を立てつつも、良く気のつく賢い「妹」として実に上手く場をコントロールしている。頼りない姉を立てつつ、それを支えるしっかり者の妹、今のモーニング娘。に同じ構造が反復されていることを思い出す。「頼りない?リーダー」高橋愛、それをなんやかやと支える新垣里沙と後輩たち。なるほど、モーニング娘。の伝統の一つなのだ。

■ 道重さゆみの「小学校教科書クイズ 」

道重さゆみが大活躍したクイズ番組「小学校教科書クイズ 」に関しては既に界隈で多くのテキストが生産されている。しかしその多くのテキストは本質を取り逃がしている。

しかし結論は佐紀先(普通に変換したら佐紀が先に出た。おかしいな)に送って、そろりと参ろう。

まず道重さんの珍解答、あれはウケ狙いだったのではないか、という議論がある。確かに純然たる間違いとは思いがたい解答があった。

この点については確かにウケ狙いの要素があったと言おう。しかしそれはかの番組で「ドーピング」と呼ばれているたぐいのものではなかっただろう。「ドーピング」とは実際は正解が分かっているのに、あえてウケをねらって間違った解答をすることだ。それはクイズ番組的には反則だろう。

しかし答えが分からないときにどう解答したか、は別の問題である。何とか正解に近い、正解の可能性があると思しき方向に頭が働いたとき、何とか正解にたどり着こう、可能性は低くとも当たる可能性のある答えを書こうとするだろう。そして道重さゆみもそうしていたはずだ。問題は正解が皆目見当もつかないとき。全く何の手がかりもえられない問を前にしたとき、普通私たちは無解答、空欄とする。しかしテレビ番組解答者としてそれは許されない。となると何か答えを書かなければならない。

皆目見当がつかない以上、何を書いてもどうにもならないのだ。それでも何か書かなければならない、そういう状況を思い浮かべてみれば分かるが、これはかなり苦痛なのだ。

そういう状況にあって、ネタを書けたのだとすると、それは既にそれだけでたいしたものだと言わなければならない。道重さゆみの「ウケ狙い」の解答とはこういう状況において生み出されたものだ。

ましてそういう「お笑い」の素人にとっては苦しい状況の中で生み出されたウケ狙い解答(と思しき解答)、これが実にたいしたものであった。

三葉虫の化石の写真を見せて、これは何の化石の写真かを問う問題。道重さんの解答は「カイヤ」。

笑いを解説するのは全くもって野暮なのだが、しかしこの解答、実に理知的に計算された絶妙な解答となっている。この解答の面白さはオンエアを見るのが一番として、野暮は承知でこの解答が理知的なものであることを簡単に説明しよう。

この番組、解答者にはかなり多数のゲストがいたのだが、その中の一人に川崎麻世がいた。周知の通り、川崎麻世さんは恐妻家と知られ、その奥さんの名が「カイヤ」。道重さんは川崎さんが「いじられる」ように絶妙なパスを出した。

道重さゆみのすごさはこのパスがロングパスだということだ。バラエティ慣れしていない人間が人をいじる、乃至いじらせようとしても普通短いパスを出すのがいっぱいいっぱいだろう。「身内」に振る。同じ解答者席にいた「先輩」矢口真里か、せいぜい同じ「バカキャラ」スザンヌ、つるの剛士にまで振れたらたいしたものだ。

それがいきなりの川崎麻世。何の接点もない、大先輩を「いじらせる」。しかも絶妙のポイントで。これほどのロングパスを成功させられる人はそうはいるまい。

実際あの場面でこれ以上の解答があるだろうか。あるいはこれと同等か、これ以上の解答を出せる「お笑い」芸人が今のテレビ界にどのぐらいの割合いるだろうか、と考えれば、あの解答は限りなくボケの模範解答に近いものであったと言ってよかろう。

ウケ狙いといっても、単に突拍子もないこと、あるいは下品なことを言うのではない、実に計算し尽くされたボケをかます、このことを積極的に評価すべきなのだ。高橋愛が道重さゆみを評して言った「頭はいいです、でも言葉(=知識)を知らない、その辺がまだ若い」その通りに、道重さゆみの頭の良さが最大限に発揮された名場面だったのだ。

要するに「バカ(=知識の欠如)」が受けたのではない、計算された笑いを作り出した「頭の良さ」が評価されたと見るべきなのだ。

しかしこの道重さゆみ評もまた本質を取り逃がしている。この番組の道重さゆみは確かに面白かった。しかしそれはいまだ手段に過ぎない。彼女を画面に多く映らせるための。

道重さゆみが画面に多く登場することによって、この番組の視聴者に伝えられた一番の本質、それは「道重さゆみは絶対的に可愛い」ということだ。これがこの番組の本質であり、すべてなのだ。

2009年01月06日

■ 幸先良し

「よろせん」地デジでの初視聴。

晴れ着姿の娘。を今年はじめてみる。初娘。あるいは娘。はじめ。ってなんか別の言葉と間違えそうだな。

ポケモーからは愛ちゃんの晴れ着待ち受け画像をダウンロード。これまではデフォルトのクールなアナログ時計を待ち受けにしていたけれど、愛ちゃん晴れ着があまりによかったので、待ち受け画面を変えてみる。なかなかいい感じ。

なかなかいい感じのスタートを切った<何のだ?

2009年01月05日

■ 幸せって何だっけ

トラックバックをいただいた内容についてのお返事。アンジェラスさん「勝ち組〜負け組とか〜」

どうも話がかみ合っていないのか、すれ違っている感じです。例えばPaboと音楽ガッタス、私は両ユニットのファンでは特にありませんので、あまり両ユニットの置かれた状況についてはよく知らないのですが、アンジェラスさんの言い分を読むと、Paboは「勝ち組」、音楽ガッタスは「負け組」と言っているように読めます。そういう言葉を使う使わないは別として、この両ユニットにそりゃ「違い」はあるでしょうが、アンジェラスさんのエントリを読むと両ユニットに価値的な「差」があるように読めます。それを自明のものとされても、私はよく分からないのです。知名度も確かに重要でしょうが、その一点を持って「この両者の違いって、一体何なのでしょうか」と言われても、私は困ってしまいます。それはまるで例えば「プロ野球」と「カーリング」と、知名度に違いはあるけれども、「この両者の違いって、一体何なのでしょうか」と問われたような戸惑いです。カーリングファンに向かって、君たちの応援している競技は知名度が低い、カーリング協会(そんなのがあるかどうかは知りませんが)はアピールが不十分だ!と煽っているようなもので、そんな煽りをされてもカーリングファンからすれば不愉快になるだけじゃないですか。私はPaboと音楽ガッタス、どちらからがより価値があるとも思いませんし、さらに言えばどちらかがより*ユニットとして*幸せであるとも思いません。アンジェラスさんは多くの人に知られていることが*ユニットとしての*幸せの必要条件だ、という前提でお話しされているように思いますが、それが私には分からないのです。知られているに超したことはありません、しかしそれこそが重要だ、知名度が不足しているのは不幸なことなのだ、といわれると、少なくとも私はカチンときます。

私にはどこかしらアンジェラスさんは論理を転倒されているように読めてしまいます。知名度があるものが価値があるのではなく、価値があると思うものを少しでも知らしめたいと思う、私はそう思います。たぶんアンジェラスさんも同じことをおっしゃっているのだと思います。だからたぶん私の誤読だとは思うのですが、音楽ガッタスとPaboのくだりは特にそのように読めてしまいました。アンジェラスさんの表現があまりに「中身」を省いて、知名度に力点を置かれているからです。

もし論理の転倒が私の誤読であるならば(当然そうであるはずだと思っています)、「ファンの皆さんが個人サイトやブログ等を通じて、アーティストの活動を世間に向かって発信する事は出来ると思います」というくだりについては100%賛同いたします。

しかしそれならより一層私たちのなすべきことはメディア露出の少なさを嘆くことではないはずです。メディア露出が少ないことを世間に向かって発信することが「アーティストの活動を世間に向かって発信する事」ではないですよね。某ファンサイトでモーニング娘。のテレビ露出の減少をしつこく嘆いた方がいましたが、そういうネガティブな発信をしつこく続けることは「アーティストの活動を世間に向かって発信する事」とはどう考えても整合しません。私の印象ではそうしたネガティブな発言の反動として一部の事務所万歳論者が台頭したようにも見えます。そしてどちらがましかと言われれば、私はまだしも後者のほうだとさえ思っています。

例えば「マクガフィン」というユニットがあるとしましょう。そのユニットは久しくテレビ出演をしていません。さてファンサイトが二つあります。一つはマクガフィンがテレビに出ないことを嘆き、事務所の無能を言いつのっているサイト、一つはテレビ出演など気にせず、マクガフィンの行っているライブのレポートを載せ、そのライブのすばらしさを謳い上げているサイト、どっちがマクガフィンの*ために*なっているサイトでしょうか。

実際テレビ出演など久しくしていなくても、固定ファンがしっかりついて、愛されている音楽グループなんてたくさんあるじゃないですか。そのグループのファンサイトに行って、たとえば「羞恥心」は知名度があって、紅白も出場したぞ、いったいこの差は何だ、といって何になるのでしょう。私がそのファンサイトの管理人だったら、そんなバカはアクセス禁止にしてやりたいぐらいですよ。

私たちがなすべきことはメディア露出の多寡について云々することではなくて、自分が受容した作品の価値を積極的に発信することでしょう。テレビを通じて、あるいは現場で直接、我々が見聞きした作品の価値を発信すること、それが「アーティストの活動を世間に向かって発信する」ことに他なりませんよね。

音楽ガッタスに戻りますが、アンジェラスさんの記述を読むと、Paboと比べて音楽ガッタスは*不幸な*ユニットに読めてしまいます。どちらも知らない人がアンジェラスさんの記述を読んで、どちらのユニットを今後見聞きしたいと思うでしょうか。私たちはやはり*幸福な*ものに触れたい、音楽なのだから多幸感溢れるユニット・グループの音楽をこそ聴きたいと思うのではないですか(その作品自体は悲恋をテーマにしたバラードであっても、です)。たとえ「ごく限られたファンにしかその存在を知られていな」くても、そのファンに本当に愛されているユニットなのなら、それはそれで私はユニットとして幸せだと思います。そしてそのユニットのすばらしさをブログなどを通じて謳い上げることによって、さらにそれに触れる人が出れば、それはさらに素晴らしいことです。

ちなみに私はアンジェラスさんからすればハロプロ信者に属する人間だからかも知れませんが(苦笑)、Paboと音楽ガッタス、どっちがユニットとして*幸せ*だと思うかと問われれば、音楽ガッタスのほうだと答えるかもしれません。ついているファン一人一人の思い入れが音楽ガッタスのほうが遙かに強いように私には見えるからです。これは単にネット上でのファンブログのレポートを見ただけの印象なので間違っているかも知れませんが。こうした私の価値観は小説でも、映画でも同じことです。史上空前の観客動員をした映画と、マニア受けした小品、前者のほうが良いに決まっているという価値観を私は持っていないのです。


追記。

件のエントリが私にはまさに「勝ち組・負け組」言説の反復に見えるんだけれども(加護ちゃんの発言もその一つ)、そして私の「敵」はそういう言説だと言っている訳なんだけど、そんなに分かりにくい話なのかな、と思ったり。

まあ「言説」という概念がテクニカルタームなので、そこに頼って、説明を省きすぎたのかな。でも「言説」の説明って難しいんだもん。ま、反省。

2009年01月04日

■ よし、今日も可愛いぞ!

今日のさゆ(道重さゆみ)は神懸かり的に可愛かった。でも設定ミスで長期保存できないドライブに録画してしまった。地デジはドライブ間のファイル移動が出来ないのでどうしようか。

裕ちゃん(中澤裕子)のドラマはドライブ容量不足で録画しそびれた。アナログに比べて地デジはいろいろ面倒だなあ。録画ソフトもやたらと重くて不安定だし。最後40分ぐらいだけリアルで見た。界隈で波紋を呼んだ(らしい)「濡れ場」の「ぬ」の字も「お色気」の「お」の字もなかった。冒頭にちょっとだけあったらしいけれど。って別にそれ目的で見たわけじゃないよ。

先日のなちまり(安倍なつみと矢口真里)の番組も良かったし、なんか去年よりも今年のほうが正月テレビは充実していたような。

いい一年になるかな?

2009年01月03日

■ 一年の計

「革命元年」は元年であって、その最初の日に何かが起こるというわけではなかったようだ。なるほど。

というわけでハロプロ年少組(来年度以降の真「ハロプロ」)ワンダフルハーツコンサートはつつがなく終了したらしい。まあ想像通りだったかな。微妙に肩すかしみたいなところもあったけれど。

まあこの先何があろうとも、私は変わらず「文化」としてのモーニング娘。を見つめていく所存。時流におもねった表層的な評価にとどまることなく、表現されたもの=文化的生産物の価値をしっかりと評価し、またその生産活動を少しでも支えていくこと、そのためには「表現されたもの」については時に辛辣な評をすることもありますが、うちはそういうスタンスのサイトだということでご理解下さいませ。

否定的な記述をメンバーに見せられるか、という問を見かけたことがありますが、私が安倍なつみについてもっとも否定的な評をした一連のエントリを安倍なつみが読んでくれたら、私はうれしさのあまり泣くと思います。まあだからといってファンレターにしたためるとかはしないのですが。ちなみに高橋愛のある種のネタについてはあまり読んでもらいたくはありませんです。

2009年01月02日

■ テレビに出るのが勝ち組vs事務所が儲かっているからすべてよし

アンジェラスさんからいただいたコメントのお返事、長くなり、かつ論点として重要だと感じましたので、新規エントリを立てます。

「いつも新曲は出したら出しっぱなし、今年も沢山ライブやってチケット売れたからそれで良いみたいなアップフロント流の考え方」

それはそうなんですけどね(苦笑)。アップフロントのまずさはまずさとして、加護ちゃんサイドが慎重に事を進めている、というのも理解も共感もしていますよ。私が「待ってくれ」と思ったのは「自分だけテレビに出られて」という発言一点でして。

まずテレビタレントがテレビに出るのは当たり前で、それはそれで価値があるというのは全く否定しません。しかしテレビではない活動だって立派な芸能活動であって、テレビに出ないから駄目だ、という言説には辟易としています。それは「もっとテレビに出てプロモーションしなくては」という主張とは別のものです。私はもっとモーニング娘。として真っ当なメディア展開はすべきだとは思っていますよ。でもテレビに「出られない」今の娘。は価値が低いとも思いません。戦略としては下手だと思いますけど。

エントリに書いたようにモーニング娘。にとってテレビに出るのは「手段」として重要だと思います。しかしあくまで「手段」であって、目的ではない。加護ちゃんにとってはどっちが目的でどっちが手段かは分かりませんが、もし加護ちゃんがテレビ出演が「目的」なのなら、それはそれでいいと思います。思いますが、それはモーニング娘。とは別の芸能活動となるので、「自分だけテレビに出られて(出られない人たちに申し訳ない=出られない人可哀想)」というのは当たりません。そこを同一平面に並べてしまうのはテレビに出ている「バラドル」が「勝ち組」であって、舞台やライブ活動を主として活動している人を「負け組」呼ばわりする言説と同じ論理構造を反復していると思います。

いまのファン界隈言説は「テレビ出演」をするものが「勝ち組」なのか、「現場で稼ぐ」のがよいことなのか、という二元論で終始しているように思います。そして加護ちゃんの発言(あるいはそれを紹介した加護ちゃんファンの言説、というべきなのかも知れませんが)もそこにとらわれているように思いました。

まあ私の主張が後者に与しているように読まれるのはある意味仕方のないことで、私が応援している人が主として「現場」傾斜になっているというのが大きいのかなと。どうしてもそっち(活動方針というよりはその人自身)に肩入れする感じにはなってしまいます。ただそれだけでなく、アップフロント・ハロプロファン界隈では確かに後者が主流言説に見える部分もありますが、それ以外の場に出ると明らかに前者、「テレビに出ることこそが勝ち組」が主流言説に思います(ファンのやっている「ハロプロMVP」企画みたいなのだってテレビに出ている里田まいさんがMVPとされることが多いですよね。安倍なつみや松浦亜弥や娘。メンバーをMVPとするのは明らかに少数派でしょう)。私はむしろその主流言説のほうが仮想敵なのです。そしてその主流言説がアップフロント・ハロプロファン界隈でも席巻し、娘。落ち目、安倍なつみ負け組、みたいなことが反復されている、私はそちらの方に抵抗する言説を生産しようと思っているのです。

ちなみに界隈で流行の「アップフロントは偉大だ」「事務所が儲かればよい」一派なんて逆に相手にするほどの言説だとは私は認識していません。某ファンサイトで席巻しているように見えるだけで、言説としての力なんて全くないと思うんですけど。せいぜい事務所をすべて悪者にすれば事足りるというファン言説(まあ私も最近はどちらかというとこっち側ですが。事務所が嫌いというよりは現状批判をする際、メンバー批判よりはよほどましだという理由もあって)への反動的抵抗言説ぐらいにしかとらえていません。実際某ファンサイトでもまともに相手にされていないんじゃないですか。どっちかというとアンチ事務所の工作員に見えるぐらい(笑)。

3万円イベントについては、どうなんでしょうかね。まあ今回は「クリスマス」ということでそっちだけにした、というのは理解すべきなんでしょうけれども。安倍なつみや松浦亜弥の活動がディナーショーみたいなのを主とするようになったら私はついて行けないです、経済的に。ちなみにFCだけでやっていることなので、私が口を出すことではありませんが、娘。ハワイツアーも私はあまり好意的ではありません。どちらも資金稼ぎとして必要だ、といわれればどうこう言える筋合いのものではありませんが。もっとも加護ちゃんも秋にはアンダー1万円のイベントをやっているのだから、今回のイベントだけを取りざたすべきではなかったですね。ただ+7000円の特別プログラムだとか、良い印象を持ちにくいことが今回のイベントにはいろいろあったのでつい筆が滑ってしまいました。


追記

「事務所が儲かっているからいいんだ」言説って有害なのかなあ、というのもあります。別にいわせとけばいいやん、としか正直思わない。事務所自身がそういう考えなのは困りますが(でもまあ、そうでしょうけれど)、ファンサイドで「事務所ファン」みたいな輩がいたって共感のしようもないけれど、別に私は腹も立ちません、それ自体の言説構造としては。もちろんそこから派生して、事務所は立派なのに、所属タレントが駄目だから、とか、アップフロントから離れた奴は裏切り者だ、とか言い出すと話は別ですが、それは言説構造としては別のものであって、そういう言説は別個批判すべきことだと私は思います。

「事務所が儲かっているからいいんだ」言説を唱える人がファンサイトで席巻したからといって、事務所がつけあがるとも思えませんし、逆にそういう言説を「鎮圧」したところで、事務所が考えを改めるとも思えません。仮にCDだかDVDだかの売上が数百枚が上がっただけでも「大成功!」と言ったって別にいいじゃないですか。いちいち何かにつけて惨敗だ何だと言っているのと比べて、こちらだけが特に悪質だとは思いませんけどねえ。まあ私はそんなので「大成功!」とも思わないし、共感も賛同もしませんが、単に読み飛ばすだけです。

あるいは例えば握手会でCDを大量枚買いさせて、CD売上をアップ・維持するのだって、私は好きでもないし、評価もしませんが、そこに金をつぎ込み、握手して喜ぶ様をレポートし、売上のアップ・維持をファンが言祝ぐのも「言説としては」さして有害とも思えません。それしか能がない事務所にはうんざりですし、そういう事務所の(無)戦略を批判する言説のほうに私は遙かに共感しますが。

■ ハロプロ大賞2008 落ち穂拾い

勢いで書き上げてしまった「ハロプロ大賞2008」シリーズだったので、いろいろ積み残しが出てしまった。簡単に補足を。

去年の3月まで「歌ドキ」をやっていたことをすっかり失念していた。「歌唱」部門にエントリーしたかったものがあったのに。高橋愛「恋人よ」。これよかったのになあ。

加護ちゃんの件。私は彼女が「また歌いたい」という一心で復帰したのだと、加護ちゃんファンの人たちのブログなどを読んだりして、勝手にそう思っていた。「みんなの前で歌う」、それが目的なのだと。そうだとするとバラエティ番組出演は「手段」にすぎないということになる。実際misonoさんなんかはそういうことをはっきり言っているわけです。ライブをやりたい、でも今は出来ない。バラエティに出演してでもお金を稼がなくてはいけない。加護ちゃんも同じ気持ちだと私は勝手に思っていたわけだ。

そしてもしそうだとしたら、今のモーニング娘。、ホールクラスのコンサートを年間70公演やる今のモーニング娘。は彼女たちの目標であって、決して同情の対象じゃない。手段と目的をはき違えていなければそうなるはず。

でも加護ちゃんは今の娘。を自分の目標だとは言わなかった。「自分だけテレビに出られて」なんて言ってしまった。あ、そういう認識だったのか、と。加護ちゃんの自分に対する現状認識ってそうなんだ、と。自分の「スキャンダル」をネタにして、テレビに出られて満足。そんなことのために戻ってきたんだ。別にいいけれど。

思い切り意地悪く言うと上のような話。

まあ実際は違うんだと思うけれどもね。自分の目的が何かをぶらさず見据えてものを語る、ということができない娘なんだと思う。そういう危うさは昔からあったし、そういう危うさも含めての「加護ちゃん」なんだから、今更それをどうこう批判がましく言うのも違うとは思う。表面的な語りはどうあれ、心の奥底にしっかりしたものを持っていてくれればそれでいい。

でもその心の奥底にある思いをしっかりくみ取ってくれるスタッフは周りにいるのかい?ファンの前で歌う有料ライブといえば3万円イベントを連発する、そこに加護ちゃんの思いはくみ取られているのかい?

愛ちゃんを「エロ」ネタまみれにしてしまったこと。ごめんなさい!!!あくまで「ネタ」ですから。道重(さゆみ)さんが愛ちゃんを評して「カッコ可愛いセクシーガール」と言っていた、そういうことです。

■ マリコの部屋に電話をかけて

大晦日は紅白は見ずに、田中れいなのソロラジオでOn Airされたモーニング娘。新曲「泣いちゃうかも」を聞き込んでいました。

ラジオ音源なので、今の段階でオケがどうとかいうのはナンセンスだと思うんですが、音楽マニアはあの音質からでもオケの善し悪しとか分かっちゃうんですかねえ。結構CD音質だと印象が変わることが多いのだけれど。

まあ曲自体はものすごく新味があるか、というと、まあ最近の娘。の曲ですね、という感じだけれど、悪くはないんじゃないかと。本音を言うともう少し思い切った曲を期待するところはあるけれど、今のファン層の許容度の狭さとワンダ3グループの各々の立ち位置を鑑みると、あまり路線に幅は持たせられないのだろうなと思う。Berryz工房の「行け 行け モンキーダンス」を娘。にあてがったらどうなるか、と考えるとね。私はいいと思うけれど、制作陣が冒険はしたくない、と考えるとすれば、それも理解できてしまう。とにかく否定からはいる言説が多すぎる。まあ私も含めてだけれど。

で、「マリコ」って誰よ?