重層的非決定?

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2004年12月31日

■ 謹賀新年

初期設定のまま使っているので、6時にならないと日付変わりません。

とりあえずこのまま、あけましておめでとうございます。

■ 紅白

なっちこと安倍なつみの出ない紅白なんて見る価値なし、と放置するつもりだったのだが、Wと藤本美貴と高橋愛と田中れいなと後藤真希と大谷雅恵に免じて見ることにした。

2004年12月30日

■ 正義の掃き溜め

最近つらつら考えるのは、倫理的な公準においていまや「善悪」「正義・不正」という二元論はもはやその価値を失っているのではないか、ということだ。それを強く考えるきっかけとなったのはイラク香田さんの時の2ch・ブログの反応を見たことだ。

あの一件を正しいか、間違っているかで論じることの意味はどこにあるのだろう。「正しいか、間違いか」と聞かれれば、どこにも「正しい」ものは無い。彼がイラク入りしたのも間違いだったし、もちろん彼を拉致し、殺害した犯人たちも間違っている。しかしそうして両者「正しくない」と評価して見せて、それでどんな意味があるのだろう。少なくとも香田さんの「間違い」は、いやおうなしに彼自身がその結果を負う事になった、それ以上に*我々*が何を付け加えることがあるのだろう。

私はだから、この問題には触れるべきではなかった、と言いたいのではない。むしろ本質的には問題の映像は、広島・長崎の残忍な写真と同じ意味でもって、「日本人」は見るべきだとさえ思っている。「本質的」と断り書きを入れているのは、今はまだなお遺族の心情を慮る必要も一方であると思うからだ。

その上で私はこの問題は「正しい」「間違い」という公準で語られるべき問題ではない、と思うのだ。こうした判断は、それで自分は事態を客観的に整理し、理解したのだ、という印象を自らに持たせてしまう。感じること、考えることを停止していしまうのだ。もちろん何も感じていないわけではない。ただその感じている印象を、その場の場当たり的な「快・不快」「好悪」というこれまた二元論で整理してしまい、その判断を「正しい」「間違い」の二元論に密輸入してしまう。そうして一時的な印象が、直ちに最終的な客観的判断に摩り替わる。粗野な第一印象を捻じ曲げたものが正しいか間違っているかの判断結果となるのだ。

結果が出てしまえば、あとは簡単だ。結果から逆算して、様々な、しかし場当たり的かつ恣意的な事象をその判断に従ってあげつらえば、それで物事は語れる。いっぱしの批評家にでもなったつもりで、己の「快」を正義になぞらえて、事象をぶった切れる。

もちろん「快・不快」とは己の内面の発露に他ならず、要するにやっていることは己の精神状況を外部に投影させているだけだ。

本来の「不正」の告発とは客観的立場からなされるものではない。「告発」とはある特定の、利害関係などを含んだ、それだけに切実な立場に立って行うことであって、最終結果でもなんでもない、始まりでしかないものだ。そうした過程を全て省いて、ただの野次馬が行う「正しい」立場からの告発などは、糞餓鬼の妄想レベルのものでしかない。

今、正義などという胡散臭い言葉が最も満ちている場のひとつが、2chである。

2004年12月29日

■ ALBUM

いまさらながらだが、

ALBUM―1998‐2003

ALBUM―1998‐2003

入手。

「陽光」とほとんど同じ構成。作品としての出来は「陽光」には劣る。この差は出版社の力量の差か。ただし、「ALBUM」もこれはこれで、「陽光」のしっとりとした仕上がりに比して、ポップな仕上がりで悪くはない。

文章は相変わらず退屈。中澤裕子さんの「ずっと後ろから見てきた」と比較しても、同じタレント本とはいえ、文章自体は安倍なつみさんの2冊のエッセイのほうがかなり読みにくい。いずれも編集の手はかなり入っているものと推察するが、そもそもの語りのストーリー自体が安倍さんのはごちゃついているのだろう。一貫した流れで己の歩みを語る中澤さんに対して、その場その場の思いを一気呵成にしゃべり、それがだらだら反復される安倍さん。コンサートでのMCを髣髴させる。なるほどこれが「なっちワールド」なのかもしれない。

基本的に論理のない感性だけの人だから、表現手段として「詩」に飛びついたんだろうけれど、詩だって言葉だからなあ。確かに安倍さんには独特の世界があって、歌は後浦なつみで一番下手だろうが(しかし松浦さんはともかく、かつては同等だと思っていた後藤さんに負けているというのは後藤さんが上達したのか、安倍さんが下手になったのか)、コンサートが内輪受けしかしないものだろうが、写真集が概して不人気だろうが、それでも安倍さんにはきっと何かがあって、それは「陽光」のような作品を生み出させた「何か」なのだが、それを安倍さん自身が自ら見つけようとしてもがいている、というところか。

多分その「何か」は安倍さんの中にまとまったものとしては存在していなくて、ハロプロメンバーやらスタッフやらに囲まれて、助けられて、その中で光り輝く類のものなのだと思う。だからモーニング娘。卒業はやめておけとあれほど、言ってないけど。

■ 太陽と果実

ALBUM入手のためにそういう類の書店に行ったので、ついでに一冊。

メロン記念日・太陽と果実

メロン記念日・太陽と果実

大谷雅恵さん推しとして。

えー、露出が多いほうがよい、という一元的価値観は持っておりませんが、それでも一目大谷さんの露出が有意に少ないんですが。

どうでも良いけど、同じ室蘭出身なのに安倍なつみさんと大谷雅恵さんの絡みをほとんど見かけないんですが。というか、大谷さんが誰かと絡んでいるところがほとんど見ないんですが。

2004年12月26日

■ アノミー

年末。年内の仕事も一段落ついて、時間的に余裕が出れば、いろいろ余計なことも考える。ひたすら時間に追われて仕事に励み、精神の自由を失えば、逆に精神的な安定を得られる。裕福にはなれるかもしれないが、階級社会的安寧。

逆に自由な状態とは、飢え死にする自由とまではならないが、精神的な揺らぎが大きくなる。漠然とした期待と、比較的具体的な不安。デュルケーム・マートンそのまんまじゃねえか、なんてつぶやいてみる。

今日、2年近くぶりにある人にメールを送った。余計なことをと知りつつ、送信する。数パーセントの期待のほうが百パーセントの否定より残酷なことを散々思い知ったはずなのに。

2004年12月25日

■ トマトはトマト(回覧文)

安倍なつみの盗作問題で、彼女の書いた「トマト」と相田みつをの書いた「トマトとメロン」の*本質的*違いについて前に書いた。そしてその問題はすぐれて批評的な問題である、とも。

その辺のはなしを補講日の英書購読の時間にしたのだが、出席者が少なく(3人)、いかにも惜しい。というので、ここで改めて触りだけ紹介。

トマトにねえいくら肥料やったってさ〜 
メロンにはならねんだなあ
トマトとねメロンをねいくら比べたって 
しょうがねんだなあ

トマトよりメロンのほうが高級だ なんて思っているのは
人間だけだねそれもね欲のふかい人間だけだな

トマトもね メロンもね当事者同士は
比べも競走もしてねんだな トマトはトマトのいのちを
精一杯に生きているだけ メロンはメロンのいのちを 
いのちいっぱいに 生きているだけ

相田みつを「トマトとメロン」1984

トマトはピーマンにはなれない
トマトは茄子になんかなれっこない

トマトはトマト
赤くて丸くて光ってる
トマトはトマトらしくあればいい
時々レタスに憧れたりもするけれど
トマトはトマトなんだもん

安倍なつみ「トマト」2004

某検証サイトと称するアホサイトは恣意的に一部だけを掲載し、この両詩も盗作の中に入れているが、こうしてきちんと引用すれば、小学生だってこれが「盗作」ではないことが分かるだろう。もちろん「重なっている文字の量が少ない」などということを主張したいのではない。詩の世界が双方で全く違っている、と言っているのだ。

しかしここで「盗作」云々のはなしをしたいのではない。そうではなく、原則気に入った言葉を引き写すしか作詞法を知らなかった安倍なつみがなぜ、この「トマト」に関しては別の詩を書いたのか、ここで考えたいのはその問題だ。

結論から言うと、そこには20年にわたる時代の壁がある、ということだ。両詩とも「トマト」のアイデンティティについて語りながら、しかし己を映す鏡として選ばれたものは全く意味を違えている。

相田の詩が前提としている世界は、まさに近代資本制の論理が貫徹される世界である。個性などという曖昧なものではなく、「(交換)価値」という量的なもののみが全ての評価基準になる。そうして全てのものは量として序列化され、比較されるのだ。そうした論理が「モノ」だけでなく、人間にまで貫徹されるとき、立身出世主義的競争社会が到来する。

1984年とは、まさにそういう時代であるという状況認識が華やかなりし時だったのだ。「受験戦争」という言葉がそれなりの切実さを持って語られ、そこからの脱落者が「落ちこぼれ」として排除される。そういう状況認識が競争社会を否定する言説を招きよせる。相田の詩はまさにそういう時代性を反映して作られたものなのだ。

今もそういう状況認識がなくなったわけではない。「世界にひとつだけの花」という歌がヒットしたのはまさにそういうことだ。しかしある意味既に散々で尽くした言説であり、もはや支配言説なのは「立身出世主義」ではなく、こちらの言説のほうだ。そうなれば、もはやもともと「対抗言説」として作られた相田の詩を、そのまま共感することは難しくなってくる。

おそらく安倍にとって、トマトを擬人化する映像的な部分での面白さは「素敵だな」とは思えても、トマトとメロンを並べ、高級云々で話を進めていく流れにはさして共感が出来なかったのだろう。今の支配言説たる「No1よりonly one」という言説の肝たる後半部分にこそ自分なりのリアリティを感じうるであろう彼女は、ただその部分のみを相田の詩に倣ってトマトを登場人物に仕上げ、作品としたのだ。

20年の歳月、相田と安倍の間を隔てたものはまさに「only one」言説の変容、対抗言説から支配言説への移行、なのである。

■ クリスマスプレゼント

貴方様の整理番号は115です。決定いたしました。締め切りは明日の23:00までとなっております。
下記のアドレス宛にお返事を一通頂ければ、確実に、この権利を守る事が出来ます。
継続方法は下記のアドレスに、継続希望とメールを一通頂ければ、継続手続きと今回の特典を手に入れる事が可能です。
締め切りは明日の23:00までとなっておりますので、お急ぎ下さい。
tim_keizoku_25@yahoo.co.jp

お待ちしております。
24時間、いつでも自動返信にて即対応させて頂かせておりますので、お時間の心配なくご利用頂けます。
tim_keizoku_25@yahoo.co.jp

ほしい人はどうぞ

2004年12月22日

■ 仕事納め

ようやく一仕事終了、後は24日クリスマスイブに非常勤先の補講が一本あるだけ。一本つっても4コマまる一日だが。

クリスマスイブの補講なんて学生さん来ないんじゃないか、と心配されたりしたのだが、大丈夫、半年(一年)間の授業の中の一番肝になる部分だから、休んだらやばいよ、と脅しておいたので、8割がたは来るでしょう。不満げな学生さんには、キリスト教系じゃなく仏教系の大学を選んだのが不運だったね、と慰めておいた。というか、私が学生のころ、12月24日って平気で集中講義に出ていた記憶があるのだが。

クリスマスイブもこの歳になると腹の底からどうでもよい。唯物論者だし。

■ 積年の

なっちこと安倍なつみの現状について「アサヒ芸能」とかいう週刊誌で記事になっているらしく、それによると安倍さんがハロプロメンバーへ謝罪メールを送ったが、それが一斉送信だったので、後藤真希さんが激怒、とかそんなの。あほらしい。いまどき安倍・後藤不仲説なんてはやんねーんだよ。今の流行はなち・かお関係だな。かおりこと飯田圭織さん本人と安倍さんとの仲は、まあむにゃむにゃというところだが、かおりヲタの安倍さんへの反応の厳しさには正直たじろいだ。アンチとかそういうのではなくて、純粋にかおりヲタとしての率直な反応。例えば、かおり卒コンに間違って安倍さんが出ようものなら、またもや「いいとこ」全部持っていかれる、絶対来るな、とかそういうの。長年積もり積もったものがあるようで、これまで安倍さんもそのヲタも随分能天気に無神経に振舞ってきたんだろうな、と改めて気づかされたりした。

2004年12月21日

■ 近況

更新がしばらく止まっているが、なっちが活動自粛中で燃料もなく、こっちも年末締めの仕事でいっぱいいっぱい。24日が仕事納めになるはずで、それからは少し精神の自由を回復できるはず。

でも今は来年度の仕事で必要なJAVAに頭がいっぱい。まだよちよち歩きだが、JAVA、かなり面白くなってきた。

■ 鬼が笑う

忙しいときには不思議に余計な物欲も出てくるもので、今使っているThink Pad T40が持ち歩きには重過ぎる、ということで軽いノートPCを(金の当てもなく)物色中。今年はもう外での仕事はほとんどないので、当面は必要ないのだが、来年度からの出張にはT40はあまり持っていきたくないな、と。

重量、取り回しのよさ(筐体の小ささ)、バッテリ、機能(無線LANなど)を総合的に考えると結局パナソニックのLet's Note R3かな、と考え中。周りにユーザ多すぎ、値段高め、ものとしてのオーラに欠ける、など不満はあれど、趣味ではなく「使う」というところで突き詰めるとやはりこれしかない、という感じ。パナソニックのはPronote miniあたりのころは結構好きだったのだが、段々と尖ったところがなくなっていって、筐体も分厚くなり、ついでにキーボードの質も悪くなって、私にとっては魅力のないマシンなのだが、確かに実用性は抜群にある。無線LANが801.11aに対応しているのも気が利いている。

とはいえ、今年の予定支出額はもういっぱいいっぱいなので、来年の仕事のボリュームが確定してから、余裕がありそうだったら買う、ということになりそうだ。

フリーターって悲しいね。。。

■ FLASH

なっちこと安倍なつみ、今は事務所で社会勉強中だとか。

いまさらなんじゃ、と思いつつ、まあ、それなりに元気でいるようなのでよかった。

しかし真に「勉強」すべきなのは、あの程度の「盗作」を見過ごしたスタッフのはずなのだが、そっちもきちんとやっているんだろうな、とだけ言っておく。

2004年12月16日

■ 反戦ビラ訴訟、3被告に無罪

asahi.com:朝日新聞のニュースサイト

当たり前の判決。と言うか、逮捕した警察、起訴した検察、まさに「政治犯」を作り出そうとする策謀、許してはならない。

■ アンチと言う人種

いまさらながらだが、そしてもう半分どうでもよいのだが、「アンチ」と呼ばれる人種、その精神の病み、いたたまれない。ただしその手の「病んだ」人たちと言うのはいつもどこにでもいるものだが、2chを代表とする言説の掃き溜めがそういった心性を助長し、「名無し」を隠れ蓑にすることで、他者ではなく、己自身を偽れてしまう。もちろん「アンチ」が憎悪し、さげすんでいるのは叩いている相手ではなく、己自身なのだが、そのことの見過ごしを「名無し」として書き連ねることで行う。書き捨てられた言葉は書かれたその瞬間から書き手にとって疎遠なものになる。己の書いた文字を見ても、それが己の映し鏡であることに気づかずに済むわけだ。

別に安倍なつみ問題だけの話をしているのではない。またハロプロヲタだけの話をしているわけでもない。ただ、ハロプロというメンバーたちの帰るべき場所のそのすぐそばで、こうした破廉恥な行為が積み重ねられている、というのはやはり同じヲタとしてとても悲しむべきことだ。

■ 近況

年末。他の仕事の関係で休講にした分の補講とか、なっち問題にかまけて進まなかった仕事とか、その辺の後始末に追われる。

なっち問題ではいろいろ思うところ多く、それを一気に吐き出したら、すっきりしたと言うべきか、それ以上何かをいうことも今は思いつかない。やや呆け状態。

■ 反省

あまりうだうだ書いていると本当にただの逆恨みにしか見えないな。反省。

いやなら見なければよい、と言うのはヲタがアンチに対して言う言葉、同じ事でアンチを見たくなければ見なければよいだけのことだ。それでも視線が引き寄せられるのは、視線を向ける私が病んでいる、と言うだけのことか。

2004年12月10日

■ ブルジョワフリーター

東京より帰宅。仕事の終了時間や仕事先から東京駅までの移動時間が上手く見積もれなかったので、直接東京駅に行ったら指定席が空いているのは2時間以上後の列車と言われ、反射的に「じゃ、グリーンで」といってしまった。ちょっと前だったら、その列車を抑えて、それまでは東京見物と決めていただろうに。東京の書店をちょっと探せばもしかしたら「ALBUM」を発見できるかもしれないし(無理だろうけれど)。

気分はすっかり、財布の中身を忘れる限り、ブルジョワジー。イヤホンを持っていたので、新幹線内で流れているFMを聞く。前に飛行機乗ったときはハロプロ系の曲も流れていたが、今日の新幹線は岩崎宏美と井上陽水。そんなにブルジョワな楽曲でもない。

京都について、普通列車に乗り換える。全然ブルジョワじゃない。でもブルジョワだってこの列車に乗るしかないよな。いや、ブルジョワは京都から運転手付リムジンが来るのか。というかブルジョワはこんなところに住んでいない。納得。

■ 盗作発見

ははは。私はやりましたよ。安倍さんの「盗作」。まだ全然報道されていない「盗作」。

ハレのちアメのちぃー

スキィー

さあ、つんくよ、訴えるのだ!!!

■ 写真集と文字

盗作とされる第一作、写真集「ナッチ」を発見。買おうかとも一瞬思ったが、この写真集はあまり好きではないので。持っていないのになぜ好き嫌いが分かるのだ?「著作権・肖像権侵害だらけだぜ、インターネット」。

同じ写真集なら先日入手の「出逢い」の方が数段上。ただたしかにただただ写真が並ぶだけより、写真に加えて安倍さん自筆の「何か」があったほうが「萌える」意味はある。某ラジオパーソナリティ(?)が写真集の中に詩などが書いてあるのは「オナニーの邪魔」と言ったとか読んだが(ちなみに安倍さん擁護の文脈らしい。いい人だ)、他の写真集はともかく安倍さんの写真集はそもそもそういうノリのものじゃないし。実際安倍さんの写真は他のグッズに比べると売り上げは相対的に低いらしい。早い話「使えない」という評価が定着している。

閑話休題。写真に自筆の「何か」を添えたほうが、安倍さんの写真集においては確かに作品性は上がるのだが、しかし下手なことを書いたら盗作だ何だとなる。大切なのは文字の中身(データ)ではなくて、自筆のビジュアルなんだから文字は安全なものを用意しておけ。どうせなら、全部おしゃれにアルファベットにするとか。

Wie deutsche Ideologen melden, hat Deutschland in den letzten Jahren eine Umwalzung ohnegleichen durchgemacht.

DIE DEUTSCHE IDEOLOGIE K.Marx, F. Engels

多分、安全。いかが?

2004年12月07日

■ 「陽光」についてIV

いよいよ「陽光」を見ていくことにしよう。まずは、といいながら、手元にあるのは今はこのテキストともうひとつの「詩」だけなのだが、さしあたり序文として書かれた「マエ」なる文章を見てみよう。

人に会うのが怖かった

目を見て話す事 出来なかった

自信がなかった 光が見えてる様で

見えてなくて 不安で 仕方なくて(イツモ心でいっぱいHelpヘルプって)

でも 皆んなに 愛されたい気持ち

は沢山−いつもあった。。。。

「陽光」

もしこの調子で、この本全体の文章が書かれていたら、私は3ページで読むことをやめるだろう。いや、もしこの文章が安倍なつみが書いたものではなく、どこぞの学生なりが書いたものだとしたら、5行で読むのを止める。

私がこの本全体の、活字になっている部分はほぼ全て編集という名のゴーストが書いたと断じたのはこの理由による。安倍さんはおそらく「文章」は書けない人なのだと思う。一貫したストーリー、まとまった論理でもって物を書くことはおそらくできまい。

そこで安倍さんが選んだ言語表現手段とは「詩」である。なるほど、「詩」ならば「てにをは」すらまともに付けられなくとも、感性に言葉を当てはまるだけで何とかなる、だろうか。それが本質的に大いなる錯誤なのだ。

ありがちの、しかし私には特に実感のない例を出す。「デッサン力のないものは抽象画を描けない」。同じことだ。文章、最低限の作文、がまともに描けない人間は詩など書けないはずなのだ。

その前提を欠いて書かれた「詩」などは、単にその場その場の雰囲気だけで選ばれたありきたりの表現の、無作法な反復にしかならない。これは安倍なつみについてだけ言っているのではない。およそ10代から20代前半の書く「ポエム」なるものは大方この手合いだ。それは言葉の持つ「論理」と格闘することをただ逃げ、単に自分にとっての快不快のみで場当たり的に言葉を当てはめていき、何事かを創作した気になっているだけなのだ。

だから例えば安倍さんがおそらく自力で書いたであろう詩はこのような仕上がりになる。

こんなサミシイヒトノ

まっくろ。

あなたに想いを・・・・

あなた 思う−

幸せで

笑っててほしい。

ゆるやかな流れ

涙 流して

言葉にならない

ため息

言葉の使い方もばらばら(想い・思う)。漢字、カタカナ、ひらがなの使い分けの根拠も見えない。句読点の使い方にも一貫性がない。何より「世界」が見えてこない。書き手は誰か、「あなた」は誰か、それを読者に見せてくれるものが何もない。全く具体性を書いた世界にただ言葉だけが漂っている。

言葉にはリズムがない。途切れ途切れに言葉が並んでいるだけだ。その言葉一つ一つは何かしら抽象的かつ美しげで、要するに「ポエム」に反復されがちなもので、その選択にも、使い方にもオリジナリティがない。

このような「ポエム」の創作過程はおそらくこうだ。つらつらと既存の言葉を眺める。その中で、今の心情になんとなくはまる言葉を選び出す。後はその言葉に「合う」とそのとき思った言葉をつないでいく。

ここには表現の一切に関して「所有」という概念が浮上してこない。何よりもその前に「私」が存在しているようで、実は存在していないのだ。「私」はひとつの世界を構成する一貫した存在としての「主体」ではなく、ただただ場当たり的にその場その場に感性を生起させるだけの存在に過ぎない。そのような存在が何かを「所有」することは出来ない。

だからこの手の「ポエム」作者はおそらく原始共産制の論理の中にいるのだ。誰が作った言葉でもいい、今の私の気持ちに合うものであれば、それは私の気持ちの表現物だ。重要なのは今の私の気持ちを表現してくれそうな言葉がそこにあることであって、その出自は問われない。

だから「盗作」したとされる詩も、「盗作」という言葉の中に人がイメージする他人の物の「借り物」のような後ろめたさも、疎遠さもなかったであろう。安倍さんのそのときの文脈上の感性にぴったり嵌った、ただそれだけのことであり、後ろめたさどころか主観的には完全に「自分のもの」でしかなかったであろう。確かに盗作以外の作品と、言葉の疎遠さという点では全く同じレベルなのであって、しかも上手くすれば言葉の使い方がより巧みなのだから(その原因は考えない)、より感性にぴったり来るというのは当然のことだ。

このような詩の「創作」過程は、おそらく素人作詞家たちの間では普通になされていることだと思う。女子高校生同士が自分たちの創作ノートを見せ合う、などというのはほとんどこのレベルだろう。要するに安倍さんのやっていた「作詞」とはそのレベルから一歩も出ていないのであり、最初から「作品」などではないのだ。

安倍さんは「著作権」を勉強しなおして、反省してほしい、とファンが訴える。もちろん正しい。しかしそれだけでは彼女は創作上の「禁止」事項を事後的に知っただけだ。それを今まで知らなかったことはもちろん恥じ入るべきだが、しかしそれとてもその反省は外在的なものにとどまる。もしファンとして安倍さんの今後の成長につながる反省を求めるのであれば、それではたりない。問われるべきは彼女の創作に向かう精神そのものなのである。

■ 「陽光」についてV

どうも批評となると我を忘れて、ヲタにはありえないことを書いた気がする。

いや、言いたかったのは、中途半端な反省は無意味だということであって、最初から進む方向が違っていたのではないか、ということだ。そして安倍さんには別に進む道がある。前にも書いたとおり、この「陽光」はすばらしい作品である。そしてその要件としてまともな「詩」など最初から要らなかった。直筆の適当な「何か」、例えば落書きのようなもので十分だった。それであの作品は十分輝くことが出来た。安倍さんには存在するだけで作られる世界があるのであって、言葉を繰って新たな世界を構築する必要などそもそもなかった。

そうであればこそ、コンサートのMCが「ぐだぐだ」「かみかみ」でも、むしろそれをこそヲタは応援し、また満足してきたのだし、今度の件が発覚した後も多くのヲタが失望するどころかより熱心に応援しようとしているのだ。

■ 終わりに

私は下の文章を、なっちこと安倍なつみを変わらず応援し続けている愛すべきヲタたちに向けて書いたのではない。かれらは私の目指すべきものであって、何かものを述べる対象ではない。またなっちこと安倍なつみにむけて書いたものでもない。もちろん「アンチ」どもに向けて書いたものでもない。

今回の一件を最初に聞いたときに私の中にあった否定的な思い、それをきちんと意識化し、文章に残した。つまりこの文はそのときの私に向けて書いたものである。

これで今回の一件についての私の総括は終わった。後は、既に先に進んでいるヲタたちに追いつき、マターリ前向きになっち復活のときを待つべさ!

■ 久々の書籍購入

昨日大阪で買ってきた本。

中澤裕子エッセイ『ずっと後ろから見てきた』

中澤裕子エッセイ『ずっと後ろから見てきた』

帝国的ナショナリズム―日本とアメリカの変容

帝国的ナショナリズム―日本とアメリカの変容

前者は昨日言及した通り。後者は未読。

■ 見過ごしのミステリー

この件で初めて「陽光」を読み、まずはヲタとして、忸怩たる想いにとらわれた。今まで安倍なつみの言語表現に興味を持ってこなかった。「陽光」も手に取ることさえしなかった。それが悔やまれてならない。ヲタとしてなぜもっと早くにこの本を手に取らなかったのか。

小室哲哉さん作詞のBody Feels Exit の盗用部分は、元曲が有名であるだけに、見れば気づきそうなものだ。なぜこれまでの読者たちの多くは気づかず、あるいは事務所・本人に何の警告も発さなかったのか。なぜこのような最悪の形で広まる前に、誰か何かをしてやれなかったのか。

そこに気づいていれば、安倍さんの言葉の使い方全体に対する危うさにも気づこう。私が見ていれば、もっと早い段階で、もっといい形で指摘しえたのではなかったか。そのような傲慢な妄想でもって私は悔恨する。

おいおい、頼りにならんぜ、安倍ヲタ。この件で胸を痛める安倍ヲタの多くが、しかしこの点に言及していないのが不思議だ。いや、責めているのではない。ただ不思議でならない。

■ 批評へ

今日から東京出張。たぶん更新が鈍る。出張先に「陽光」を持っていきたくない。本が傷むから。

私はデータとしてではなく、「物」としてこの本を気に入ったので、「物」として大切に扱うつもり。

これからここでやろうとしていることは、安倍なつみクリティーク(批評・批判)に他ならない。大方の「無責任」な「盗作」問題への言及に対してのデモンストレーションとしての意味合いが強い。前にも書いたとおり、盗作問題とは本質的に文学批評に属する問題であり、そこに踏み込まずにやいのやいの言っているのは喫茶店の噂話レベルに過ぎない。そんなものを延々と「文字」で言い続けている輩の「程度」を疑う。

ネットで話題に出、それをマスコミが引き写し、それをネット素人「批評家」どもが反復する。そんな議論の深化も何もない言説の垂れ流しにはもううんざりだ。

■ 小括

私は下記の文を、安倍なつみさんに突きつける心持で書いたわけでは全くない。ただ「盗作」という言葉の中にある邪気、そのようなものが安倍なつみの心の中に芽生えた瞬間はおそらくなかったであろうことを、従ってこのぐらいはいいだろうというような「その瞬間」を追求することはおそらく内在的な批評という面から言えば、的外れであろうということを言いたいだけだ。

私が思う安倍なつみの(積極的な)過ちは次の二点である。

  1. 言葉で何かを創作するそのときの構え
  2. 上記構えで生産されてしまった「作品」を公にしたこと

この2点の過ちの、いわば必然的な帰結として、「盗作」という対外的な「罪」を犯してしまったのだ。

繰り返しになるが、しかし、この主張を安倍さんに突きつけようとは思わない。むしろ逆に、良心的なヲタたちが「これを機会にしっかり反省して、一回り大きくなって」云々という主張を「やめておけ」といいたいぐらいだ。

今は周りの人たち、とりわけメンバーたちには理不尽なまでに「いい子、いい子」してあげてほしい。手術は体力の回復を待って行う。傷が癒えずして反省は出来ない。

2004年12月06日

■ 中休み2

一応事実関係については蒸し返すつもりはないのだが、また未入手の作品については特に論評は控えるけど、例えばラジオで発表したという最新の「トマト」まで盗作というのは言いすぎだと思う。「トマトはトマト」自体はありがちなレトリックだし、もちろん安倍さんが参考にしたのは間違いないが、それぐらいよくあることだ。肝心の詩の味わいは全く別物。詩中での「トマト」の位置づけが全く違う。盗作問題は、結局のところ、「批評」に属する。両詩の本質的な違いが分からない人間は詩を論じる資格がない。要するに「盗作」問題を論じる資格がない。だまっとれ。

もちろん例えば「陽光」の詩はそれ自体は完全にchibiさんの詩の盗作。それは確か。だから安倍さんが盗作をしていない、という気はない。

別にいまさらそんなところでかばう気もないが、また2chの馬鹿どもをまともに相手にする気もないが、マスコミは論じるのならもっと丁寧に問題を切り分けてくれ。

■ バカ・・・

自分でもたまにインターネットを見るんですけど、やっぱり「卒業反対」とか「何でハローで卒業なんだ」とか、いろんな意見がありました。

そういうリアルな反応っていうのも知りたかったから。

そんなもの、ネットなんかで知ろうとしなくても・・・・。

このページを安倍さんが読む確率は0だと思うけれど、まかり間違っても読まないように。。。ここに書いているのは安倍さんに直接向けた類のメッセージではないので。

■ 中休み

大阪に仕事に行ったついでに「ALBUM」を探してみたが全くなかった。「ALBUM」自体発売されてそれなりに日がたっているから単に品切れかも知れず、あるいは撤去されてしまったのかもしれない。

仕方ないので、なんとなく手ぶらで帰るのも何だしと、中澤裕子さんの「ずっと後ろから見てきた」を購入。ざっくり読む。「なっち」への記述がわりと少ない。それはさておき。

文章部分の文体は「陽光」とほとんど同じ。このあたりは「ゴースト」というのか、編集というのか、プロのライターが、己を出さずに書いた典型的な文章。どちらも普通に読めて、内容はモーヲタとしてはそれなりに関心が持てて、取り立てて感動などはない。

ただ全体としての作品の出来の差には、やはり「他面ヲタ」が安倍なつみをやっかむのも無理はない、と感じざるを得ないものを感じる。裏書に連なる名前の人数が違う。本の体裁が違う。中澤さんのがありきたりの「タレント本」だとしたら、安倍さんのは「作品」になっている。もちろんその「作品性」をもたらしているもののひとつとして、問題の詩も含めた安倍さん手書きの詩が挙げられる。それも含めて、写真やら、紙の色まで素材の一つ一つが平凡で退屈な文章を飾っている。

安倍なつみが帰ってきても、この作品が本来の輝きを放つことはもう二度とない、そのことを一層惜しむ。

■ 「陽光」についてIII

この問題を論じるには二つのレベルがあって、それを混同してはならない。

ひとつは、仮想的な裁判を想定した場合。もうひとつは表現者としての安倍なつみを批評する場合。この二つはきちんと分けて考える必要がある。

例えば「陽光」について、これは「安倍さん一人の責任とはいえないよなあ」というのは前者のレベルのはなしである。これはこれで重要で、その部分では私はほぼ全面的に安倍さんに同情する。それは多分安倍ヲタとしてではない。むしろ安倍ヲタであればこそ、後者のレベルで考えねばならないのであって、単に完全な傍観者としてみた場合、要するに表現者としての安倍なつみに何の関心も期待も持たない場合、私は前者のレベルだけで事態を総括するだろう。

実際、私は安倍ヲタといいながら、この件が起こるまである次元で、表現者安倍なつみにはほとんど敬意を表してこなかった。「陽光」をいまさらながら買いに走った、というのは買い忘れていたとかそういうことではない。この手の、言語の使い手としての安倍なつみには、正直何の関心もなかったのだ。安倍なつみが詩を書く、それが趣味というのにも、私は「冷笑」的でさえあった。私は、某ファンサイトに安倍なつみが書き込んだ文章を見ている。また、まさに著作権侵害の結果として、安倍なつみが書いたという本の文章も見ている。そこからして、「なっちが詩?そらあかんわ」、としか思っていなかった。

そうした視点から見たとき、今度の一件は出版社サイドの手落ちしか感じない。はっきり言って無能すぎる。

盗作に気づかなかった。それを、おそらくまともに仕事をしたこともないだろうネットヒッキーどもは当然だとのたまう。何千何万とある詩一つ一つを読めるわけがないから、盗作に気づかないのは当たり前だ。

気づきますよ。「プロ」ならね。オリジナルの詩を知らなくても分かる。全く氏素性知らない人間が持ってきた原稿なら、それは分からないかもしれない。しかし自分がある程度知っている、情報を持っている相手が持ってきた原稿なら、その人物の能力の限界ぐらい見積もりがつく。それから外れる語彙、表現があれば、「おや?」とは思う。そう思えば後はネットででも検索掛け捲れば小一時間もあれば大概は「割れる」。

後できちんと書くが、「マエ」(前書き)の安倍さん自筆の文章を読めば、安倍さんの文章力なんぞ簡単に見積もれる。それが上限どのぐらいの詩がかけるか、それぐらいの「鼻」も聞かない人間がこの本の編集をしていたのかと思うとその無能振りには正直呆れる。というか、その関係者、今頃恥ずかしくて仕方がないだろう。

実際、安倍さんの主観の世界においても、実際の作業の仕方においても、安倍さんは本の内容に関する責任を負う気もなければ、負う立場でもなかっただろう。「まあ、気楽にのびのび普段の安倍を出せばいいから」とか何とかいわれて、プライベート写真やら、詩の真似事やらを書いたノートやらをぶちまけたら、後はうまくやってくれる、安倍さんはそうとしか思っていなかったのではないか。そしてたぶん大方のタレント本なんてそういうものなのだ。惜しむらくは編集責任者に無能者が混じっていたことだが、そんなものの責任を「私」が負わされることはないだろう。

しかしそれは考えが甘かったのですよ、安倍さん。周りがどういったかは分からないけれど、「著者」として名前が載るということは写真集の被写体とか、音楽CDの歌い手とは全く意味が違っているのですよ。それが「言葉」でものを表現する怖さというものだ。その怖さを分かっていないのはもちろん安倍さんだけでなく、例えばネットで、知り合いだけに知らせているパスワード規制もかけずに適当なことを書きなぐっている「ネット言説生産者」ども(私を含む)もそうだ。ただ安倍さんがそういった有象無象のものたちよりちょっとだけ注目度が高かったというだけのことだ。しかしそれはそれ、結果的にであれ、あなたはとても厄介な書類にわけもわからず署名捺印をしてしまったのと同じ責任を負うことになる。それを「部外者」としての私は冷笑半ばで同情する。

事務所は二度と「創作的な活動」をさせない、といったが、その創作的な活動とやらが言葉をものす活動という意味なら、禁止されなくても安倍さんがまじめに考えれば、当分怖くて出来るはずもないのだ。

2004年12月05日

■ 「陽光」についてI

何事かを批評せんとするもの、最低限その素材の現物を見てものを言え。

それは批評というものの最低限の約束事のはずだが、公共の電波を使っているテレビすらそのルールを守らない。確かに安倍なつみは創作上のルール違反を犯したが、テレビなどでの無責任批評どももその意味では同罪だ。

などと言いながら、実は私もその「もの」を持っていませんでした。というわけで、遅ればせながら問題となった作品のひとつ「陽光」を入手。

現物を見て改めて確認したこと。

  • 盗作したとされる詩は本質的に一個の作品としての体裁をなしていない。
  • 安倍なつみはそもそもこの本一冊の著作者としての資格に欠く。

だからといって、安倍なつみが「無罪」だといいたいわけではない。安倍さんは当然結果責任は負わねばならないし、またそれにいたる過程でも責任を負うべき点が明確にある。ただマスコミが無責任に垂れ流した「盗作」というイメージとはかなり意味合いが違うことも確かだ。さりとてゴーストライター責任論も全く見当はずれ。事実関係自体は事務所が報告したものと大きな違いはないものと思われる。

この本を直接手にとって、今度の一件を論じてみれば、問題の詩の作者が安倍なつみ本人であることが明らかである一方で、にもかかわらずその責任論はかなり議論に値するものであることが分かるだろう。それはこの本が、普通に安倍なつみが書いた文章によって成り立っているのではなく、数多くのデザイナー、写真家、プロデューサーが総合的に作り上げた作品に他ならないからだ。詩は安倍の提供したプライベート写真と同様、この作品の素材として彩られているものである。要するに安倍はこの作品に、無秩序な様々な素材をばら撒く役割を果たしたのであり、それを作品に仕立てたのはこの本の最後に上げられている20数名のスタッフに他ならない。その中でも特にこの作品には8名もの「プロデューサー」が名を連ねているのだ。

別に責任の押し付け合いをしたいわけではない。ただ安倍なつみは素材の提供者という程度の位置づけとして、その程度の覚悟でこの作品に関わっていたであろう、それが著者として名義人になっていたことに思いのズレがあった。

というわけで安倍なつみの責任、あるいは反省すべきことについて話を進めていくのだが、その前にこの作品自体の印象について簡単に述べておく。

一言で言ってとてもきれいな作品。この本が今後「盗作」ものというレッテルを貼られて消えていくのはとてももったいないと思う。多分安倍もこの作品の仕上がりにはとても満足したであろう。それがもはや彼女にとってトラウマの種にしかならないことを不憫に思う。

ただしこの作品をそのような良きものにしたのは、安倍の言葉ではない。安倍のタレントとしての存在と、そして先に上げた数多くのスタッフの力だ。だから、逆にこの作品の一部の安倍の言葉の中に「盗作」という傷が含まれていたとしても、この作品の価値にはほとんど影響しないように私には思われた。この作品は「読む」ためのものではなくて、「見る」ためのものなのだ。

くどいが、つくづくもったいない。本当にきれいな作品。

安倍なつみフォト&エッセイ 陽光(ひかり)

安倍なつみフォト&エッセイ 陽光(ひかり)

■ 便所の落書き

明日の授業準備が出来ていない。今日一日「陽光」の入手を含め、ほぼ安倍なつみ問題に費やした。我ながら馬鹿じゃないかと思う。下記の続きはまた後日ということにしないとさすがに社会生活に堪える。

大体2chあいてに剥きになってどうする、と他サイトさんからはやんわりと釘を刺されているのだが、はたして2chごとき、というのが正しいものか、それとも無視できない害毒言説の集積であるのか、それはこの問題以前から図りかねているのだ。

さしあたり2chには日本社会のある種の病みが表出される場である、そしてその病みこそが社会学が対象にすべき社会的事実である、との立場から、どうにも黙殺するのが正しいようには思えないのだ。

もちろんだからといって2chと直接関わるつもりはなくて、あくまで観察素材として扱うというスタンスは崩さないようにはしているつもりだが、微妙にそこから逸脱している気がしなくもない。

■ 毒

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こんな断り書きを書いている奴が安倍なつみの著作権侵害について云々するとは、天に唾をする行為だとどうして分からないのだろう。ネット言説の、この手の無責任さにはもう呆れてものも言えない。憂さ晴らしにしか読めないだろうが、しかし、あまりに破廉恥、こんな奴らと同じ空気を吸っているかと思うと反吐が出る。

■ 「陽光」についてII

またわざわざなぜこんなことを書き始めたのか。それは多くのファンサイトなどでも言われている、「十分に反省して帰ってきてほしい」という主張が、それ自体もっともなものでありながら、現状安倍なつみに求めることが無理ではないかとの思いが強まったからだ。もちろん彼女は反省しようとしているだろう。でも結局のところその反省は上滑りのものにしかならないのではないか。胃の腑に落ちたものには今のままではならないだろう。

どういうことか。いささかよろしくない例を出す。シンナー中毒者が人を刺した。シンナー中毒から立ち直ったその人に人を刺したことへの反省を直ちに求めて意味があるか、ということだ。結果責任はもちろん問える。しかし内在的な反省は、まずはシンナー中毒に陥るところからしかなしえないだろう。

不謹慎な例であったと思う。ただ言いたいのは、結果責任がいかに重大であっても、真の反省はその人物のたどってきた論理を手繰るところからしかなしえない、ということだ。

例えば安倍なつみに「我はいかにして盗作者になりしか」なる文章を書かせたとしても、現状書くことは出来るまい。なぜなら彼女は「悪いこと」へ踏み出す瞬間を体験していないからだ。「このぐらいならいいだろう」という出来心のような瞬間さえ彼女には訪れなかったものと思う。

くどいが、だから彼女は悪くない、ということが言いたいのではない。彼女が反省に踏み出すにはもう一ステップ必要だし、現状そのステップに彼女が気づくことは難しい、ということが言いたいのだ。

その必要なステップとは何か。それを得る手がかりは「陽光」の中にある。「陽光」全体の作り、そしてその中の安倍の言葉から私の思う出発点を炙り出そう。

2004年12月04日

■ 逆さなっち史 no.1

結局一番最近に見たのはうたばんのハロプロオールスターズでの出演か。メロン記念日の大谷雅恵さん、後藤真希さん、安倍なつみさんという私にとってかなりいい並びだったな。といってもこの三人の絡みはなかったけれど。というか、大谷さんが全然しゃべる機会なし。女ヒッキーではあの場で何かやるのは無理か。メロンでは全部斉藤さんに持っていかれたし。

あの時は中澤さんも加護さんもいなかった。不完全燃焼だ。

■ 言説の暴力性

体調がよくない。なっち問題に心を痛めて、ではない(はず)。ただこれに関連する記事をネットで読むためにやや夜更かし気味なのが問題か。

どうせいいこと書いていないのだから読まなければいい、のだが、一応ネット言説を観察対象にしている関係から、まさに主観的には当事者たるこの問題の言説の流れを見極めることを放棄できない。それこそ安倍ヲタと言説観察者と双方としての意地だ。

人のうわさも何とやら、一時に比較すればやや沈静化しつつある。それにしてもネット言説とは何なのだろう、と改めていまさらながらに思う。その問題に対して、特別な思いも持たず、最低限の状況確認もせず、己の言葉の持つ効果についての配慮もなく、ただただ思いつきだけで投げ出される言葉の連なり。ある意味まさに「言説」のお手本だということにはだいぶ前から気づいていた。しかしそれを改めて(主観的には)当事者として読んでみて、その暴力性にいまさらながら愕然とする。少なくとも私は配慮してきたつもりだ。本当か?お前の吐き捨てている言葉だって、今お前が愕然としている言葉の一つなのだぞ。

誰もが己の思いを簡単に言葉で世界に向けて発信できる。その気安さが二重に安倍なつみを苦しめる。自分自身、発信してはならない「作品」を発信したこと、そして問題にあまりにも安易に投げかけられる「第三者」からの言葉の無作法さ。

「ペンの暴力」とはマスコミへの警鐘としての言葉だったはずだが、「キーボードの暴力」はネット言説への警鐘として、多少なりとも考える時期に来ているように感じる。

■ 「一人でお弁当を食べている安倍さんを見て、あ〜と思いました」(by田中)

明日のハロモニにも安倍なつみは出ない。先週のハロモニを録画し損ねたことをいまさらながらに悔いる。活動休止前の最後の晴れ姿はいつだったのか。大阪での最終コンサートになるのだろうか。行けばよかった。

コンサートの時には既にある程度の状況は分かっていたはずだ。ヲタたちの多くは知っていたのだから。それでも気丈にコンサートをこなしたと聞いている。なのになぜFNS歌謡祭に出演するつもりで会場入りして、その後の事務所の話し合いの後で会場を後にした時点で、報道されるような精神的な深手を負ってしまったのか。私が事務所に対してどうしても不信を持つのはその一点に尽きる。まな板の鯉の心境で、それなりに腹もくくってきたであろう安倍なつみがなぜあの時点で崩れなければならなかったのか。

普段はふわふわ、「きゃるきゃる」しているが、ここ一番の時には凛として振舞う安倍なつみ。「すぐに挫ける」などと言いながら、いざというときには毅然とする安倍なつみ。辻・加護と同レベルではしゃぎながら、時に他を寄せ付けぬ孤高さを見せる安倍なつみ。それなのになぜこの肝心なときに毅然と振舞えないのか。それが無念でならない。

2004年12月03日

■ いとしのシンクパッド

IBMがパソコン事業を中国の会社に売却か、というニュース。

勘弁してください。ThinkPadはどうなる?DECが消えて、それでもまだコンパック→HPだからまだしもだけど、IBMの売り先が本当にどこの馬の骨、じゃあ、私が愛するThinkPadは完全に終わってしまうんじゃないか。

Dellなんか買うぐらいだったら、PC使うの止める、は言いすぎだけれど、世の中、詰まんなくなるな。

■ 例えばこんな御伽噺

あれやこれやと書いてきたけれど、結局言いたいことはただひとつ、「だって、可哀想じゃないか」。それだけ。

たとえ話をひとつ。それは私の中の心象風景だから、細かくそれとこの件とはここが違う、とかそういう突っ込み無用。

無邪気で、ちょっとお馬鹿な高校生の女の子がいました。その子は花が大好きでした。彼女の登下校道にきれいな花がたくさん咲いている原っぱがありました。彼女はいつもその花を見てはうきうきしていました。とてもきれいな花、とても可愛い花が咲いているのを見かけると、彼女は時々そっと一厘摘み取って、自分の部屋に飾っていました。

でもその原っぱは実はきちんと売りに出すために近所の農家の人が大切に守ってきたお花畑だったのです。その花を摘み取っていたことが分かって、学校中が大騒ぎになりました。誰かが彼女の通う学校にそのことを告げ、学校中に彼女のことを泥棒呼ばわりするビラがまかれたのです。

クラス中が彼女をなじりました。トイレには彼女の悪口を書いた落書きでいっぱいになりました。教室の黒板にも悪口。担任の先生はあわてて先方に謝罪に走り、彼女に自宅謹慎を言い渡しました。それでも彼女への非難はやみません。彼女がいつ復学できるか、分かりません。今は彼女の親しい友人たちが方々に謝罪に回っています。

担任の先生が、なんか頼んないんだよ。あるいは顔が見えない。仕事はしているみたいだけど、どっちを向いて仕事をしているのかが見えない。

彼女がしたことは、こんな公開集団いじめ(本当は別な言葉を思いついたが、それは却って傷深くする言葉だから変えた)に合わなければならないことなのだろうか。そして彼女の近しい人が彼女を守ろうとすることさえ躊躇し、あるいは非難されなければならないことなんだろうか。

私は、曲がりなりにも「盗用」とか「剽窃」とかに、一般以上にうるさいアカデミズムの世界に片足を突っ込んできた。それでも私はいまは目がにごっているのだろう。しかしそれに付けても世間の人々がこれほどまでに著作権とやらに敬意を表しているとは知らなかった、そんな皮肉のひとつも言いたくなる。

でもそんなことはどうでもいい。ただただ可哀想じゃないか。

■ 戯言

とにもかくにも復帰をまとう。応援メールを、ファンレターを出そう。そういう動きがある。ヲタとしてとても真っ当。前向きに、ポジティブに。

でもそれとはちょっと違った思いが頭をよぎる。FNS歌謡祭の目撃談を読み、あるいはニュースサイトの記事を読み、安倍さんの精神状況を想像するにつけ、「頑張って」という言葉を失う。もしかすると近しい人ほどそう思うのではないか、という気がする。昨日の中澤さんの様子を見て、そう感じたりする。

「もうしんどかったら辞めてもいいよ」

大丈夫。惨めに逃げたことになんかならない。たとえ映像や音声がなくなっても、「安倍なつみ」の名は歴史の記憶の中できっと語り継ぐから。それだけものをこれまで築いてきたんだから、もういやになったら、これ以上頑張らなくてもいいよ。

2004年12月02日

■ 蒸し返す

なんというか寝られないわけで、正直今日の仕事は辛かった。思考が常にあさっての方向に行く。常に何かを考えている状態。何かとてつもなく理不尽なものを抱えている気分。

「おしまい」といいながら、続ける。そんなに一貫した精神状態でもないし。

もうなるべく「アンチ」サイトは見ないようにして、少しでも好意的なことが書いてあるサイトだけを見るようにする。

で、その中で見かける主張で、私の考えとは違うなと思った点を書いておく。別に論争したいとかそういうんじゃなくて、ただ私の考えを整理しておきたいだけだ。

「安倍なつみさんにはサイトなどの厳しい意見も受け止めて糧としてほしい」

そんなこと私は1mmも思いません。ほとんどのサイトの糞言語など見るに値しません。糧ならYUKIさんとかaikoさんとか、あるいはさんまさんとか、機会があれば誰かが何かを言ってくれると信じています。それで十分です。

「今度の件は自分にとってもマイナスだけど、今までのプラスがあるから応援する」

そういう考えも理解できるけど、私はそうではない。私はプラスとマイナスを相殺は普段からしないので。プラスはプラス。何があっても1mmも減らない。マイナスはマイナス。その人のひとつの特性としては記録しておく。今回の一件でのマイナスは、行動の評価としては大マイナス。でも人間としての好き嫌いという点では何の影響もなし。別に安倍さんだから、ではなく、多分誰に対してもそうだと思います。だから「今回の一件があっても応援します」、ではなく、何の躊躇も断り書きもなく、ただ単に「これまでもこれからも応援します」。

精神状態が随分ナイーブになっていると自分でも感じる。昨日は「一番大切な人は誰ですか」今日は「ホットマン」でほろりと来た。前者はともかく後者は普段は全然そんなに評価していないのに。なんか嘘でも「人の温かさ」みたいな物語を欲している。

■ なっち問題

なんと言うか、納得が出来ないわけですよ。

何にか?その正体も判然としない。ただ、何か納得が出来ない。

多分、言説に、だと思う。ネットで満ち溢れている言説に。

イラクの3人の人質のときには政治的な煽動を読み、抵抗せねばならぬと誓った。最近の香田さんの時にはただただ怒りに吐き気をもよおした。

今は、怒りとかそういうのではなく、ただただ馬鹿馬鹿しく、悲しく、アホらしく、ウザい。

イラク問題から連なる一連の言説、これをひとまとめにしてネット「いじめ」言説と呼ぼう。ひとつ、言説分析の素材として、島田紳助さん関連の事例を簡単に取り上げよう。この事例においてもこの言説は這いよってきた。獲物を求めて這いよってきた。告発者であるマネージャがその餌食になるかに見えた瞬間があった。実際、それだけの動きはあった。それに対しては抵抗しようと思い、あの一文を書いた。書いたこと自体も、内容も妥当であったと今でも思っているし、なんら訂正、補筆の必要は感じない。しかしひとつ読み違えた点があった。島田紳助さんの記者会見自体を私は見てはおらず、その影響を計り間違えた。あの記者会見で言説の餌食は島田紳助さんに選ばれた。何故か。彼が不当ないい繕いをしたから?違う。彼が、激情のあまり泣いたからだ。「男」らしくなかったからだ。彼は弱みを見せた。だから餌食となった。あわてて補足するが、マネージャも餌食となり続けたのだから、マネージャ擁護自体になんら否定すべきものは無い。ただ島田紳助さんまでもが言説の餌食となった。

一連の言説を「いじめ」言説と呼ぶのは、獲物を常に求め、その餌食には誰が選ばれるかは全く偶発的な、ちょっとした言いがかり、ちょっとしたきっかけで決定される、という点だ。獲物に獲物としての属性があったのではない、獲物が必要だったから、獲物が用意されるのだ。自身が獲物になること、あるいは己が大切だと思う人が獲物になることを避けるためには別の獲物を用意するのが近道だ。そうしてこのいじめ言説の連鎖は途切れることなく続く。

文体を変える。

ぶっちゃけ、彼女の罪なんてどうでもいいわけよ。単に何かを叩きたいだけなんでしょ。むしゃくしゃした、相手は誰でもよかった、ってやつ?そういう人間の一番卑しい心性が言説として結実している。それだけのことだよ。

被害者の権利?事務所が走り回っているよ。その点で事務所批判をするつもりはない(微妙に言いたいことはあるが、今は言わない)。ちゃんと話し合いの機会を持てていると思える。実際、被害者として名前の挙がっているジュディマリのYUKIさんが「いいとも」に出ていて、安倍なつみさんから花束が届いていた。「被害者」なら断れる。大人気ないとかそんなんじゃなく、普通に断れる。というか、普通、ちょっとでも問題があればそんなの贈らない。なっち本人はその辺無神経なところがあるかもしれない、とか言えばそうもいえなくも無いけど、こんな時に事務所が管理しないわけもなく、要するに話がついていたってこと。まだ全員と決着がついた、なんて思わない。でもそもそもそんなこじれる話でもない。

もう「被害者」の話はやめる。さる「応援」サイトの掲示板で、「なっち頑張れ」という書き込みに必ず「被害者への気遣いも」なんて書く馬鹿がいるが、ほんと馬鹿じゃないのか、と思う。言説のバランスとはトータルでなされればよいのであって、今のこの状況、「被害者」が己の被害を訴えることを邪魔するものが何も無く、逆に安倍さんが何も弁解する余地を持たないこの状況で、何で安倍ヲタ一人一人の書き込みにバランスが必要なのか。それを言うなら、安倍さんをバッシングしている一つ一つの書き込みに、バランスの一欠片でもあるのか。どんな書き込みが満ちているか、書こうかと思ったが、さすがにそれこそアホらしいのでやめる。

ちょっとでも悪しきことをすれば、それに関しては弁解の余地が無ければ、絶対悪にされてしまう。「悪いことは悪い」でバッシングを行う己を正義の味方に仕立てる。そういうのをさもしいというのだ。

だからもうね、ここの中でバランスをとるの、止めた。もともとここは安倍キモヲタサイトだから、「なっち全然悪くない」つっても全然かまわないわけよ。もっとも別に「いい悪い」の話をしたいわけじゃないから、そんなことは言わないけれど。

というわけで、今後は安倍さんのことだけを書きます。この問題で社会正義なんて糞くらえです。この問題で語られまくっている言説総体が糞なんだから、正義なんてものは最初から生起しようが無い。

最後にひとつだけ、アンチとか、バッシングネタ探して安倍なつみのキーワードでこのサイトに着ちゃった人に。そんな人向けにこんな素敵なサイトのリンクをはってよいのか、と思うけど、リンクフリーということなんでお言葉に甘えて張らせていただく。

MMGP

ここの12月1日の日記を最後まで読んでください。これで満足ですか。あなたは、あなたが何故か叩きたくて仕方の無い23歳の女性を見事に叩きました。おめでとうございます。あなたの勝ちです。あなたは「勝つ」ことがとても重要な価値らしいので、とにもかくにも大勝利、おめでとうございます。

■ 新曲

気分の悪い話は下でおしまい。

もうね、このサイトは完全に安倍キモヲタサイトで突っ切ります。もとからそうだった気もするけど。

というわけで新曲「鳴り止まない タンバリン」。なんか楽曲提供がつんくさんじゃなくなるらしく、ちょっと心配かつ楽しみだったりするわけです。楽曲提供者のTAKUIという人、結構ロックな人らしい、と言ううわさも聞くので、微妙に期待。

2004年12月01日

■ 終わらない

良識のある人はこの記事は読まないでください。

安倍なつみ、来年1月末まで活動自粛。

紅白辞退が妥当というだけでもヲタとしては厳しいことを言ったつもりだったが、それではすまなかったようで。年末まで活動自粛、年明けてシングル発売、飯田さん卒業コンで復帰、甘かった。あるいは盗作詩を披露したラジオ番組ヤンタンで、謝罪、さんまさんに叱りをこめたフォローをもらうとか。いろいろヲタ的によさげな妄想をしていただけに、想像以上の厳しい結果。FNS歌謡祭で中澤裕子さんが代わりに謝罪、というのもどうにも辛い。デビュー当時から散々世話をかけて、「あの子は手がかかった」と言わしめて、今になって最大の迷惑かよ。中澤さんに、ヲタとして、申し訳ないやら情けないやら。

ただ、正直この件が表に出る前は、やや惰性状態で、もう突然結婚、引退、でもそれはそれで祝福できるな、とか思っていたが、ここまで逆境になると、再度の復活までは見限れん、と意地にもなる。7年前から見てきた物語がこんな終わりでは納得できない。

■ 盗作云々

大々的にマスコミにも出たということで、これで隠蔽とかはないわけで、安倍なつみ本人も謝罪しているわけで、後は当事者間できちんと話し合うというだけのことで、盗られた側が、改めて納得できない、とかそういう話になればまた話は別だが、そうでない限りそれ以上何かをことさらに付け加えることもないだろう。

部外者が詳細を知ることもないだろうが、出来れば盗られた側の人たちに直接会って、謝って、うまく行けば了解とさらにうまく行けばちょっとしたアドバイスなんかもらえれば、それで随分よい方向に話が流れると思う。盗用した相手がaikoさんとか小室哲也さんとかYUKIさんとかなんだから、なんとなくたいして怒ってなくて、逆に励ましてくれそう、とか甘いかね?

例によって2chあたりでは正義面のものどもが馬鹿騒ぎ、確かに弁護のしようも無いが、いったい奴らはそれで何をしたいのかね。ことさらに騒ぐことでしか守られない正義がこの問題のどこにあるのか。事務所なりが隠蔽しようとしたのなら、騒ぐ価値は認めるけれど、全面謝罪で当事者間の話し合いに話が進んでいる今の状況で、何を正義面して騒ぐことがあるのか。

盗作といえば、社会学方面でもあったらしく、社会学の学術誌「ソシオロジ」からお知らせが来た。日本女子大学紀要掲載論文に「ソシオロジ」からの盗用があったとのこと。残念ながらといおうか、アカデミズムは芸能界よりこの点については厳格、盗用をした人はこの世界での将来は無い。