重層的非決定?

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2005年06月07日

■ リハビリ中

とりあえずリハビリ代わりにということで購入した「哂う日本の『ナショナリズム』」。

予想外に面白かった。基本的に私は「今」の状況を説明するのに歴史をさかのぼる、という手法は評価しないのだが、この本に関しては最初の連合赤軍をテーマにした部分が圧倒的に面白かった。私は世代的にも連合赤軍事件は記憶の外であるし、これまでも特にコミットしたこともなかったのだが、あらためてその話題に触れて、とても興味を引かれた。

北田が取り出してくる事例自体は、私にとって、それほど驚かされるものはない。むしろ逆に、「さもありなん」、ある意味とてもリアルに感じられた。

私は北田と同年代なのだが、しかし「左翼運動」にかかわる時代感覚にはずれがあるようで、それが逆に興味深かった。北田は、淡々と記述はしているのだが、連合赤軍内部で起こった「総括」を、感性的にはありえないこととして捉えているように感じられた。そのような「ありえない」ことが起こった構造を北田は取り出そうとする。

私は逆に、そこで起こった事態には明確に「既視感」を覚える。「総括」を要求する指導者の論理が、「構造」以前に、私にはベタに了解できてしまうのだ。

もちろん「分析」とはそうしたベタな次元から離れて、構造を取り出すべきものであり、その意味で正しいのは北田の態度のほうだ。しかし、それにもかかわらず、そうして取り出された構造の残余、ベタな感性への共感、の欠落が、私にはどうにも気になってしまう。それをいささか批判的な言葉で言ってしまえば、北田の分析は、構造ありき、さらには結論ありき、の議論にも思えてしまうということだ。

北田の論点は「準拠枠組みなき」「形式主義」という言葉に尽きる。そのタームで北田は連合赤軍事件から2ch現象までを捉えていくのだが、私の関心はむしろその裏、「にもかかわらず」その場で必然的な意味を持ったものは何か、なぜそれが選ばれたのか、という論点である。

例えば連合赤軍事件における「総括」のきっかけを北田は「偶然的」と評するのだが、本当に偶然的であったのだろうか、というのが疑問なのである。むしろそれは必然であったのではないか、そしてその必然性は、その閉ざされた集団固有のものですらなく、社会一般にある種の形で反復される類のものではなかったのか、という疑問である。

ひとつ例を出そう。「総括」を強要され、リンチ殺人されていったある女性「兵士」が問題とされたのは「他人の発言中に髪をとかした」、というものであったとされる。それを北田は「偶発的」と評するのだが、果たしてそうか?この「原因」には既視感がある。それからほぼ10年後に起こった教師による生徒リンチ殺害事件である。そのとき生徒が「指導」された原因がヘアドライヤーを持っていたことであった。この10年という年月を経て反復される髪のおしゃれと死との連続性に私は拘る。

「髪の毛」という身体は集団における秩序に対する霍乱要因として明確に存在し続けているのであって、それが引き起こす「乱れ」が組織全体を瓦解させるのではないかという「恐れ」(妄想)は、私には北田が言うほど「些細」なものとは思えない。

こうしたズレが現状分析にまで及ぶことになる。たとえば2chで行われた二つのバッシング、「イラク人質被害者」バッシングと拉致被害者家族会へのバッシングを北田は等値なものとして並べるのだが、その両者のバッシングに備給されたエネルギーが等価なものだとは私にはどうにも感じられなかった。確かに、匿名性の高い掲示板ゆえに、何に対してもバッシングは起こりうる。しかしそのなかで特に何が獲物として選ばれるのか、何が「祭り」として盛り上がるのか、はそれほど偶発的なものとは私には思えないのだ。

この論点と係るかどうかは現段階では不明な論点。シニカルとアイロニカルとの概念をどう使い分けているのかが、私には読み取れなかった。私は現在の2chの言説はシニカルではあってもアイロニカルなものではない、と感じているので。

この論点に関するジジェクの論考。自分へのメモ代わりに。

PLEXUS / Lacanian Ink: Slavoj Zizek - From Joyce-the-Symptom to the Symptom of Power

ついでにたまたま自宅の本棚にあった日本赤軍関係の本。

日本赤軍派―その社会学的物語

日本赤軍派―その社会学的物語

今から読むべ。

投稿者 althusser : 2005年06月07日 00:00

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