重層的非決定?

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2008年08月13日

■ 複数の論理が交錯する場のルールはどのように形成されるべきなのか

かなりがっかりさせられる記事を見かけた。

いわゆるハロプロヲタの行動に関して。

私はその現場にはいなかった。だからその場で起こったことの評価は私にはできない。それほどの批判にさらされるべきことであったのか、批判している人が単に狭量なだけなのか。

しかしここで起こったことを語る言説については私にも評価はできる。そこで語られている論理の是非の判断は私なりにできる。

場のルールはどのようにして形成されるのか

よい題名のエントリだと思った。そう、秩序問題である。いろいろな思惑、期待を持った人たちが集うイベントの場、そこでのルールはどのようにして形成されるのか、されるべきなのか。これはすぐれて社会学的な問題である。

*そこ*で何が起こったのか。繰り返すが私は言説でしかこの問題を語り得ない。そこでこのエントリでの記述をそのまま引用しておく。

1つは、自分の席の後ろが親子連れだったのだが、自分含めてヲタが立ったものだから、ステージが見えなくなって、前の方の席に移っていってしまった件。この親子連れはその後も通路はさんだところのヲタが激しく踊っていることでかなり迷惑を被っていた。

2つ目は、ヲタがドリーム(席移動)して狂喜乱舞していた席に、本来そこの座席のチケットを持っている人が来て、係員がヲタをもとの席に戻るようにうながしたところ、特攻服を着たヲタが逆ギレしながら去っていった件。(もちろん特攻服自体をどうこう言う気はない)

さしあたりこの記述の通りのことが起こったとしよう。ここには二つの集団間の葛藤が生じている。「ヲタ」集団と「一般人」集団である。少し補足しておく。この現場は花火大会であり、その余興として行われたアイドルイベントでの出来事である。「一般人」とは花火を見に来た当該アイドルのファンではない人々を指す。ここでは「ヲタ」集団と「一般人」集団とのルールの齟齬が発生しており、それをいかに調停するか、が問題となる。

さてこのエントリの記述を続いてみよう。少し長いが重要なところなので、切り貼りせずにそのまま引用する。

前者に関しては、自分も片棒をかついでいるので、うかつなことは書けない。とは言え、これは仕方がない、と僕は言いたい。これはファミリー席ができるまでハローの現場で問題とされていた現象で、座って見たい親子が、ヲタが邪魔で見えない、だからファミリー専用の席を作ろうじゃないかということになったわけだ。今回、残念ながら、というか当たり前のこととしてファミリー席の設定などない。あくまで花火大会だからだ。そんな中、ヲタも席を選べない、親子も席を選べない。じゃあ親子の前にいるヲタは着席ください、などという権力を発動はできまい。それをするなら、初めから、「全席においてライブは着席して観覧ください」とするしかない。そうしたルールが設定されなかった限り、ヲタはライブ中立っていいのである。これは難しい問題だが、ヲタはヲタなりの現場の倫理を持ち込んでいる、ライブは立って見るもんだ、という行動規範もその一つである。それを崩すためには、明確に主催者側がルールを設定し、さらにそれを厳格に適用する用意があることを示さなければならないと思う。僕が聞いたのは、「ご自分の席でご覧下さい」ということだけだったように思う。

ここには「ヲタ」集団のルール、論理は語られている。そして二つの集団を調停する超越的ルールが存在していなかったことも語られている。しかし一般人のルール、論理への配慮は驚くほど語られていない。

「「全席においてライブは着席して観覧ください」とするしかない。そうしたルールが設定されなかった限り、ヲタはライブ中立っていいのである」。正直この記述が私には理解できなかった。「ルールはどのようにして形成されるのか」という問題を設定しておきながら、主催者の定めた超越的ルールの有無だけを問う姿勢、いったいこの人は何を考えようとしているのか。

小学生の頃によく馬鹿なガキが言う言葉とがあった。「それをやったらだめって法律で決まってるのか」。法律がなければ、その行動は批判されてはならない。そんなものは国家権力と市民との間にしか成立し得ない。場のルール形成を論じる時にこの論理は無効である。主催者が定めたルールに反しなければ何をやってもよい、というのもそれと同質の幼稚な議論に他ならない。この人の言い分をまじめに取り上げれば、イベント一つ行うにも何十箇条にもなるルールを提示しなければならなくなる。公演中は・・・・をしないでください。そんなイベントを「ヲタ」集団も「一般人」集団も望みはするまい。

ルールとは本来は場の内部から形成されるべきものだ。それが絶対に調停できないときに超越的ルールが発動されればよい。超越的ルールが先にあるわけではないのだ。少なくとも「ヲタ」の立場にあると自認しつつ、場のルール形成を論じようとする人が超越的ルールの有無に頼ってはだめだ。

これはある種責任転嫁的な物言いかもしれないが、主催者はヲタが立って大騒ぎすることを容認、または黙認したのだ。だから、僕はヲタの後ろにいる親子は、不幸だったとしか言い様がないと思う。せめて係員が空いてる前の席に誘導してあげるくらいしかできないのではないか。

ある種も何も徹底して責任転嫁でしかない。繰り返すがこの記述のどこに場のルール形成の論理を考えようという姿勢があるのか。猫を電子レンジに入れるやつがいるなんて思わなかった電子レンジメーカーとこの主催者の違いは何か。何が同じで、何が違うのか。まるっきり同じだとは思わない。しかし禁止されなかったら即「容認」禁止しなかった主催者が悪い、という言い分はまともな大人の言うことではない。

「ヲタはヲタなりの現場の倫理を持ち込んでいる、ライブは立って見るもんだ、という行動規範もその一つである」。「ライブは立ってみるもの」という考え方が間違っているとは思わない。しかしそれが「倫理」だというのは全くわからない。倫理って何なのだろう。「小さい子どもでもステージをみられるように鑑賞する態度が望ましい」、これだって立派な行動規範だ。この二つの相反する行動規範をどう現場で調停するか、そこにこそ「倫理」が問われるところなのではないのか。一方的に「ヲタ」の論理のみを振りかざす態度のどこに「倫理」があるというのか。

「ヲタ」の論理は排除されるべきだとは思わない。しかし「ヲタ」の論理が貫徹される(できる)場は他に存在しているのだ。そのためにファン向けのコンサートがあり、「一般席」と「ファミリー席」が分けられている。逆に言えばファミリー席の設定がない、「一般人」もみる場では多少なりとも一般人の論理、たとえば「小さい子どもでもステージをみられるように鑑賞する態度が望ましい」に歩み寄る姿勢を「ヲタ」の側が持つことが、そうした場におけるルール形成のあり方ではないのか。

それを「ヲタ」の側が拒絶したとき、「一般人」は反撃する。徹底して主催者にルールを作らせる。それを「ヲタ」は望んでいるのか?「アイドル」などいっそ呼ぶなという。それが「ヲタ」の願いなのか?

投稿者 althusser : 2008年08月13日 02:22

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コメント

トラックバックありがとうございます。斧屋です。
あまり長くならないようにコメントさせていただきます。
僕のこのエントリは結論を出すためのものではありませんでした。むしろ、絶望感の表明と言ったほうがいいかもしれません。
もしあたりさわりのない書き方をするなら、「小さい子どもでもステージをみられるように鑑賞する態度が望ましい」と書けばいいのでしょうが、僕は実際にそうできませんでしたし、もう一度同じイベントがあったとしても同じように立って見てしまうと思います。だから僕はそう書くことはできません。
その、「一般人」と「ヲタ」との妥協点のなさだけを問題提起しておいて、僕は解決策を示しません。今気づきましたが、僕はつけるタイトルを間違えたのかもしれません。

>二つの相反する行動規範をどう現場で調停するか、そこにこそ「倫理」が問われるところなのではないのか。
おっしゃる通りです。おっしゃる通りですが、調停できないなあ、と絶望してしまったのです。
一般的な倫理の観点からは、今回の件は自分をはじめヲタが責められるべき事だと思います。その点では、僕が安易に主催者に「超越的ルール」を求めたことは不誠実だったと反省しています。
ただ、繰り返しますが、あの場においては例えば「みんな座って見よう」などというルールが自然発生することはありえませんでした。僕ができるのは、せいぜいそうした現状を提示して、議論の材料としていただき、批判は甘んじて受けるということだけです。

投稿者 onoya : 2008年08月14日 11:28

コメントありがとうございます。
うーん、「ヲタ」側が何かを変えることはあり得ない、というところを出発点として語られると、「議論」の仕様も何もない、という感じです。
なぜ「ありえない」のか、その論理をもっと突き詰めて考えていっていただけるとあるいは話が深まるかも知れません。「ヲタ」集団内部の秩序・論理形成のメカニズム解明ですね。

投稿者 はたの : 2008年08月14日 12:39