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2006年02月26日
■ 白い
デザイン変更。
「白い・・・」。
■ デザインテーマ
といって、単にテーマCityのデフォルトの配色に戻しただけですが。
画像を使わないという制限の中で、テーマをそのまま使うことによって他の人と全く同じデザインになるのは避けたいと思っているのだが、なかなか難しい。
今までは背景色を変えることでそれなりに雰囲気を変えていたのだけれど、飽きてきたのでシンプルなデザインにしたくなった。シンプルといえば白だろう、というので白くしようと思ったらそれがデフォルトの背景色だったという。
まあとりあえず「白い・・・」からいいや。
2006年02月25日
■ 誕生日
厳密には日付が変わっているけれど、はてな上ではまだいけるな。
マサオこと大谷雅恵さん、お誕生日おめでとうございます。
( `_´)>歳をとるのは悲しいことではありません。
2006年02月24日
■ よい知らせ
辻ちゃんこと辻希美さんがフットサルの大会に登場、マスコミの取材に応じて、加護ちゃんこと加護亜依さんのことも言及していたようだ。
時期は不明だが、それでも必ず戻ってくる、という確証を得られた、気がする。
■ 私信だかなんだか
ユーモアではない辭書的な解説を以てその原因を解説しなければならないとしたら
ユーモアでいいのではないでしょうか。辞書にユーモアがあってはいけないという法はないと思いますよ。
個人的には「紺野さん」という呼び方には紺野あさ美さんのモーニング娘。メンバー随一の「普通っぽさ」(アイドルっぽさの逆の意味での)が反映されているような気がしています。いわゆる「クラスにいるちょっと可愛いあこがれの女の子」を呼ぶのに近いノリというのでしょうか。
私は「なっち」とか「加護ちゃん」とか「てってけてー」とか普通ではない(ちょっと変な)人の「推し度」が高いので、見当はずれかも知れません。
■ 「抵抗」としての論理(メモ)
「私」にとって違和感があったり、時に不愉快であったりするものの存在を容認、尊重する力を授けるのが論理性ではないか、などと思ったりする*1。
■ 鳴り止まないタンバリン
もうかなりで遅れた話題だが、なっちこと安倍なつみのセカンドアルバムがまもなく発売。まだ収録曲は未発表。
とにもかくにも「鳴り止まないタンバリン」をよろしく。この曲を聴くまでは絶対に終われないものが私には残っている。
■ 私は私、あなたはあなた
パソコンテレビ GyaO [ギャオ] 無料動画 |音楽 ハロプロアワー|でハロプロ新番組。初回はなっちこと安倍なつみが司会で愛ちゃんこと高橋愛がゲストとのこと。安倍さんと高橋さんの絡みというのは久々。かつてハロモニ。のコーナーでも(顔相的に)相性が悪いことにされた二人、人の話を聞かないことで知られる二人がどんな絡みを見せるか、とても楽しみ。
2006年02月23日
■ 追記3
ついでにこの手の削除合戦には必ず「キーワード削除反対論者」が一枚かんできてよけいに議論がおかしくなるのだが、実を言うと私はこの「キーワード削除反対論者」と近い思想(のようなもの)は持っている。「ゴミ」のような情報の中にたからものがある。それがネットのよいところだ。前にも引用したeulearさんの記述。それはべつとして... - キーワードの件などなど。 …續きを書いた。
マイナーな亊物をも流通させることができるのが電網の良點なのだといふことを忘れないはうがよい。
に対する共感も同じものである。その情報が存在することによって具体的に迷惑を被る状況が生じる*1、あるいはシステム上そうした「ゴミ」情報を抱える余裕がない、という場合を除いては情報は極力温存されるべきだ。それがこの社会の余裕というものだ。それを認めない「削除論者」の理想とするものとは根本的に違うようだ。
キーワード論議に関心のない人も多いと思うが、これは大げさに言えば社会論にも通ずる議論なのである。
*1:この問題はこの問題で非常に重要である。情報は単に垂れ流されればよい、というものではない、というのもまた改めて強調されるべきことだ
■ 追記
ありや、今見たらまだ終わっていなかったようで。eulearさんが妥協に応じた時点で終わりだと思っていたが、まだ続くのか。nozorinne2さんの主張も正当なんだけれど、ねえ。
今はムラ社会がネット文化も支配しつつあるから評議会にかけて多数決になるとこのキーワード自体が消えちゃうよ、きっと。元の内容も議論の経緯も貴重なものだから、消してしまうのはいかにも惜しい。eulearさんが引いたのもその辺を鑑みての上なのではないかなあ。
■ ムラ社会・モヒカン族についてのメモ
「ムラ社会」は「常識」と、そしてムラ内部の「合理性」を重んじる。「合理性」とはムラ社会のある流儀(「常識」)を正当化するイデオロギーにすぎない。
「モヒカン族」が重視するのは「合理性」ではなく、論理性である。論理性に裏打ちされたものを合理的であると見なすのである。
■ 追記2
フレーム化していた(いる)ので突っ込まないようにしてきたのだが、終わったと思って言及してしまった手前、もう少し考えてみた。
# nozorinne2 『「紺野」と内容が重複していますね。本名とは別に愛称のキーワードが独立している場合は、愛称を愛称の解説のみを書き、本名に生年月日などの profileを書くことが通例となっています。当キーワードの場合ですと、「紺野」が大元のキーワード。「紺野さん」が紺野の愛称という扱いになるので、紺野への誘導キーワード、あるいは紺野さんと呼ばれる場合はどんなときかなどの解説を書く以外に役割は果たせません。』 (2006/02/23 23:55)
これは非常に正しい指摘だ。「紺野」と「紺野さん」で同じ内容のキーワードを造ることにはいかにも意味がなく、「紺野さん」は「紺野」が指示する特定の人物に対する愛称としてのみキーワードとしての意味を持つ。
となれば、紺野あさ美を指示したい時、「紺野さん」という表現が単に姓+敬称ではなく、「こんこん」や「加護ちゃん」「なっち」などと同列の「愛称」として機能しているか、というのが焦点となるだろう。
それでちょっと興味を持っていろいろみてみたのだが、感覚的に言えば、紺野あさ美さんへの言及に「こんこん」とか「紺ちゃん」とかではなく、「紺野さん」が使われる比率が、例えば安倍なつみさんへの言及に「安倍さん」が使われる比率よりも高い、という印象を持つ(調査するほどの意欲はないので数値的に示すとかそんな気はない)。それは他のモーニング娘。(卒業者含む)メンバーとの比較からしてもそんな気がする。つまり紺野あさ美さんにおける「紺野さん」という指示語はそれ相当の「意味」を持っているのではないかという気は確かにするのだ(実際に数えたわけではないので間違っているかも知れない。従ってこの一文をキーワード論争の素材にはしないように)。
ただ現状の解説文「親しみを込めて」では説明としては足りないように思う。むしろ「名字」+「さん」は他の愛称に比べると疎遠な印象を持つ。それにもかかわらず紺野あさ美さんに対してはファンがすすんで「紺野さん」を愛称として採用するとすればそれはなぜなのか、それが「紺野さんと呼ばれる場合はどんなときかなどの解説を書く以外に役割は果たせません」に対する実践的な解答となるはずだ*1。
*1:ただしその解を示したところでおそらくキーワードの削除動議はなされ続けるものと思われるので、この「解」を示すことはキーワード削除論議への「解」にはならない
■ ムラの掟
しばらくそれどころではなく、放置している間にもめにもめていたキーワード「紺野さん」が解決した様子。途中でいろんな人が出てきてしまって、議論が面白くなくなったというのもある。途中までは、両者の議論はすれ違ってはいたが、そのすれ違いが「ムラ社会」人間と「モヒカン族」人間との間のすれ違いの一ケースとして非常に面白かった。
結果としての妥協点は、まあこんなものか*1、と思うが、しかしずいぶんと「艶」がなくなったものだ、と思う。合理的で正しいがしゃれがない。こういう風にして世の中からしゃれというのがなくなっていくのだろう、と思ったりもする。
ちょっと面白いのは技術至上主義的な立場に立つ「モヒカン族」サイドに立っていた人の推していた内容の方がしゃれっ気があって、「ムラ社会」サイドに立っている人の推す内容の方が合理的と言えば合理的だったことだ。ちょっと見には逆になりそうに思う。しかし世の中得てしてそういうものだ。実際このサイトは途中からモヒカン族グループのキーワードがリンクされるようになっているが、それらを見てもらえれば(例えば「善意」とか)、その辺の感覚はご理解いただけるものと思う。
ムラの掟というのはその狭い世界において合理的かつ厳格なものだ。ムラ社会に棲まうものはそれを至上のものとしてしか生きていけない。それはきっと尊重しなければならないのだろう。ただどこかでその掟を揺るがすような攪乱要因を残したい、私がここでテキストを書く理由の一つにはそれがある。
もはやhatenaユーザしか見られなくなってしまった元の「紺野さん」の内容をここに残す。
紺野あさ美。モーニング娘。5期メンバー。食いしん坊な癒し系の女の子。けっこうかわいい。
ハロプロファンのダイアリーでは、親しみをこめて「紺野さん」と書かれることが多い。
ついでにキーワード「加護ちゃん」も是非見て欲しい。今、この状況なればこそ胸にしみるものとなっている。加護ちゃんは、今でも加護ちゃんなのである。
*1:それでも2006/02/23 21:06:32の更新は「最悪」で、当初このキーワードにあった「艶」を残す余地を一切なくしてしまった
2006年02月21日
■ 「正しさ」を希求する言説
人は正しくありたい、と思うところをどこかしら持っているだろう。そしてその「正しさ」に確信が持てない場合、どこかに「正しさ」の根拠を見いだし、己の正当性を再認したい、そんな欲望を持っているのだろう。「正当性」それは確かに社会的存在としての人間の行動原理に深く刻まれている。
しかし自身の行為なり発言が正当なものであらんとする心性と、「正しいこと」を述べることでもって、自身の正当性を再認しようとする行為には大きな違いがあるように思う。「正しいこと」を主張している私は正しい、この「正しさ」の再認プロセスは自己準拠的なシステムを構築し、閉ざされた論理の中で肥大化してしまう。そしてそれとは別の「正しさ」の可能性を閉ざしてしまう。自身の信ずる「正しさ」に反する者は「悪」なのだ。そうした言説の行き着く先は「プチファシズム」だ。
民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見いだす。
「世間」というのはこの自己準拠的システムが見いだした「外部」なのであろう。私の正しさは世間の常識が支えてくれる。そこに私の正しさの根拠を置いている限り、私は自家撞着には陥っていない。
しかしそれは本当に「外部」なのだろうか。社会は多くの「正しさ」を抱え込んでいる。その中の一つを参照しただけで、それが今私が主張している事象において一番の優先順位を持っていると判断したのは私なのだ。私が主張している「正しさ」と同じものを社会が持っているからと言って、私の主張することが正しいことを保証してくれるものではない。そして「世間」とは、私が選択した優先順位付けを共有している者を「みんな」とすることによって造られた閉ざされた空間ではないのか。
私はここで価値相対主義を主張したいのではない。ただ「正しさ」を目的化することの危険性を言いたいだけだ。「正しいこと」はきっともっと曖昧な形でしか存在しておらず、個々の利害関係者の葛藤のプロセスの中に事後的に見いだされるものなのだ。喫煙問題でも、キーワード問題でも、己の利害を(おそらく善意に)隠蔽して「正しい」ことを語る者たちの言説を読むにつれ、そう思う。
■ 八つ当たり
「くだらない」あの一件が頭から離れず、一日中それに関連したことを考えている。
果たしてその一件について「語らない」ことが正しいことなのか。それもわからない。今どんどん彼女の存在が消し去られようとしている。本当に彼女は帰ってくるのか。その確証を事務所が伝えてこない限り、むしろ私たちは彼女のことを語り続けなければならないのではないか。そんなことを思ったりする。
彼女のいないハロプロがこれほど空疎なものだとは思わなかった。ましてや、いない理由があまりにバランスを欠いた理不尽とも思える処置によって、だ。なんでみんな彼女のいないハロプロのことをこんなに楽しそうに語れるのだろう、そんな八つ当たりのような(というか、八つ当たりそのものの)心情になる。
それでも去年は同様の状況で「愛の第6感」を買わなかったのに、今年は「レインボー7」を買って、聞き込んでいる。矛盾している。
2006年02月17日
■ 「良識」が支配する社会
加護ちゃんこと加護亜依さんの「謹慎」が長期になることが事実上確定。
ご存じの通り『加護亜依』は現在謹慎中であり、大変残念でありますが、4月8日(土)から始まります「ハロ☆プロ パーティ〜!2006 〜後藤真希 キャプテン公演〜」に出演出来ません。
Hello! Project -Official Site-
ブログを見ていてもハロプロファン以外の反応の大半は「へぇ〜、あの加護ちゃんが」ぐらいなものだった。一部ファンと称するものたちがファンサイト掲示板でごちゃごちゃ言っているのが一番目についたぐらいで、おおかたの反応は緩やかなものだった。それでもこの結果だ。個別具体的な声ではなく、もっと漠然とした「制度」の力。「私ではない誰か」が許さない、そんな「声なき声」の「良識」が彼女を許さなかったのだろう。
彼女は直接は誰も傷つけていないのに、彼女を許さない誰かが亡霊のごとく社会を覆う。
2006年02月16日
■ 佳曲怪曲
仕事がらみで大阪へ出たついでに購入。
後藤さんのはまたまた今更なのだが、カップリングの「Dance Dance Dance」を聞きたくて。中古を探すのも面倒だったので新品で。
本当に今更だけれど表題曲もカップリングの「Dance Dance Dance」も佳曲。いやあ、あややもいいけれど、後藤真希もつくづくいい、と思っていたら、復帰するとのニュースを読む。大したことなかったようで、よかった。
モーニング娘。のアルバム、「レインボー7」。まだそんなに聞き込んでいない。が、とにもかくにも「レインボーピンク」が傑作。道重さゆみ演じる「重ピンク」と久住小春演じる「こはっピンク」のデュオユニットがコンサート会場で思い出のデビュー曲を歌うという設定の曲。劇中曲である同名の「レインボーピンク」という曲が何とも懐かしさを感じさせるような佳曲。ここがしっかり作ってあるから、台詞を多用したちょっとふざけた作りの曲も気分よく聴ける。この一曲を聴くためだけでも3360円払う価値がある、と私は思う。
2006年02月15日
■ 「教育」欲望
彼女をなぜかくも「偉そうに」叩く人がいるのか。それは煙草を吸ったからだ。なぜ煙草を吸うと(健康に良くないとかそんな話じゃなく、あたかも邪悪なことをしたかのごとく)叩かれなければならないのか。それは煙草を吸うことが「非行」だからだ。
「非行」問題とは畢竟秩序問題である。非行とは秩序の境界を脅かす行為であり、秩序を挑発する行為であると認識される。逆に言えば非行をただすことが「良き秩序」を守ることになるのだ。
非行者とは秩序を乱し、秩序からはずれたものであって、逆にそれを秩序の元に戻すことによって秩序は秩序たり得る。逆説的に非行者は秩序を維持する効果を持つ。その効果こそが「教育」である。
未成年の喫煙は非行の代表的なものとされる。それは「非行-教育」に必要な形式をすべて備えているからだ。
- (健康という)本人にとって良くないことである。
- (健康という)身体に関わる問題である。
- (大人にだけ許されていることをするという意味において)大人/子どもの境界の侵犯である。
彼女を叩くものたちは、彼女のために、そして社会のために、彼女を叩く。いや、叩いているのではなく、子どもである彼女と、それに同調する餓鬼どもを「教育」しようとしているのだ。
■ 前書き
私が彼女のことを好きでなければ、もっと冷静に、的確に今ここに生起している言説を読み解けるだろう。しかし私が彼女のことを好きでなければ、それをしようとは思わなかっただろう。
■ 後書き
語らないことがファンとして最善の選択肢であろうことは分かっている。しかし一方で私は彼女を「正しい」立場から叩く言説を放置する気にはどうしてもなれないのだ。この言説は、彼女だけではなく、ともすれば社会全体を飲み込み、ただただ正義を標榜して非寛容を貫く状況を生み出しかねない。私はその言説が生起する今ここにおいて、その言説に与しないメッセージを残さなければならない。
■ 「監視」欲望
かつてのアイドルファンはもっと厳しくて、煙草を吸ったなんてことが分かったらファンが激減した、だからアイドルたちは律することが出来ていた、今のファンは甘い、だからアイドルたちは乱れている、という主張を読む。
本当に今のアイドルたちの方がより乱れているのか、この手の「昔は良かった」言説は一応眉唾物だと思っておいた方がよいのだが、それはさておき。
もし事実として昔のアイドルファンの方が厳しかったとして、その方がよいのだろうか。アイドルは何々であれ、という思い入れをプライベートな身体にまで込めて、そうしたまなざしで見続ける、ちょっと恋愛でも何でもスキャンダルがあれば致命傷、それがよい状況なのだろうか。
アイドルはプライベートでも見られることを意識せよ、大金をもらっている代償だ、などと曰う。なんと卑しき物言いなことか。他のアイドルは知らないが、加護亜依が、モーニング娘。のメンバーたちがそれなりのお金をもらっている(のだろう、知らないが)のは彼女の歌に、踊りに、そのパフォーマンスに価値があるからだ。プロとして立っているステージにお金を払って観たいと思うものたちがいて、それで彼女たちはお金を稼いでいるのだ。
「プライベートでも見られることを意識せよ」、それは疑似恋愛にせよ、本当の恋愛にせよ、恋愛相手に監視カメラでも付けて監視したいという「私」の欲望ではないのか。そしてそんな監視を甘んじて受けよ、というのはこの世界の彼女たちを収容する監獄にしようということだ。私は特定のものだけであっても、そのような監視(される)社会を良き社会だとは思わない。
今やアイドルたちの恋愛についてはかなり寛容な状況になってきている。恋愛をスキャンダルとして責め立てることを、今の社会はよしとしない。アイドルへの「監視」欲望は明らかにゆるんでいる。
それを面白からず思い、己の理想をアイドルに押しつけ続けたいものたちの後退戦が「喫煙」なのだろう。そしてかれらは己の欲望を押し隠し、ただひたすら秩序の守護者として、そして非行者に対する教育者として、語りを生産し続けるのだ。
2006年02月14日
■ 無題
まあ、なんですよ。自分でも冷静ぶったことを書いているけれど、悲しくて不安で仕方がないわけですよ。安倍さんの時は、安倍さんのしてしまったことも悲しかったし、それに伴う結果(2ヶ月の活動自粛、シングル発売中止)も悲しかったし、バッシングするものたちの言説を読むのも悲しかった。今回の件では加護さんのしてしまったことは「馬鹿だな」とは思うけれど、別に悲しくはない。後の部分の悲しさは同じ。最初の悲しさがないだけ、落ち着いている、振りが出来る。
加護ちゃんのことは夢に見るほどに好きなんだから。さして面白いとも思えない筋書きのドラマをわざわざ見るほどに好きなんだから。安倍さんとの絡みを思い出すだけで長時間幸せに耽っていられるほどに好きなんだから。
「無期限」というのが堪らない。単に決まっていないだけだ、とは思っている。4月の「ハロ☆プロ パーティー」には復帰するだろうとは信じている。でもわずかではあっても別の可能性がちらついて、仮にそんなことになったら、どうしてやろうかなどと考えたりする。
能動的なことは何も出来そうもない。ただハロプロという枠組み自体への愛着は急速に薄れることは確かだ。加護ちゃんのいなくなったハロプロはもはや欠陥品でしかない、私にとっては。
■ 虎の威を借る
この問題を語り続けるのは止めようという主張もあると思う。それはそれで正しい。ただ私は「前の」安倍なつみの問題の時も結局2ヶ月書き続けたし、今度も書き続けることになるだろうと思う。これはいい悪いの問題ではない。私は個人の感情において、この問題がなかったかのごとく、ハロプロの話題をする気にはとうていなれない、ということだ。
ネットの語りは安倍さんの時に比べればずいぶんとおとなしいものだ。なんだかんだ言って「一般人」の反応はまるで違う。基本は「たかが煙草」というのがある。バッシングをしているのは「ファン」と称するものたちと、そして一部のパラノイアだけだ。この手合いは何かことがあれば、それに対して己の正義をひけらかすことで己の精神の安定を図ろうとする。例えば「加護亜依」のキーワードを、普段ハロプロの話題に触れたこともないくせにこのときだけ編集に手を出す輩などはその典型だ。「正しい」「公正」なことをしていると自分では思いこんでいるようだ。歪んでいる。
私が一番いらだっているのは、今回は事務所とその周辺の対応だ。
例えばハロモニ。単にテロップで「この放送は何時何時に収録されたものです」で良いではないか。他の局の番組はそうしていた。また安倍さんの時もその程度の対応であった。なのに今回は大幅な編集で加護さんの部分をカットする。
例えば「処分」。安倍さんの時は「2ヶ月活動自粛」だった。今回は「無期限謹慎」。
なにやら、ネットでの言説とは違い、事務所的には「盗作」よりも「未成年喫煙」の方が罪が重いらしい。
私の感覚では「盗作」が2ヶ月なら「未成年喫煙」など3日で十分だ。私は安倍さんのことが明るみに出たときには「くだらない」とは書かなかった。決まったばかりの紅白出場を辞退すべきだ、と書いた。加護さんの時の第一印象は「くだらない」。私の価値感ではそれだけの差がある。2ヶ月を超える謹慎を加護さんが強いられるとしたら、それはとてつもなくバランスを欠いた処置だ、と私には思える。
法律論をかざす気はないが、しかし両者に関わる法律の趣旨とてこの感覚を支持している。未成年者禁煙法には当事者たる未成年を罰する意味合いは全くない。今回の一件で多方面に迷惑がかかっているのは「法に触れた」ためであって、問題となった行為自体に直接の原因があるわけではない。問題となった行為(喫煙)自体は、喫煙をした本人のためにならないということで保護責任を負う人たちから叱られればすむことであって、部外者にやいのやいの責められるたぐいのものではない。その行為自体で誰かの権利を侵害したりしたわけではないのだ。
私は安倍さんのしたことは、彼女が「表現者」でいる限り、忘れないと思う。彼女が「チェインギャング」を歌えば、その歌詞の中に彼女のその行為の意味を思い出す。私はその行為を織り込んだ上で、彼女を見る。その行為は、彼女の表現者としての人格の中に織り込まれている。
加護さんのしたことなど、加護さんが再び私たちの前に出てきたときに、一言「ごめんなさい」と言えば(別に謝って欲しいわけではないが、儀礼的にその程度のことは言ってもよいのは確かだ)、その瞬間に忘れていいことだ。背負い続ける価値など全くない。
一応言っておくと私は喫煙に甘いつもりは全くない。私自身生まれてこの方煙草を吸ったことはない。また未成年者相手の仕事をする人が喫煙をするのは「けしからん」とさえ思っている。職員室で喫煙をする教師がもしいるとしたら、教師失格だと思う。家で吸うにしても、煙草のにおいを学校に持ち込むのも「けしからん」。
ハロプロでも同じだ。未成年者をメンバーとして抱える「プロジェクト」だ。成年メンバーも、スタッフも、未成年メンバーの前で煙草を吸うなどとんでもないことだ。もしそんなことをしているメンバーやスタッフがいるのであれば、即刻止めて(辞めてとまでは言わない)もらいたい、そう思う。
しかし煙草の害というのは徹底して実利的な問題だ。彼女の表現者としての価値を損なう必要など本来全くないことだ。「イメージが云々」というのはプライベートな恋愛を暴き立てて「イメージが云々」と曰うストーカー的視線と同レベルのものにすぎない。恋愛と違って未成年者の喫煙は確かに「よくない」ことだ。その一点の妥当性を持って、己のストーカー的視線までも正当化しようとする。今や恋愛では「アイドル」に対する己の願望の押しつけがおおっぴらには出来なくなったものたちの足掻きの場が「法に守られた」喫煙という場なのだ。
■ 株なら大損
いろいろ買ってきた。
といっても買ったのは昨日だから、娘。のアルバムじゃなくて、
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- 発売日: 2004/01/01
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x3だけ中古。メロン記念日のは新品を買うのは今更感が漂うけれど、ほんと今更だな。
まっつーことあややのCDを買うのは実はこれが初めて。ファンからはあまり評判が高くない「砂をかむように NAMIDA」だけれど、私は結構気に入ってしまって、松浦亜弥の歌うバラードっていいなと思って「The Last Night」を聞きたくなって、アルバムも買ってきたという。今までテレビとかで流れているのしか聞いたことがなかったもので、結構な勢いで聞き込んでいる。
松浦さんのことは他のハロプロメンバーにある「ダメダメ」感みたいなのがなくて、あまり愛着みたいなのはわかなかったのだけれど、声がいい。
ちなみに私がCDを買い出すのはほとんど落ち目になる人なので、松浦さん、ご愁傷様でした。
■ 悪いのは誰だ?
日曜日の昼の番組「あっこにおまかせ」で未成年者の喫煙問題なんてのを扱っていて、そこで今回の喫煙問題で「悪いのは誰か」に関するアンケートを「ハロショ」に来たファン相手にやった結果を発表していた。
回答者22人中15人が隠し撮りを掲載した写真週刊誌が悪いと回答し、加護さん本人が悪いと答えたのは3人だけだというような結果を見せ、「ハロプロファンはアホやねえ」と言いたいような流れの番組になっていた。
某掲示板ではアンケートを実際に受けた人が書き込みをしていて、実際にされた質問は「加護ちゃん」とは答えにくくなるような誘導がなれていた、という報告があった。そして怒りの一言、
自分らに都合いい番組を作るために誘導尋問とかクズだよこいつら
加護が1番悪いことなんて俺らが1番わかってるっつーの
「誘導尋問」自体もさもありなんと思わせるし、そもそも適当に集めた22人程度のアンケートで円グラフまで作って提示するのも相当に痛い。「当事者」は何も分かっていない、外から見ている我々は冷静だ、などというスタンスをマスコミが取るのは今に始まったことではもちろんないが、その実やっていることはでたらめ、人に説教を垂れる資格などありはしない。かれらはたぶん「当事者」の吐き捨てた「加護が1番悪いことなんて俺らが1番わかってるっつーの」という言葉の意味など永遠に理解できないだろう。
だいたい「誰が一番悪いか」などという問自体が愚問なのだ。関係者全員各々全く立場も違えば、「事態」に対する関与の方向も違う。そもそも「悪い」って何が何に対して「悪い」のか。そんなことも不明確にして「悪」の量を問うてみてもなんの意味もない。
回答の中に一人「中澤裕子」と答えたものがいた。それを見て「理解できない」という感想がファンサイト掲示板に上がったが、質問自体の無効性を浮きだたせる見事な回答だと思う。「一般人」にはあるいは理解しがたいところがあり得ても、ファンならこの回答のしゃれっ気が理解できてしかるべきだと思うのだが。
これで理解されないなら、もっとわかりやすい回答をするべきだったのかも知れない。それならどう答えれば良かったのだろう、と考えて私ならこう答えよう。
「あびる優」。
2006年02月11日
■ 言説効果
仕事が全然はかどりません。頭の中が「くだらない」話でいっぱいで。
つらつら飽きもせずにネットで言説を追っているのだけれど、そういうのを見ていると根本的に違う二つの言説があって、両者は簡単には交わらないのだな、と感じる。二つの言説とはファンサイドとそれ以外、ではない。もっと一般的な次元でのお話だ。語る対象をそれが置かれた文脈の中で語ろうとする言説と、文脈から切り離されたいわば冷凍保存状態の対象として取り出して語ろうとする言説。
未成年の女性アイドルが喫煙しました。この事象をそのまま取り出して何かを語れば並ぶ発言など限られる。
- 未成年の喫煙は法律違反だ。
- アイドルはイメージを壊したら駄目だ。
- タレントが悪いことをしたら、一般人とは比較にならないぐらいいろんなところに迷惑がかかる。
そんなこと何も「この事例」で語らなくても、抽象的アイドルAで語れる話じゃないか。そんなことを語りたくて具体的な事件を「待って」いたのか?
そんな一般論とか一般常識とやらを自分のブログでわざわざ語る人というのはよほど人に説教でも垂れたいだけなのだろう。
で?だから?厳しい処分も受け入れろ?引退もやむなし?
そんな一般論で他人の人生が翻弄されるのを見たいわけだ。卑しい話だ。
そうですよ、彼女のしたことは法律に反していますよ、アイドルとしては明らかにやっちゃ駄目なことですよ、そしていろんな人に迷惑をかけていますよ、そしてそんなことは今彼女も、そしてそこに関わる人たちも、そして彼女のファンたちも、みんな分かっていて、そのことを噛みしめていますよ。それ以上にかれら(そして私たち)に何を知らしめたいのか?
具体的な状況は、もうこの瞬間に動いていて、そしてあなた(そして私)が発言をなした瞬間にもまた何かが動くのだ。そういう言説をあなたも私も形作っているのだ。そして彼女はもうすでに無期限の謹慎という罰を受け、CDの発売中止という結論も出され、多くの関係者に迷惑をかけまくり、多くのファンを失望させ、そしてそのことを否応なしに思い知らされているわけだ。その状況の中で、何をどう動かしたいのか。己の発言にどういう力を込めさせたいのか。あるいは己の発言がどういう力に荷担することになるのか。それを何も考えないではき出される言葉とは何なのだ。
今現実に彼女が置かれている状況において、さらに一般論としての彼女の行為の否定性を語ることの言説効果を想像できない程度にしか状況把握が出来ず、あるいは想像力が働かないのなら、その話題には触れるべきではないのだ。
■ 存在を否定する力
何かの存在を否定しようという力は、とてつもなく恐ろしい力だと私は思う。確かに彼女の否定的側面は語れるだろう。青少年の喫煙を防止するのにマイナスだとか何とか。あるいはハロプロ全体のイメージに関わるとか何とか。しかしそんなことが、彼女の存在の否定にまでつながるようなことか?青少年への影響を軽視しているのではない。しかしそれは彼女の存在を否定しなければ救えないことなのか?何かの存在を否定しなくても十分守れる手段があるのであれば(そして一般的に言ってあるに決まっている)、そのものの存在をことさらに否定するべきではない。
何かの存在を否定するということは、否定されるものの抹殺のみならず、それに思いを寄せ、それに関わるものたちのこころを踏みにじる。存在するが故に邪魔なことがあっても、その存在するものを無視するのは簡単だ。しかし存在を抹殺されたものには救いの道はないのだ。
「常識」や「正論」は時として何かの存在を否定しようとする。常識を盾に何かを主張するのも良いが、しかしこのことは常に意識しておいたほうがよい。
2006年02月09日
■ だまされた
うたばん、あややこと松浦亜弥が出るものと思ってずっとテレビを付けていたのに、結局最後まででなかった。まったく。
■ ムラ社会
仕事の締め切りが迫っている(というかすでに遅れている)ので、あまりまとまったことはかけない。とりあえず先日書いた「ムラ社会」「モヒカン族」の問題について、いずれ近いうちにきちんと書きたいと思っている。この概念について知ったのはそれはべつとして...さんのサイトを読んで初めてだったのだが、しかし前々から同じようなことは思っていた。ネットという情報流通の場を支えて来たものたちとそれとは全く別の「常識」とやらを持ったものたちとの対立。
私が初めて「はてな」においてキーワード論争とやらに関わったとき、私は根本的に誤解していた。キーワードを削除しようなどという運動を起こしているものたちの動機を完全に誤認していた。情報の削除などというものを行うのは私にとっては二つの理由しかあり得ない。
- 情報を掲載されることにより、その情報の当事者が迷惑をするというケース
- 技術的理由により情報がこれ以上増えるとシステムが破綻するというケース
私が昨年の7月に関わったときに問題になっていたキーワードは1が問題になっているとは思われなかった。だから私は2の問題だと思いこんでいた。それならば優先順位付けを、そのキーワードに関わる場にいるものたちが付けなければならない。それで私はキーワードの選別に賛同したのだ。しかし私は無知だった。情報収集を怠った。システムサイドはキーワードの削除など必要としていなかった。まだ十分余裕があるし、もし将来余裕がなくなることがあってもシステムの増強で対応するつもりのようだった。そりゃそうだわな。それが「はてな」の売りだからだ。
私は己の常識(まさか上記二つ以外の理由でキーワードの削除など行うものがいるなど思いもしない)にかまけて情報収集を怠った。その点は今更ながら自己批判しよう。
それにしてもキーワード削除に熱心なものたちの「常識」のなさには改めてあきれる。一時は削除の理由として「リンクスコア」などというものを持ち出していた。「リンクスコア」の持つ意味、それをあえて低く設定するということの持ってきた意味を全く黙殺してキーワードの要不要に意味をすり替える。キーワードとその周辺の事柄が置かれてきた文脈を全く無視して、自分勝手に設定した「常識」とやらで物事を裁断する。「常識」が聞いてあきれる。
まずは「リンクスコア」をキーワードの要不要の問題にすり替えた議論をしたものたちは、「リンクスコア」が持つ意味、それがどのような議論を経てどのような意味を担ってきたのかをきちんとフォローし、その上で改めて己の見解を述べよ。キーワード編集に関わるのはその後だ。それもしないで、自分勝手な主張でキーワード編集に関わる資格などありはしないのだ。
■ くだらない2
「くだらない」ことをなぜわざわざ文字にしたのか?それはその「くだらない」ことを取り巻く状況がくだらないことをくだらないこととしてはすませない方向で動くであろうことが容易に想像できるからだ。その想像には十分な根拠がある。
そうであるならば、せめて一ファンとしてくだらないことはくだらないのだと言葉に残そう、それしか私に出来ることはない。
■ くだらない
くだらない写真と記事が週刊誌に出るようだ。
未成年者の喫煙禁止法は、未成年者の保護という意味を持つものだから、喫煙をした未成年者はその煙草およびその器具は没収され、未成年と知りながら煙草を販売したものおよび喫煙現場にいた成年者が処罰の対象となる。
未成年で喫煙をしたものの振る舞いそれ自体はもちろん教育的見地から責められてしかるべきだが、それ以上に何かしら「邪悪なこと」をしたとかそういう意味づけをするべきではない。関係者の間で「馬鹿、何をやっているんだ」、「ごめんなさい」、それですませて良い問題だ。
それですませるべき問題だ。
■ キーワード削除に関する補足
上のエントリを読み返して、やや早書きすぎたな、と思うところがあったので補足。「情報の削除」の理由として二つをあげたが、これは一般論。「はてな」の場合にはもちろん「はてな」のローカルルールも重要だ。
このルールに反しているキーワードはもちろん削除されても仕方がない。そしてもちろんこのルールは上で挙げた「1」を含んでいる。前に書いたように「2」は「はてな」システムにおいては削除の理由とはならない。つまり「はてな」のキーワード削除の是非に関しては上記ガイドラインを参照すれば十分ということだ。そこからはずれた「一般論」だとか「常識」などは意味を持たない。もちろんガイドラインを読むのには「常識」は必要だろうが。
■ 切り棄てられるもの
先日来リンクを貼らせていただいている「それはべつとして...」さんのサイトの中で特に私が共感した文を改めて引用させていただく。
ある語句がキーワードとして制定されるには、それなりの必然があつたからに違ひないはずで、しかも、運用の過程で新たな用途が發生してゐる可能性さへあるのだ。一般論を判斷のモノサシとして振りかざし、それらを切り棄てゝゆくといふのは、物亊の「別の局面での在りやう」を無きものとする發想だ。
これはネットの情報の関する指摘にとどまらない。もっと社会一般に広げても妥当する指摘だと思う。特に今の社会において行われているこうした「切り棄て」の問題こそ、私が今一番考えようとしてきたことではないか、とさえ思う。
これについては今後じっくり考えていきたい。
2006年02月08日
■ キーワードの効用
昨日リンクを貼らせていただいたそれはべつとして...さんのところに「ネットでものを書く」ということに関する本来当たり前だが、忘れられかけている重要な指摘を見つけた。
ファンサイトであつても、インターネットを利用して文章の公表をする以上「誰が讀んでも判るやうに」書くといふのは必定なのだ。「はてな」ではそれをコマゴマとしないで濟むのはキーワードによる內容補足があるからだ。
いかにもその通りであって、私も「はてな」ではないところで娘。関係の文章を書くときとここで娘。関係の文章を書くときとでは明確に説明の丁寧さを変えている。「はてな」を使わず娘。関係の文章を書いていたときには、どこまで説明が必要か、どこまで一般的な大衆文化として通用するか、その兼ね合いにはそれなりに神経を使ったものだ。「はてな」はそうした手間を省かせてくれる。一般人の理解しがたい「ヲタ」用語であればあるほど、キーワードによる補足は重要なのだ。実際ハロプロメンバーの顔文字のキーワードは私は非常に重宝している。いちいち覚えていないものが多数あるからだ。キーワードによる補足なしでは文意が理解しがたいサイトがモーヲタである私でさえ散見される。
マイナーな亊物をも流通させることができるのが電網の良點なのだといふことを忘れないはうがよい。
これまた当たり前のことながら、重要な指摘である。こんなことさえ改めて指摘されなければならないムラ社会*1の良識とやらにはうんざりする。
2006年02月07日
■ キーワード
キーワード論議にはもうあまり関わりたくはないのだが、非常に重要なことを書いている指摘を見つけたのでリンクを貼らせていただく。
キーワード論議に興味のある方は是非一読を。
■ 大変なこと
ゴマキ言うな!こと後藤真希さんが急性腸炎とか。
急性腸炎ってなんだ、と思ってちょっと調べてみたら、結局原因不明のよく分からない腹痛の多くはそのように名付けるとかそんな曖昧なものらしい。要するに「急性腸炎」という病名には情報量がほとんどなく、症状が重いか、軽いか、どの程度で直るものなのか、とかそんなこともこの病名からではなんの手がかりも得られない。
なっちこと安倍なつみさんがラジオでちょっとだけこのことを触れていたけれど、まあ人の病気のことをべらべらしゃべるわけもないが、それでも結構あっさりした感じだったので、ゆっくり休養すればそれほど心配することもないのだろうと思うことにする。とりあえずは主演ドラマ「指」を楽しみにしよう。
それよりも心配かも知れないのが、平家みちよさん。事務所の社長が夜逃げしたとかそんな話で、かなり大変な状況らしい。「結局は自分一人」だなんて哀しいことを言う。それでも前向きにすすんでいく、ということなので、皆さんよろしく(何をだ?)。