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2006年02月09日
■ ムラ社会
仕事の締め切りが迫っている(というかすでに遅れている)ので、あまりまとまったことはかけない。とりあえず先日書いた「ムラ社会」「モヒカン族」の問題について、いずれ近いうちにきちんと書きたいと思っている。この概念について知ったのはそれはべつとして...さんのサイトを読んで初めてだったのだが、しかし前々から同じようなことは思っていた。ネットという情報流通の場を支えて来たものたちとそれとは全く別の「常識」とやらを持ったものたちとの対立。
私が初めて「はてな」においてキーワード論争とやらに関わったとき、私は根本的に誤解していた。キーワードを削除しようなどという運動を起こしているものたちの動機を完全に誤認していた。情報の削除などというものを行うのは私にとっては二つの理由しかあり得ない。
- 情報を掲載されることにより、その情報の当事者が迷惑をするというケース
- 技術的理由により情報がこれ以上増えるとシステムが破綻するというケース
私が昨年の7月に関わったときに問題になっていたキーワードは1が問題になっているとは思われなかった。だから私は2の問題だと思いこんでいた。それならば優先順位付けを、そのキーワードに関わる場にいるものたちが付けなければならない。それで私はキーワードの選別に賛同したのだ。しかし私は無知だった。情報収集を怠った。システムサイドはキーワードの削除など必要としていなかった。まだ十分余裕があるし、もし将来余裕がなくなることがあってもシステムの増強で対応するつもりのようだった。そりゃそうだわな。それが「はてな」の売りだからだ。
私は己の常識(まさか上記二つ以外の理由でキーワードの削除など行うものがいるなど思いもしない)にかまけて情報収集を怠った。その点は今更ながら自己批判しよう。
それにしてもキーワード削除に熱心なものたちの「常識」のなさには改めてあきれる。一時は削除の理由として「リンクスコア」などというものを持ち出していた。「リンクスコア」の持つ意味、それをあえて低く設定するということの持ってきた意味を全く黙殺してキーワードの要不要に意味をすり替える。キーワードとその周辺の事柄が置かれてきた文脈を全く無視して、自分勝手に設定した「常識」とやらで物事を裁断する。「常識」が聞いてあきれる。
まずは「リンクスコア」をキーワードの要不要の問題にすり替えた議論をしたものたちは、「リンクスコア」が持つ意味、それがどのような議論を経てどのような意味を担ってきたのかをきちんとフォローし、その上で改めて己の見解を述べよ。キーワード編集に関わるのはその後だ。それもしないで、自分勝手な主張でキーワード編集に関わる資格などありはしないのだ。
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