重層的非決定?

« 「良識」が支配する社会 | メイン | 八つ当たり »

2006年02月21日

■ 「正しさ」を希求する言説

人は正しくありたい、と思うところをどこかしら持っているだろう。そしてその「正しさ」に確信が持てない場合、どこかに「正しさ」の根拠を見いだし、己の正当性を再認したい、そんな欲望を持っているのだろう。「正当性」それは確かに社会的存在としての人間の行動原理に深く刻まれている。

しかし自身の行為なり発言が正当なものであらんとする心性と、「正しいこと」を述べることでもって、自身の正当性を再認しようとする行為には大きな違いがあるように思う。「正しいこと」を主張している私は正しい、この「正しさ」の再認プロセスは自己準拠的なシステムを構築し、閉ざされた論理の中で肥大化してしまう。そしてそれとは別の「正しさ」の可能性を閉ざしてしまう。自身の信ずる「正しさ」に反する者は「悪」なのだ。そうした言説の行き着く先は「プチファシズム」だ。

民衆はどんな時代でも、敵に対する容赦のない攻撃を加えることの中に自分の正義の証明を見いだす。

「世間」というのはこの自己準拠的システムが見いだした「外部」なのであろう。私の正しさは世間の常識が支えてくれる。そこに私の正しさの根拠を置いている限り、私は自家撞着には陥っていない。

しかしそれは本当に「外部」なのだろうか。社会は多くの「正しさ」を抱え込んでいる。その中の一つを参照しただけで、それが今私が主張している事象において一番の優先順位を持っていると判断したのは私なのだ。私が主張している「正しさ」と同じものを社会が持っているからと言って、私の主張することが正しいことを保証してくれるものではない。そして「世間」とは、私が選択した優先順位付けを共有している者を「みんな」とすることによって造られた閉ざされた空間ではないのか。

私はここで価値相対主義を主張したいのではない。ただ「正しさ」を目的化することの危険性を言いたいだけだ。「正しいこと」はきっともっと曖昧な形でしか存在しておらず、個々の利害関係者の葛藤のプロセスの中に事後的に見いだされるものなのだ。喫煙問題でも、キーワード問題でも、己の利害を(おそらく善意に)隠蔽して「正しい」ことを語る者たちの言説を読むにつれ、そう思う。

投稿者 althusser : 2006年02月21日 00:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL: