重層的非決定?

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2004年12月07日

■ 「陽光」についてIV

いよいよ「陽光」を見ていくことにしよう。まずは、といいながら、手元にあるのは今はこのテキストともうひとつの「詩」だけなのだが、さしあたり序文として書かれた「マエ」なる文章を見てみよう。

人に会うのが怖かった

目を見て話す事 出来なかった

自信がなかった 光が見えてる様で

見えてなくて 不安で 仕方なくて(イツモ心でいっぱいHelpヘルプって)

でも 皆んなに 愛されたい気持ち

は沢山−いつもあった。。。。

「陽光」

もしこの調子で、この本全体の文章が書かれていたら、私は3ページで読むことをやめるだろう。いや、もしこの文章が安倍なつみが書いたものではなく、どこぞの学生なりが書いたものだとしたら、5行で読むのを止める。

私がこの本全体の、活字になっている部分はほぼ全て編集という名のゴーストが書いたと断じたのはこの理由による。安倍さんはおそらく「文章」は書けない人なのだと思う。一貫したストーリー、まとまった論理でもって物を書くことはおそらくできまい。

そこで安倍さんが選んだ言語表現手段とは「詩」である。なるほど、「詩」ならば「てにをは」すらまともに付けられなくとも、感性に言葉を当てはまるだけで何とかなる、だろうか。それが本質的に大いなる錯誤なのだ。

ありがちの、しかし私には特に実感のない例を出す。「デッサン力のないものは抽象画を描けない」。同じことだ。文章、最低限の作文、がまともに描けない人間は詩など書けないはずなのだ。

その前提を欠いて書かれた「詩」などは、単にその場その場の雰囲気だけで選ばれたありきたりの表現の、無作法な反復にしかならない。これは安倍なつみについてだけ言っているのではない。およそ10代から20代前半の書く「ポエム」なるものは大方この手合いだ。それは言葉の持つ「論理」と格闘することをただ逃げ、単に自分にとっての快不快のみで場当たり的に言葉を当てはめていき、何事かを創作した気になっているだけなのだ。

だから例えば安倍さんがおそらく自力で書いたであろう詩はこのような仕上がりになる。

こんなサミシイヒトノ

まっくろ。

あなたに想いを・・・・

あなた 思う−

幸せで

笑っててほしい。

ゆるやかな流れ

涙 流して

言葉にならない

ため息

言葉の使い方もばらばら(想い・思う)。漢字、カタカナ、ひらがなの使い分けの根拠も見えない。句読点の使い方にも一貫性がない。何より「世界」が見えてこない。書き手は誰か、「あなた」は誰か、それを読者に見せてくれるものが何もない。全く具体性を書いた世界にただ言葉だけが漂っている。

言葉にはリズムがない。途切れ途切れに言葉が並んでいるだけだ。その言葉一つ一つは何かしら抽象的かつ美しげで、要するに「ポエム」に反復されがちなもので、その選択にも、使い方にもオリジナリティがない。

このような「ポエム」の創作過程はおそらくこうだ。つらつらと既存の言葉を眺める。その中で、今の心情になんとなくはまる言葉を選び出す。後はその言葉に「合う」とそのとき思った言葉をつないでいく。

ここには表現の一切に関して「所有」という概念が浮上してこない。何よりもその前に「私」が存在しているようで、実は存在していないのだ。「私」はひとつの世界を構成する一貫した存在としての「主体」ではなく、ただただ場当たり的にその場その場に感性を生起させるだけの存在に過ぎない。そのような存在が何かを「所有」することは出来ない。

だからこの手の「ポエム」作者はおそらく原始共産制の論理の中にいるのだ。誰が作った言葉でもいい、今の私の気持ちに合うものであれば、それは私の気持ちの表現物だ。重要なのは今の私の気持ちを表現してくれそうな言葉がそこにあることであって、その出自は問われない。

だから「盗作」したとされる詩も、「盗作」という言葉の中に人がイメージする他人の物の「借り物」のような後ろめたさも、疎遠さもなかったであろう。安倍さんのそのときの文脈上の感性にぴったり嵌った、ただそれだけのことであり、後ろめたさどころか主観的には完全に「自分のもの」でしかなかったであろう。確かに盗作以外の作品と、言葉の疎遠さという点では全く同じレベルなのであって、しかも上手くすれば言葉の使い方がより巧みなのだから(その原因は考えない)、より感性にぴったり来るというのは当然のことだ。

このような詩の「創作」過程は、おそらく素人作詞家たちの間では普通になされていることだと思う。女子高校生同士が自分たちの創作ノートを見せ合う、などというのはほとんどこのレベルだろう。要するに安倍さんのやっていた「作詞」とはそのレベルから一歩も出ていないのであり、最初から「作品」などではないのだ。

安倍さんは「著作権」を勉強しなおして、反省してほしい、とファンが訴える。もちろん正しい。しかしそれだけでは彼女は創作上の「禁止」事項を事後的に知っただけだ。それを今まで知らなかったことはもちろん恥じ入るべきだが、しかしそれとてもその反省は外在的なものにとどまる。もしファンとして安倍さんの今後の成長につながる反省を求めるのであれば、それではたりない。問われるべきは彼女の創作に向かう精神そのものなのである。

投稿者 althusser : 2004年12月07日 00:00

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