重層的非決定?

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2004年12月05日

■ 「陽光」についてII

またわざわざなぜこんなことを書き始めたのか。それは多くのファンサイトなどでも言われている、「十分に反省して帰ってきてほしい」という主張が、それ自体もっともなものでありながら、現状安倍なつみに求めることが無理ではないかとの思いが強まったからだ。もちろん彼女は反省しようとしているだろう。でも結局のところその反省は上滑りのものにしかならないのではないか。胃の腑に落ちたものには今のままではならないだろう。

どういうことか。いささかよろしくない例を出す。シンナー中毒者が人を刺した。シンナー中毒から立ち直ったその人に人を刺したことへの反省を直ちに求めて意味があるか、ということだ。結果責任はもちろん問える。しかし内在的な反省は、まずはシンナー中毒に陥るところからしかなしえないだろう。

不謹慎な例であったと思う。ただ言いたいのは、結果責任がいかに重大であっても、真の反省はその人物のたどってきた論理を手繰るところからしかなしえない、ということだ。

例えば安倍なつみに「我はいかにして盗作者になりしか」なる文章を書かせたとしても、現状書くことは出来るまい。なぜなら彼女は「悪いこと」へ踏み出す瞬間を体験していないからだ。「このぐらいならいいだろう」という出来心のような瞬間さえ彼女には訪れなかったものと思う。

くどいが、だから彼女は悪くない、ということが言いたいのではない。彼女が反省に踏み出すにはもう一ステップ必要だし、現状そのステップに彼女が気づくことは難しい、ということが言いたいのだ。

その必要なステップとは何か。それを得る手がかりは「陽光」の中にある。「陽光」全体の作り、そしてその中の安倍の言葉から私の思う出発点を炙り出そう。

投稿者 althusser : 2004年12月05日 00:00

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