重層的非決定?

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2004年12月06日

■ 「陽光」についてIII

この問題を論じるには二つのレベルがあって、それを混同してはならない。

ひとつは、仮想的な裁判を想定した場合。もうひとつは表現者としての安倍なつみを批評する場合。この二つはきちんと分けて考える必要がある。

例えば「陽光」について、これは「安倍さん一人の責任とはいえないよなあ」というのは前者のレベルのはなしである。これはこれで重要で、その部分では私はほぼ全面的に安倍さんに同情する。それは多分安倍ヲタとしてではない。むしろ安倍ヲタであればこそ、後者のレベルで考えねばならないのであって、単に完全な傍観者としてみた場合、要するに表現者としての安倍なつみに何の関心も期待も持たない場合、私は前者のレベルだけで事態を総括するだろう。

実際、私は安倍ヲタといいながら、この件が起こるまである次元で、表現者安倍なつみにはほとんど敬意を表してこなかった。「陽光」をいまさらながら買いに走った、というのは買い忘れていたとかそういうことではない。この手の、言語の使い手としての安倍なつみには、正直何の関心もなかったのだ。安倍なつみが詩を書く、それが趣味というのにも、私は「冷笑」的でさえあった。私は、某ファンサイトに安倍なつみが書き込んだ文章を見ている。また、まさに著作権侵害の結果として、安倍なつみが書いたという本の文章も見ている。そこからして、「なっちが詩?そらあかんわ」、としか思っていなかった。

そうした視点から見たとき、今度の一件は出版社サイドの手落ちしか感じない。はっきり言って無能すぎる。

盗作に気づかなかった。それを、おそらくまともに仕事をしたこともないだろうネットヒッキーどもは当然だとのたまう。何千何万とある詩一つ一つを読めるわけがないから、盗作に気づかないのは当たり前だ。

気づきますよ。「プロ」ならね。オリジナルの詩を知らなくても分かる。全く氏素性知らない人間が持ってきた原稿なら、それは分からないかもしれない。しかし自分がある程度知っている、情報を持っている相手が持ってきた原稿なら、その人物の能力の限界ぐらい見積もりがつく。それから外れる語彙、表現があれば、「おや?」とは思う。そう思えば後はネットででも検索掛け捲れば小一時間もあれば大概は「割れる」。

後できちんと書くが、「マエ」(前書き)の安倍さん自筆の文章を読めば、安倍さんの文章力なんぞ簡単に見積もれる。それが上限どのぐらいの詩がかけるか、それぐらいの「鼻」も聞かない人間がこの本の編集をしていたのかと思うとその無能振りには正直呆れる。というか、その関係者、今頃恥ずかしくて仕方がないだろう。

実際、安倍さんの主観の世界においても、実際の作業の仕方においても、安倍さんは本の内容に関する責任を負う気もなければ、負う立場でもなかっただろう。「まあ、気楽にのびのび普段の安倍を出せばいいから」とか何とかいわれて、プライベート写真やら、詩の真似事やらを書いたノートやらをぶちまけたら、後はうまくやってくれる、安倍さんはそうとしか思っていなかったのではないか。そしてたぶん大方のタレント本なんてそういうものなのだ。惜しむらくは編集責任者に無能者が混じっていたことだが、そんなものの責任を「私」が負わされることはないだろう。

しかしそれは考えが甘かったのですよ、安倍さん。周りがどういったかは分からないけれど、「著者」として名前が載るということは写真集の被写体とか、音楽CDの歌い手とは全く意味が違っているのですよ。それが「言葉」でものを表現する怖さというものだ。その怖さを分かっていないのはもちろん安倍さんだけでなく、例えばネットで、知り合いだけに知らせているパスワード規制もかけずに適当なことを書きなぐっている「ネット言説生産者」ども(私を含む)もそうだ。ただ安倍さんがそういった有象無象のものたちよりちょっとだけ注目度が高かったというだけのことだ。しかしそれはそれ、結果的にであれ、あなたはとても厄介な書類にわけもわからず署名捺印をしてしまったのと同じ責任を負うことになる。それを「部外者」としての私は冷笑半ばで同情する。

事務所は二度と「創作的な活動」をさせない、といったが、その創作的な活動とやらが言葉をものす活動という意味なら、禁止されなくても安倍さんがまじめに考えれば、当分怖くて出来るはずもないのだ。

投稿者 althusser : 2004年12月06日 00:00

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