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2005年08月29日
■ 「社会学」化する2ch社会
2ch脳チェックリストというものがちまたで話題になっているようで、まあおもしろいのだけれど、精神構造を具体的な現象のリストで理解しようとするあたり、レーニンの「帝国主義」の概念規定レベルだな、とか思ったり。まあ、レーニンも偉大なんだけどさ。というか、誰もそんなレベルで評価しているわけではないか。
やはりマルキストとしては現象からではなく、個々の諸現象に内在する構造のレベルでとらえなくてはならない。
というわけで2ch的言説が生産される精神構造というものをずっと考え続けている。すでに論点・キーワードは数多く出ている。シニシズム・ニヒリズムとナショナリズムの結合、そしてそれを加速化させる2chにおける批評家的差異化(卓越化)戦略。
まさに2chにおける差異化戦略はシニシズムに彩られたものである。「わたしは・・・である」のではなく「・・・ではない」という(立場表明)が戦略的に採択される。読売新聞・産経新聞が好きなのではなく、朝日新聞が嫌いなのであり、自民党がよいのではなく、民主党が駄目で、社民党など最悪なのだ。この戦略は政治的な場面だけではない。モーニング娘。関連の掲示板においては、一部の「ファンスレ」をのぞいては誰ヲタであるかは極力秘するのが「正しい」。ある人間の発言を無効化する最大の武器は「おまえ、・・・ヲタだろう」である。価値を肯定するのではなく、否定することが戦略上有効なのだ。
特定の価値観を背負い、特定の立場に立って発言するものは、守るべきものを秘する「名無し」の群れからは格好の攻撃対象となる。こうした2chの言説構造と、特定の立場を守ろうとするものを、それがどんな立場であれ、「既得権者」として攻撃する現在の政治状況と見事に調和してしまうのだ。
こうした価値相対主義的・陰謀暴露型の言説構造は、「社会学」という学問ディシプリンにも内在している。社会学者は「心理学化する社会」とか言うキーワードで社会批評を行うが、今は「社会学化する社会」と言うべきなのかも知れない。
「奴ら」は既得権を持っている。その強迫観念は表明されざる己の立場の防御へと向かわせる。己の立場を明確にすれば、己が行う攻撃と同様の攻撃を招くだけだから、それらは明確に意識化・言語化されず、従って論理的な反省を経ず、ただ無限定な感情として社会的精神構造の中を跋扈する。
だから今の「ナショナリズム」とは己とは本質的に疎遠な、たとえば「天皇」と言った観念的な存在には基本的にその根拠をおいてはいない。あるのはひたすら「私」のみであり、「私」が心地よい限りにおいてのみ「天皇」にも敬意が表されるのみである。
■ 口だけファシズム
朝日新聞夕刊のコラムより。
・・・これまでの批判への反動もあって、「ヒトラーは悪いことばかりしたわけではない」という視点さえもが発言力を持つようになったのである。・・・言論弾圧や反対派への暴力というイメージで思い描かれてきたヒトラー・ドイツの日常は、自発性を発揮しながら主体的に生きる生活の場だったのだ。これはまぎれもない事実である。
だが、日々の生活に充実を見いだしていたとき、国民は、すぐ近くの強制収容所をも、着々と進む戦争の準備をも、見ようとしなかった。抹殺されていく生命よりも平和よりも、信念ある指導者が与えてくれる生き甲斐の方が、彼らには大切だったのだ。
「心の風景」池田浩士
己の実感を欠いた欺瞞であれ、絶対に守られなければならない価値というものがある。価値相対主義者の陥る一つの帰結としての「実感」・「本音」への崇拝が蔓延する今の日本の言説状況において何とも示唆的な話ではないか。「戦前への回帰」よりもむしろここで描かれている状況の方に警戒感を持つ。もちろんナチスドイツのファシズムが今の日本に再現するなどとは思っていない。ただ「口先のソフトなファシズム」と呼ぶべき状況は芽生えているし、口先で強制収容所を作ることは出来ないが、口先で人の精神を葬ることは出来るのである。
■ 私は・・・ヲタです。
なっちの「現状」を思うと胸が痛かったり、愛ちゃんとの握手の感覚が、たぶん記憶の捏造なのだが、未だ掌に残っていたり、「義経」に出る真希ちゃんがとても愛おしく思ったり、「こちら本池上署」の加護ちゃんが可愛すぎたまらなかったり、そういうことをきちんと表現することの方が、もっともらしい評論家的姿勢でものを語ることよりずっと価値があるはずなのだ。もちろんそんなこと改めて言うことでもないのだけれど。
私は2chのモーニング娘。掲示板(通称「狼」)やら、ニュース速報板やらの言説状況には絶望しつつも、社会に絶望していないのは、握手会会場にせよ、モーヲタ系ブログ(ブログ一般ではないことに注意)にせよ、何らかの形で己の「顔」をさらしてものを言ったり行動したりする人たちに絶望感を覚えることが全くないからだ。
■ 病原体
個人的な仕事の愚痴。
私は自分以外の「他者」を「馬鹿」だと思う気質は確かにあって、今日もそういう思いをしてきたのだけれど、考えてみれば当たり前の話だが、私以外の人もそういう風に考えている人はいるものだ。
「お、あなたも私と同類ですか。本当に困ったもんですなあ、がはは」となればよいのだが(よいのか?)、そうはいかない。他者を「馬鹿」だと思うプロセスが違うのだ。
私はたとえば目の前にいる人間の具体的な発言だとか行動だとか、ネットやほかのメディアを介しても、そこから伝わる具体的な発言を聞いたり読んだりして「馬鹿」を判定する。逆に読まれているかも知れないが、実はたとえば「若者一般」を馬鹿だとは思ってはいない。現在の言説状況に憂慮するところはあるが、そして一定の言説を生産する主体を「馬鹿」とラベリングはするが、特定の世代、いわゆる「若者」と呼ばれる世代に属する人間一般に関しては、現状はどうあれ、潜在的な能力や感性には究極的には絶対的に肯定的な思いを持っている。
だから逆にたとえば大学生一般を馬鹿と見積もり、それを前提に話を進めるやつとはどうにも共感が出来ない。結局そういうやつがやろうとしていることは、相手を低く見積もることで己の仕事の質を下げる言い訳を手にしようとしているだけなのだ。
そういうやつが「評論家」をしているぶんには一行かまわないが、教育産業に関わられると、「おまえは己の馬鹿を伝染する気か」と一括してやりたくなる。
2005年08月27日
■ 握手会
2日に1日も仕事という仕事漬けで終わろうとする八月。せめて夏の思い出となるか、モーニング娘。握手会に参加。大阪豊中市民会館10時開始のBチーム、高橋愛、小川麻琴、田中れいなのチーム。
開演後、延々とビデオを流すのは仕方がない。メンバーの日程がかなり詰まっているので、こういうので時間稼ぎをしないと難しいのだろう。ビデオが終わってようやくメンバー登場。新曲「色っぽい、じれったい」にちなんで「色っぽい」に関するトーク。5分足らずで終了。すぐに握手開始のアナウンス。
もう握手なんてやめて、ずっとトークしてくれたらよかったのに、と思う。ビデオと5分のトークと一瞬の握手だったら、1時間ぐらいトークを聞いている方がよほどお得な気がする。ついでにこのメンバーで何か歌披露でもしてくれれば最高だ。でも握手会は握手会。
肝心の握手自体はほとんど記憶にない。記憶が飛んだ、というよりそもそも時間が短すぎて、記憶に定着を図る暇もない。とりあえずかろうじて覚えている印象。
高橋愛。想像していたとおりに小柄なのだが、それ以上に顔が小さいので、「小柄な女の子」という印象とは少し違う。髪の毛の色がかなり茶色で、可愛い系というよりはきれい系で、普段テレビなどで見る印象よりも大人びた印象を持つ。目がなんだかとてつもなく澄んでいて、「吸い込まれそう」という表現がぴったりくる。モーニング娘。の初期のコンセプトにはあったはずの、「クラスにいそうな」感じでは全くない。「ふつうっぽいけれどよく見るときれい」というのではなくて、「普段見ている一般人とは全く別の生命体なんだけれど、よく見るときれい」という。
小川麻琴。ほぼテレビ通りの印象。想像していたよりもさらに顔が大きく感じたというのは失礼か。もちろんその原因は隣にいた高橋の責任である。目はぱっちり大きくて、目線もしっかりしていて、なにやら射抜かれそうになる。
田中れいな。ほぼ記憶なし。だんだんと時間がなくなるわ、こちらの印象に関する記憶の容量がなくなるわで、握手したのかどうかさえ記憶が曖昧。めちゃめちゃ可愛いと感じた気がするが、記憶が映像となって戻ってこない。
一応「とてもすばらしい時間だった」とまとめておこう。後でこの記事を読み返したとき、そのようなものとして記憶は捏造されるだろう。
■ 疎外からの回復
変に忙しく、かつ体調が悪い。
8月は13日間も仕事に出て、おまけにそれ関係の作業を自宅で大量にしなければならない。なにやら作業をしていると、何かを生産している気にはなるが、その成果物はすべて私にとって疎遠なものでしかない。まさに初期マルクスの「疎外」概念を地でいく話だ。全く達成感とか充実感などということを得るものもなく、といって機械作業、流れ作業でこなせるものでもなく、時間や肉体だけならまだしも、頭・精神をつぎ込んでこのむなしさ、何をやっているのだと思う。
そのフラストレーション解消の一環か、モーニング娘。の曲集めに精を出す。一旦集め出すと足りないものをなくそうと躍起になる。事務所には全然還元できていないな、と思いつつ、中古屋巡りをして、娘。名義の曲ほぼすべてを網羅する。ささやかな達成感を得る。
私は何をやっているのだ。
2005年08月17日
■ はい、あくしゅ
モーニング娘。東名阪握手サーキット、大阪B班に当選してしまいました。高橋愛ちゃん、小川麻琴ちゃん、田中れいなちゃんの組です。
いつぞやからハロメンとの握手履歴なんてものを麗々しく掲げる記述がブログでたくさん見られ、「けっ」と思っていましたが、一気に3人と握手。いや、もうどうしようかと。
といっても、ハロメンとの握手は初めてではないのですがね。ということで調子に乗って私も握手履歴を掲げよう。
前田有紀 (1)
いやはや、神々しい。サイン色紙は直々にもらえるし、時間は余裕あるし、そりゃもうおそらく人間扱いされないであろう来る握手会とは比較にならない楽園でした。
でもそれはそれとして、初生愛ちゃんを一瞬でも間近で見られるのは楽しみ。愛ちゃんから「はい、あくしゅ」なんて言われてみたい、などと妄想で一週間を過ごそう。
■ 合コン
なっちふれあいコンサート終了。私は行かず、ひたすらネットで様子を知るのみでしたが、ネットの報告を読むとなにやらとても胸が熱くなる。いつも暑いものがこみ上げるのは保田圭ちゃんに関するレポートを読んだときだ。
保田さんだって元モーニング娘。で加入時には「ミラクル圭ちゃん」と呼ばれたトップアイドルなのに、しっかりなっちを支える裏方に徹してくれている。抽選で握手会があるのだが、そのときもヲタがなっちの方にふらふら行かないようにしっかりガード役を担っているという。ふつうあり得ないでしょ?そうした役割を平然と、レポートによるとともすれば嬉々として担ってくれる圭ちゃん、なちヲタとしていくら感謝してもしたりないぐらいだ。
次一緒にやるときには是非圭ちゃん&なっち合同コンサートにしてほしい。大概の合同コンは話を聞くからにうんざりする気がするが、これだけは断然支持。
■ 非国民宣言
扶桑社の教科書の市販本とやらを立ち読みしてきたが、当たり前のことではあるが、たいしたことはなかった。問題なのは教科書それ自体というよりももっと社会を覆うイデオロギー・言説の方だ。実際、私は扶桑社の教科書なんか真っ青の日本軍万歳の子ども向き戦記物を小学校の時に読み漁ったが、勢いで「お話太平洋戦争」とかいう共産党よりの本を読んだら、価値観はすっかりそっちに負けてしまった。もちろん愉快なのは前者の方だ。ミッドウェー海戦、本来あった(ともの語りが語る)チャンスを惜しみ、日本海軍の技術力とやらを賞賛し、「日本人」の優秀さを誇りつつ、取って付けたように「平和」を謳うこの手の本は読んでいて結構愉快だ。「敵軍」とりわけ中国軍なんてアメリカのウェスタン映画における「インディアン」・日本のヒーローものの雑魚キャラのような、顔のない存在として、優秀なる日本の最新兵器(たとえば零戦)の餌食となっていく。もちろん零戦の搭乗員には顔がある。半端なヒーローものなんて目じゃない。
そして最後には、「本来勝てた」ミッドウェー海戦の敗戦よりことごとくなす手が裏目に出て、敗北していく過程も、まさに源義経のごとくで判官贔屓的心情をくすぐる。そして悲壮な覚悟での特攻戦、神風特別攻撃隊、戦艦大和の突撃、そして司令官自身の自爆攻撃、小泉がどこに涙したか知らないが、いずれにせよいちいちよくできている。
しかしわたしは、平安鎌倉時代の話ならともかく、近現代において、そのような「私」が語り手の位置にいる物語には結局のところ納得しなかったのだと思う。「お話太平洋戦争」も同じくとてもよくできた話で、こちらにはしかし「私」を容易に重ねられる登場人物が出てくる。沖縄戦で軍部に言われるままに竹槍を持って米軍に突撃する小学生。特攻隊員に指名され、何とか断ろうと決意しながら結局ずるずる断り切れずに攻撃に参加することになり、最後の飯を惜しみながら食べて、結局米気に打ち落とされて命長らえた体験者の話。体質的に「へたれ」で「非国民」の私にはこちらの物語の方の己を容易に重ねられた。
櫻井よしこは、日本の近代の歩みは今から振り返れば間違っていると言う。ただ当時の価値観からそれを断罪することは出来ない、と。そうであればこそ問いはこうたてられなければならない。当時の価値観において何ら間違っていなかった選択は、なぜかくも悲惨な結末を迎えたのか。そしてそこから今、私たちが未来に向かっていかなる選択をする教訓を得るべきなのか、と。
当時の言説が、イデオロギーが今の価値観からして明確な過ちをもたらしたのであれば、そのイデオロギーからは徹底的に離脱しなければならない。過てる選択を必然のものとした時代状況からは決別しなければならない。「へたれ」で「非国民」な「私」が生きづらい社会にはしてはならない。
2005年08月15日
■ 愛(国)ごころ
教科書問題について。
上の番組中でいわゆる竹島問題に関するビデオを流した後で、パネラーの韓国人から「竹島という日本名だけではなく、独島という韓国名も併記すべきではないか」という指摘に対して、同じくパネラーの櫻井よしこが「韓国の教科書には独島と竹島という名前は併記していないでしょう」とすかさずやりかえした。
そして扶桑社の教科書に関する討論中に、中国・韓国の教科書*だって*偏っている、つまり歴史認識とは双方の立場を反映したものであって、双方の歴史観、文化は相互に尊重されるべきだ、という趣旨のことも言っていたように思う(ビデオ録画しなかったので正確なところは確認できない)。
なるほど。日本は韓国や中国並みに自国のパースペクティブを全面的に尊重した教科書を使うのが対等だ、ということなのか。志の低いやつだな。
私は愛国主義者なので、そんな「世間並み」の教科書では誇りを持てない。不勉強故、中国・韓国の教科書の実態を私は知らないのでその評価は留保する。しかし我が日本国の教科書はそれこそ櫻井が韓国・中国の教科書をそう印象づけたがっているようなナショナリズムに彩られた単線的なものの見方のみを提示するものでは、事実としてなかった、ということ、それをこそもっと私たちは誇りに思っていい。実際番組中で社会科の教師が山川出版の教科書の一部を読み上げたとき、パネラーの韓国・中国・その他アジア諸国の人たちの中には「ほう」とちょっと感心したような表情を見せた人もいた。結構日本の教科書の執筆者たちはがんばっているのだ。
確かに私たちは近代史を勉強する機械あまりに少なく、せっかくの教科書執筆者たちの努力をほとんど無にしてきた。特に最近の10代、20代の「若者」どもは勉強しないから(などと書くととっても説教くさくてすてき)、恐ろしいほどものを知らない。いや、これは2chなどに救うプチウヨとか称する「馬鹿者」どものことを言っているのではない。もっと政治的にナイーブかつイノセントな一般的な「若者」のことを言っている。たとえば「5月1日を休みにしてゴールデンウィークを連休にするために憲法の改正が必要らしくてえ」などと憲法問題を語ったりするたぐいのとてもナイーブでイノセントな若者のことだ。それはまさに教育問題として、教育のあり方、質を問う問題として厳然とあるが、しかし最初にやり玉に挙げられがちな教科書は、一概に「戦犯」呼ばわりされる質のものでもないのである。
「若者」が「馬鹿者」になる推移についての考察はまた別に考える問題として残すが(キーワードはナイーブとイノセント)、歴史教科書に限定して言えば、これまで使われてきた日本の歴史教科書はもっと誇りに思ってよい。現実の日本人の多くの歴史認識とは少し切り離して、日本の中学高校生が本来学ぶ礎となる教科書はこれなのだと韓国・中国の一般人に見せれば、かれらはかれらなりに感じるものはきっとある。それは日本は正しいことをアジアにしてやったのなどと強弁するよりもよほど日本を誇ることである。
■ 欺瞞の効用
NHKの討論番組をちらちら見る。元々あまり討論番組は好きではないので、それほどしっかり見ようという気はないが、それでも田原総一郎という二元論的志向しかできない司会者が仕切る「朝まで生テレビ」とか言う番組よりはよほど見るに値する番組だと思った。
「今の政治はわかりにくい」だとかもっともらしいことを言って、わかりやすさとか言って己の知能程度に視聴者を貶め、物事を単純化していたずらに対立をあおり、よりわかりやすい、すなわち単純な主張こそ善であるというイデオロギーに彩られた「朝まで生テレビ」の「罪」は今は置くとして、NHKは対立点は対立点として留保しつつ、そのおのおのの主張の言わんとするところをテレビなりに掘り下げようという努力は感じられた。もちろん視聴者向けアンケートの問いの建て方、日本と中国いずれが歩み寄るべきか、などというものには批判の余地はいくらでもある。それでも双方の主張の、表面的な対立点をあおるのではなしに、双方の思いの中の共通点を、いわばユートピアへ向かわんとする蠢きのようなものを何とか引き出さんとする可能性を見せようとする方向性が感じられた。それは、特に「頭のよい」人たちからすれば欺瞞的なものかもしれない。もとより「公共放送」としてのNHKは制度としてそのような欺瞞を反復するしかなく、それはNHKの限界であるというべきかも知れない。しかしわたしはあえて、その制度的な欺瞞が生み出した「留保→掘り下げ→ユートピア」という道筋を尊重しようと思う。少なくとも善か悪かの二元論にとらわれ、世の中の主張は二者択一であり、それこそが人が判断すべき「選択肢」であるなどというデマゴギーにたいして、制度としての欺瞞は一時停止を呼びかけてくれるのだ。
2005年08月14日
■ 追加
結局正しさなんてものはコンテキストに依存するというのは当然なのだから、社会・歴史について何かを論じるときには己が今立っているコンテキストが何なのかを明らかにした上で、それに即して価値判断をするよりない。一般論で歴史認識について語ったところで、何も語れるはずはないし、またそのことをことさらに指摘するだけでも何も語ったことにはならない。単にある特定の立場から語らんとするものの発言を揶揄し、無効化する効果をもたらすのみである。
少なくとも私たちは日本という国に住まい、主権を行使する立場にあるのであれば、その日本という国がおかれた文脈にこそ問題の焦点を据えて語るべきであって、「韓国の歴史認識だって」などという「友達の誰それ君だって」と同レベルの小学生的戯れ言で煙に巻くべきではないのだ。
■ 相対主義者
ちょっと「頭のいい」やつは相対主義で物事を語れば何か言った気にはなれる。おのおのの国にはそれぞれの歴史観がある、とか言って「普遍的な価値」とやらを批判していれば、それですべてはイーブン、すべては免罪化される。
教科書問題とか戦争責任問題とか靖国問題とか、全部それで相対化してしまえば問題は何もナッシング。日本も悪いが韓国も悪い。あ〜、世の中楽だな。
2005年08月11日
■ 残暑見舞い
郵政民営化に反対する奴らめ、思い知ったか!!!
既得権にしがみつく奴らのせいでこのままでは日本は駄目になる。そんな守旧派の奴らを追い出して、日本を立て直さなければならない。それこそが日本を救う唯一の道なのだ。このような大事な選挙をまさか棄権するなんてやつはいないだろうな。造反組を当選させた選挙区の奴らは非国民だ。
対韓国、中国に対する姿勢といい、小泉こそは日本の救世主、ヒーローだ。モーヲタも小池百合子さんが守旧派のやつと戦うから、全力で支援しよう。そうだ、エコモニ。のよしみで娘。も応援演説すればいい。
ついでにへたれ民主党なんてこの機会につぶれればいい。西村慎吾のおっさんだけは何とか自民に戻ってきてくれないかな。夫婦別姓論者の野田聖子は非公認、売国奴野中はいなくなったし、いよいよ全力で自民党を応援できるぜ。
さあ、みんなでこの機会に選挙に行って日本を少しでもよくしていこうぜ!!!
フラストレーション解消の一助になれば。
2005年08月10日
■ 10年間の冬眠
安倍なつみさん、誕生日おめでとうございます。
これで約二週間の間は同い年ですね。二週間後には私の方が一つ年上になっちゃうけれど。
■ 猿の精神構造
未だに2chの「実況板」で安倍さんが登場すると猿声を上げるアホと、ことあるごとに嫌韓、反中感情をわめく馬鹿とが重なり合って見えて仕方がない。政治的な立場とかそういうものとは無関係に、何かに執着して自身の心の貧しさを外に反映させざるを得ない卑しさ、何かを叩くことで自分のそうした卑しさが癒されたかのように感じる麻薬中毒患者的振る舞い、もちろん実際には癒されるどころかどんどん卑しくなり、そうした振る舞いを反復し続けることになる。
安倍ヲタとして、私は安倍さんに執着する連中に嫌悪し、逆に執着するが、しかし本来それこそ「言説」なのだと、現代日本の症候を示した典型的な言説なのだと認識するべきだ。少なくとも私は安倍さんに対するがごとくには韓国ヲタ、中国ヲタでは特にないから、こっちの方の猿どもを「猿」と言いながら、しかし実際には嫌悪してはいない。ただその言説の構造を冷徹に解き明かしたいという好奇心をかき立てられるのみだ。
■ 注意
はてなシステム上、結構いろいろなところからアクセスがあるわけですが、本サイトは元々非常に政治的に偏ったサイトとして成立しています。というわけで、ハロプロ関係の読者は[nacci]カテゴリーだけを読むことをおすすめします。
といっても、サイト名はたとえばアイドルと政治思想を等価に語る、そして安倍なつみでアルチュセールを語るという理念を表したものではあるのですが。
2005年08月09日
■ ナガサキ
今日は長崎原爆記念日。
仕事後、NHKスペシャルをみる。「赤い背中」。
何とか己の肉体をさらしても、原爆の罪を訴え続けようとする男性の話。こうした被爆者の体験談というものも年を重ねるごとにその意味合いは否応なく変化する。先日言及したアメリカの科学者はいった。「今まで生きて来られてけっこうじゃないか」。
ひどい言葉だ、と切って捨てるのは簡単だ。しかしたとえば小学生に被爆体験を話すとき、それと似た意味合いを意味合いを持たれかねないこともまた確かである。私が小学生の頃(25年ぐらい前)には、被爆者の語りの中の「未だに常に死と隣り合わせ」であるという言葉には十分な切迫感があった。しかし今となっては小学生が件の科学者と似た感想を心の底で持ったとしても、それは責められない。
しかし切実さの意味合いが変わっただけなのだ。「赤い背中」に出てきた男性は語る。「自分が死ぬまでに何とか一人でも多くの人にこの現実を伝えたい」。寿命がそれほど残っていないかもしれないこと、それが「やむなきこと」ととらえられる年齢になったこと、そうした状況での切実さは、これまた代え難きものである。被爆体験を後世に伝えられるものがどんどん亡くなっていく。そして多くのアメリカ人は原爆の被害の事実に目を背けつづける。そうした中で日本でも被爆体験というものの語りの場がどんどん失われていく。死んでも死にきれぬ、その思い、察するにはあまりに重すぎる。
■ 感謝のついでに
仕事で東京の研修所に缶詰。
せっかく関東圏にいるのに、保田圭・安倍なつみが参加したというフォークソングイベントには顔を出しようもない。前々から安倍さんには好意的なHey^3のプロデューサーである菊池さんが仕切っているとあって、かなりよいイベントだったらしい。何より安倍ヲタ伝説の曲、ブルーハーツのチェインギャングが披露されたとあっては無念もいっそうつのる。
しかし私個人の無念はそれとして、そのようなイベントに招待され、多くのヲタならぬ一般人の声援の元、安倍さん本人とファンにとって代え難き思い出の曲を披露する機会をもてたことを、ネットで情報を聞いただけの他人事とは思えないほどうれしく、ありがたく思った。
菊池さんほか、見学者も含め本イベントに関わった人一人一人に、私のような部外者が言うのも何だが、次の安倍さんの新曲を購入してもらいたいぐらいだ。
2005年08月06日
■ インターネットという妖怪
感情とか記憶というものは特定の場において生じるものであり、それを第三者が外から丸ごと肯定したり、逆に否定したりすることはできない。第三者はその「場」を社会的、歴史的文脈によってとらえ直すことも出来れば、自らは追認できないその「場」を神聖化することも出来る。そしてこの二つの立場が、論理と感情の対立となって表象される。
専門家は論理を重んじるが(最近そうでもない「専門家」もいるが)、生活者は感情を重んじる。インターネットの広まりにより生活者の発言が主流言説を形成するようになる。感情を*後から*理論武装すれば、とても生活者にとってしっくりくる、心地よい主張ができあがる。感情から出発しているから、どの論理を受け入れるかも結局は感情が決める。結論は論理の前にある。
今の思想状況は、それ自体は絶対的に肯定されるべきメディアの進化のもたらした必然的帰結である。社会科学は未だにこのインターネットというメディアの怪物の前に佇むのみである。
■ 社会思想の貧困
昨日の話の続き。
原爆投下の責任について問われた科学者はこうも言った。
「リメンバー、パールハーバーだ」
これまたおかしな話だ。真珠湾奇襲攻撃の責任は東京裁判で問われたはず。真珠湾奇襲攻撃が世界平和のために正しかった、などと公に言うものは誰もいない。もしヒロシマ原爆投下が真珠湾奇襲攻撃と見合いなのであれば、原爆投下の責任も問われなければならない。
結局のところ、感情のやりとりを解きほぐし、整理するのは論理の力なのだが、その論理の力が完全に消し去られている空間というものがあるもので、その下ではいかんともしがたい。逆に言えば、そうした空間をすくなくとも公的な言説の場からは消し去らなくては社会というものは亀裂を生じるほかない。しかしたとえば一国の総理大臣や大統領と称される人物が感情丸出しの発言を垂れ流し続ける状況ではどうにもならない。もちろんそうした人物が選出されてしまうという精神の貧困さがどうにもならないことなのだ。
だからといって、「個人のエゴ」がどうの、「最近の子ども」がどうの、などとくだらないことを言いたいのではない。個人の精神の貧困が問題なのではない。あくまでも問題なのは社会思想の貧困さである。
2005年08月05日
■ 物自体
モーニング娘。新曲「色っぽい じれったい」、先週に入手済み。勢いで握手会にも申し込み。といっても当選したいという意志弱く、複数枚購入することはしなかった。当たれば当たったで後悔しそう、しかしみすみす抽選の権利を行使しないのも後悔しそう、それなら権利を行使しして、公正なる抽選ではずれるのが一番精神衛生上よかろう。我ながらひねこびた選択をしたものだ。
本日、後浦なつみコンサートDVDおよび「色っぽい じれったい」DVDを購入。阪急梅田3番街ディスクピアにて。
ハロプロ関連のDVD販売コーナーにもうけられたモニタに流れていた映像は後藤真希さん。最初は後浦なつみDVDの映像かと思ったが、ずっと後藤さんだった。おいおい、コーナーにおいていないDVDの映像を流すなよ、と心の中で突っ込む。その後藤さんの映像があまりに眩しくて、最初後浦なつみDVDにこんなすばらしい映像が入っているのか、と喜び、そうでないとわかったときの落胆よ。後藤さんソロコンサートのDVDを探しては見たが、いつのコンサートの映像なのかがわからない。そもそも一日に3枚もDVD買っていつ見るのか、という話だ。とりあえず後浦なつみのDVDの後藤さんを鑑賞して我慢するのだ。
(後藤さんソロ部分鑑賞中)。
近々買いに行こう。
■ 恋の花
関西圏のテレビにハロプロ関連の出演多数。しかしそのときに限ってこっちは東京出張。事前に情報を得ておらず、録画もしていない。というので安倍なつみさん、新曲紹介を含む放送をみすみす見過ごす。ごにょごにょして一部のみ視聴。
こういう曲もバリエーションの一つとしてあってもいい。こういうのばかりだと少し飽きるかもしれないが、今まで安倍さん(というかはロプロ)にはない、言われているように島谷ひとみさんあたりが歌っていそうな曲。考えてみれば、今まで安倍さんの曲はマンネリ化せずにつねに「新境地」を開き続けてきた気がする。よきことかな。
ついでに後浦なつみDVDの安倍さんソロ部分も視聴。安倍さんは物自体ではなく、大きな物語に支えられている人だ、ということを再認。基本的に私はこっちの人ですよ。
■ エース
関西圏ハロプロ特集の最後を閉めたのは「本体」モーニング娘。より高橋愛、小川麻琴、田中れいなの三人。
クイズ場面では、関西芸人もとい歌手の円広志の「仕込み」に易々と答えて笑いをとる我らが愛ちゃん。「かわいい顔して何いってんねん」。頼もしきかな。
番組一コーナー、金魚すくい対決。金魚すくい名人という人が出てきて、高橋さん、円さんと一分間に何匹すくえるか、という対決。
名人と円さんが快調に金魚をすくっていく中で、高橋さん、水面に浮いている弱った金魚をこつこつすくっていく。おまけに最初入れ物に水を入れずに金魚を入れていくものだから、愛ちゃん「かわいそ、かわいそ」。だから水を入れなさいって。
「弱っているものをねらえ」というのは確かに一つのセオリーかもしれない。しかしほかの二人分の「成果」が17匹とかの元気な金魚だったのに対して、高橋さんの「成果」として見るからに死にそうな金魚が五匹、ひれをけいれんさせているのが映ったのを見ると愛ちゃんファンでもちょっと引く。円さんからも「おまえ、馬鹿か」と突っ込まれていた。
うん、さすがに我らがエース、圧倒的だ。
■ 地割れ
明日8月6日はヒロシマ原爆記念日。
小学校の頃は夏休みの折り返し点、登校日とともに「平和教育」を受けたものだった。それ自体の評価はさておき、すっかりそのような文化から離れていたが、久々TBSで「戦後60年特別企画」と称して、原爆関連番組を見る。
原爆開発に携わり、原爆投下を見届けた科学者が被爆者と面会する。
被爆者は、原爆開発に対する悔恨の言葉を科学者に求める。子どもや一般市民があまりに無惨にたくさん死んでいった、そのような結果をもたらしたことに対する謝罪はないのか。科学者は答える。
「戦争では皆に責任がある」。
ふむ。しかしそれはあまりに一般論であって、その責任が大量破壊兵器による虐殺に相当するか否かは別問題だ。そもそも国際法を読め。それでおしまい。
つまり科学者の言ったことは詭弁にもなっていない。しかしそのような強弁を反復するしかないのだ。そこを譲れば、己を支えてきた世界が崩壊する、そういう部分がきっと誰にでもあるのだ。
それを言い争ってもどうにもならない。双方が傷つき、痛ましい思いをするだけだ。話してもわからないこともある。そうした社会の亀裂、傷を診断し、少しずつでも癒すことが社会科学の役割だと信じてきた。
「頭」だけでは社会科学は出来ぬ。枯れ果てた「思い」に少しだけ雨が降る。すぐに干からびるだろうけれど。
■ 何を守るのか
上のことにも少し関係するのだが、一般的に言って当事者というものは譲れないものを持っているものだ。むしろ逆にそれこそが当事者の定義だと言ってもよいぐらいだ。
しかしそうはいっても、同じ当事者の間にも余力の差はある。まず持って己自身を守ろうとするのは、何にせよ余裕のない状態であって、それは時に見苦しく見えようとも、そうせざるを得ないだけの必然性があるものだ。それならば己自身ではなく、「正義」を守ろうとするものの方こそ、余裕を持って事に当たらなければならない。「正義」「大儀」を掲げて物事に当たるのもよいが、その「余裕」だけは確保しないと、それによって抹殺されてしまうと感じるものがいたりするものだ。それを「わがまま」だ何だと切り捨ててしまうのはプチファシズム、「焚書」運動につながる。