重層的非決定?

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2005年06月29日

■ 愛ごころ

いやはや参った。まったく仕事も何もはかどらないのはこの暑さのせいだけではない。

高橋愛写真集「愛ごころ」

高橋愛写真集「愛ごころ」

普段写真集はあまり買わないのだが、「大阪 恋の歌」以来高まっていた愛ちゃん熱に冒されて購入。

高橋愛の存在感が存分に出ている。例えば安倍なつみの場合は、写真という静止画よりも映像のほうがその存在感を感じる。彼女の声、表情の動き、体の動き、そういったものにこそ安倍なつみの存在が現れてくる。写真はその断片を切り取ったものだ。

しかし高橋愛に関しては逆だった。普段のテレビ(バラエティもの)での高橋は、しゃべりにおいても早口に語尾も不鮮明で、表情もどこかしら不安げで、要するにその動き、声、そういったもの一つ一つがその存在感を弱める方向に働いている。彼女の本来の存在感はおそらくその歌の中で感じ取るべきなのだろうが、テレビにおいては大人数のグループ、「高橋愛」の存在を存分に感じ取ることは出来ない。

この写真集においては、そうした霍乱要因一切を省いて、「高橋愛」の存在を直接的に感じ取れるのだ。むしろその存在感は静止画であることで高められる。どっしりと高橋愛がその風景の中に根を下ろしている、そういう感覚だ。後姿や足元を狙った写真の存在がそうした力強さを後押ししている。

凛とした気品とあどけなさが同居した表情の繊細さはいつもの高橋だが、しっかりこちらを見据える視線に引き込まれる。水着もその身体的な質感を表現している。水着がやや浮いて見える写真集もある中で、この写真集ではしっかりその効果を発揮している。

全体として余計なメタメッセージなどを押し込まず、ひたすら「高橋愛」の魅力を表現することに徹した写真集。もちろんそれで十分である。高橋愛ファンにはいまさら薦めるまでもないが、普段の高橋愛にどこかしら物足りなさを感じている人にこそお勧めすべき写真集である。

もちろんこの写真集単独でも十分高橋愛の魅力は伝わるだろうが、例えばハロモニで中澤裕子に説教されてややおびえ気味に凹んでいる高橋を思い浮かべながら、この写真集を見れば、そのギャップも含め、なおいっそう楽しめる。

2005年06月26日

■ 日本的発想でアジアをつまらなくした

「A」最終回を見た。

もう散々いわれていることなのでことさらに繰り返す必要もないが、なるほど、ひどい番組だった。しかしまたまた2chに巣食うアホどもが見当違いの「分析」とやらを垂れ流してくれているので、少し補足しておく。

「日本人はアジアが嫌い」「久米の親中、親韓路線が受け入れられなかった」。だからあの番組は駄目だったのだ、などとのたまう。なるほど、久米の番組開始前の宣言「アメリカ、ヨーロッパ志向だけど、アジアを知らなくてどうする。アメリカと仲良くなってどうする」からすれば、こうも言いたくなったのだろう。ちょっとでも「アジア重視」などという主張を聞くと発狂するのが彼らの性癖なのだ。この手の集団ヒステリー症状についてはそれはそれでまた別に検討する必要があるとして、「A」という番組が駄目なのは、まったく逆である。この番組はアジアを持ち上げたものではない。アジアを馬鹿にし腐った番組なのである。

最終回だけを見たが、通常収録をしたまま打ち切りになったので、特に最終回ならではということを考える必要はないはず。本日の放送内容。

  • タイのカリスマ占い師に未来を占ってもらおう
  • 日本の食材でタイ料理を作ろう
  • タイの神様に恋の奇跡を願おう
  • 韓国で流行の夫婦ラブラブ写真集作りを通じて夫婦の愛を再発見
  • 台湾の子どもに日本を見てもらおう

書いていて疲れる。

何がいけないか。ちょっと想像力を働かせてみればよい。日本がアジア諸国のことを知ろうという番組意図。同様の企画を例えばアメリカの番組が日本に対して立てたとする。

細木和子か誰かに未来を占ってもらいにアメリカ人が来る。その様子を流す。出雲大社かどこかに、恋がうまく行かないアメリカ人がお参りをする。さあ、ジャパニーズよ、君たちのことがだんだんわかってきたから仲良くしようぜ。

こんなに日本を馬鹿にした話があるだろうか。宗教というものはさまざまな歴史や文化の支えがあって、人々の心の中に何事かをもたらしているのだ。そういったことごとを一切黙殺して、いきなりそれに何の関心も持たぬものたちが神頼みに訪れる。それがどれほどその国の文化、宗教を馬鹿にしていることになるのか、そういうことだ。タイという国にとって重要な意味を持つさまざまな宗教的な儀式を、単に失恋を何とかしたいというそれこそ「神頼み」としてすがるものに行わせる。それではどこぞのインチキ宗教とまったく代わりがない。当人としてそれなりに切実な思いに付け込んで、信じてもいない宗教的儀式に参加させただけだ。それは参加者とタイの歴史・文化・宗教をともに馬鹿にした行為に他ならない。

このような、タイの宗教をインチキ宗教と同列に置くような扱いをし、そしてインチキ宗教への番組視聴者への誘いこむ企画を久米宏あろうものが進行する。無残というほかはない。

「アジアを知らなくてどうする」と久米は言った。番組の企画内容を文字で読み、彼の意図が無残に砕けたと思ったとき、私は芥川龍之介に準えて次の言葉を心に浮かべた。

「誰よりもアジアに関心を持たせようとした君は、誰よりもアジアを馬鹿にした君だ」

でもこの番組を改めて見て、この言葉はこの番組にはもったいなさ過ぎると思った。

「ちょっとだけアジアにちょっかいを出してみた君は、やはり日本人の中の日本人だった」

「君」は久米宏なのか、日本テレビなのか、それはよくわからない。

2005年06月25日

■ ディナーショー

カジュアルディナーショー夏休み特別企画が決定!!

チケット料金:¥14,000(税込・ファンクラブ特別価格)

場所:広尾ラ・クロシェット

安倍なつみ

矢口真里・大谷雅恵(メロン記念日)

後藤真希

また東京限定かよ。というかファンクラブ限定かよ。

なんかハロプロ全体がどんどん閉鎖的な集団になっていっている気がする。小金を稼ぐことに必死だな、という。

飯田さんのときにこの企画を聞いたときは、ああ、悪くない企画だな、と思ったし、安倍さんもいつかやれたら良いよね、と思ったけれど、こうも立て続けにやられると、「適材適所」とかそういう感じがまったくなくて、少しでも小金儲けが出来るネタがあれば、そこに群がるような浅ましい感じがしてしまう。安倍さんはまだいいですよ、ああ見えても飯田さんと同い年だから。後藤さんって、まだ10代じゃん。ファンクラブイベントとしてももっと全然別の企画を立てなさいよ。手抜きというか、やる気がないというか。

とぐちぐちいいながらも、ええ、行きたいですよ。ファンクラブ会員だったら絶対申し込んでますね。会員じゃないから申し込まないけれど。なっちのはもちろん、ごっつぁんのも行きたい。断然行きたい。

と何気にスルーし掛けて、その間、「大谷雅恵」!マサオ来たー。うゎあー。行きたい。ソロで何歌うんだろ。というか、下手したら圧倒的アウェイの空間になるよね。はてな回ってみてもマサオへの言及は明らかに少ないし。

全国のマサオヲタよ、終結せよ!と言っても、全然終結しないんだろうなあ。はぁ。

追記

「終結」したらいかんよね。「集結」しなきゃ。

こういうのにも深層心理が出ている、とか。

2005年06月22日

■ ネットでヒッキー

私は半ヒッキーではなく、真性のヒッキーになりつつあるのか?

今日は6日ぶりに外出した。自分でも信じられなくて、カレンダーを見返すが確かだ。

仕事関係の郵便物を出した後、近所のCD屋にシャッフルユニットの新曲を買いにいく。初回版にはミニ写真集がつくらしく、そのなかの高橋愛と田中れいなが向き合っている写真をネットで見て、たまらず買いに走ったわけだ。

なかった。結構ここでハロプロ関係買っているのに、と思いつつ、仕方なく少し足を伸ばして駅前のCD屋まで行く。そこにもない。さらにスーパーのCD売り場を覗いてみる。ない。

田舎なもので、情報が行き渡っていないのだろうか。セクシーオトナジャン・エレジーズ・プリプリピンクなんて名前のアーティストは知りません、ぽっと出の新人ですか、そんなもの仕入れません、とか。ひどい。それともハロプロと知りつつ、そんなものはもう仕入れません?もっとひどい。

ふてくされて、高橋愛の写真集の先行カットが出ている写真週刊誌FLASHを購入。あまりのかわいさに頭をやられて、さまざまな思考が停止する。「A」の打ち切りについてとかいろいろ書くことがあったのに。

それにしても実生活ではヒッキーなので、せめてネットでぐらいアクティブになろうと思わないでもないのだが、どうもこのサイトにはヒッキー臭が漂っているようだ。いきなり何を。いや、なんとなく。

2005年06月21日

■ ロリコン文化とか

矢口さんのこととか、「A」という番組のこととか、いろいろ思うことはあるのだが、いずれも書くからにはそれなりにきちんと書くべきことと思うので、今はスルー。とりあえず矢口さん、ファンクラブのイベントで「22歳の私」を歌ったとのこと。良くぞこの曲を選んでくれました。さしあたりそのことをうれしく思う。

ということで、軽いネタだけ。

シャッフルユニット。仕事が終わっていないので、それまでは我慢。未入手。

ハロモニで各ユニットとモーニング娘。メンバーとの対抗戦を見る。

セクシーオトナジャンの中学生二人、びっくりするほど大人っぽい。前からわかってはいたが、これを好きだという人は、語の正確な意味はさておき、日本アイドル文化での語法においては、「ロリコン」ではない。日本アイドル文化における「ロリコン」とは「子どもっぽい雰囲気」の女性に対して萌える態度を一般的には言うはずなので。例文。

「日本アイドル界のロリコン志向では背が高く、スタイルがよくて美人の飯田圭織より、背が低く幼児体型で、かわいらしい感じの安倍なつみが受ける」

ある意味そうした「ロリコン」文化とは対極で、逆に語の正確な意味では本来のロリコンというべきなのかもしれないが、普通に大人っぽいのだけれど、年齢を聞くと実は中学生だ、というのが彼女たち。セクシー対決なんてやっていたが、高校生の亀井絵里よりずっと彼女たちのほうが大人っぽく、対決でも亀井敗北。亀井に限らずモーニング娘。は加入するとどんどんガキっぽくなる、という現象が見られる。一方ハロプロキッズの子達はほとんどの子が、実年齢よりは大人っぽい。さすがにうまく出来ている。モーニング娘。とキッズのファンのすみわけはメンバーの年齢ですみわけされている、といわれることが多いが、そうではなく、「ロリコン」のあり方の違いでなされている、というべきだろう。

高橋愛と田中れいなが所属するエレジーズの対決は高級食材を見分けられるかで勝負を競うもの。ふかひれ、キャビア、トリュフを本物の高級品と模造品とを食べ比べて本物を当てる。

視聴者たる私はもちろん見かけでしか判断できないが、映像だけでも全部わかったぞ。コピー食品はいずれも形が整いすぎたり、色がはっきりしすぎていたりして、いかにもコピー食品丸出しだろうに、当てに出たエレジーズのメンバー、悉くはずす。いいもの食ってねえな、おい。

それにしてもプリプリピンクもあわせたこのユニット、全部あわせてひとつのユニットとして活動してはどうか。今のモーニング娘。の主力とかつてのモーニング娘。を支えた重鎮との究極のコラボレーション。意外とバランスがよいのではないか。

その間暇になる、主力が抜けたモーニング娘。もユニットを作る。なちごまをあわせて、かつてのモーニング娘。の主力と現モーニング娘。のこれまた極上のコラボレーションユニット。二つのユニットが競ってシングルを発売すれば、結構話題になるとか。妄想乙。

高橋愛の写真集の一部が写真週刊誌に出た。ネットでその写真を見たが、もちろん可愛らしくてとてもよいのだが、でもこの娘、なんか笑顔がさびしげだな、とあらためて思う。

この娘。なんだか気になる娘♪

■ 締め切りのその後で

締め切りすぎているのに、まだ仕事が終わらない。

あまり詳しくは書かないが、「人の評価」を数値化してレポートとして出す作業。

仕事相手が理系人間で、数値化することを全面的に価値化していて、とにかく数値で結果を出すように言ってくる。しかしその肝心の数値化の根拠はあいまい。それでも数値化するという結果だけが重要だと割り切っているのがはっきりしていればそれはそれで、見上げたものだと思うしかないが、どうもそこまで割り切れているようには思えない。真に客観的な数値的指標があって、それを結果として出せるはずだ、と思っている節がある。それがいたたまれない。

理系の人が「人間」「社会」にかかわるととてつもなくナイーブになる、というのはこれまでも散々経験してきているのだが、なまじ自分たちの専門分野ではそれなりの仕事をしてきた人たちだけに、自分がどれほどナイーブなことを言っているのか、なんてことを想像してみることすら出来ない。「言説」に分析の主軸をおいた現代の社会科学も捨てたものじゃないですぜ、とつぶやくのみ。

2005年06月16日

■ ミラクルな笑い

「ミラクル圭ちゃん」とそれへの笑いについて。

ちょっと考えかけている「シニカル」と「アイロニカル」についての素材として使えるような気がした。ただし現段階では私の感覚的な使い分けについての整理にとどまり、アカデミズムの議論を反映させたものではない。

例えば、2chあたりで「ミラクル」が連呼されているのは、少なくとも表面的にはシニカルな言説に見える。「ミラクル」を連呼するものたちは、その結末・未来をあらかじめ想定しており、その予測される無残な結末から省みて、今の「ミラクル」というレッテルを笑う。既に状況把握を済ませた立場に自らは立って、その状況の渦中にいるものを笑っているわけだ。そこで笑うものは状況へのコミットはせず、単に観客の立場で高みに立つ。さらに言えば、高みに立つという立場を確保することにおいてのみ状況にコミットしているのだ。つまりこれは高みに立つということ自体を目的とした笑いなのである。この構造は典型的にシニシズムである。すなわち

・差異化そのものが自己目的化した循環的な差異化システム

・自らを観客の立場においた見世物小屋的空間

・状況にコミットしないという否定によってのみ成り立つ立場性

私はこの手のシニシズムを嫌悪してきた。

一方保田圭の寸劇中でのせりふ「ミラクル圭ちゃん」とそれへの笑いはそれとは違った構造にあるように私には思えるのだ。

一見この笑いは保田圭が己を「ミラクル」成り得なかったものとして自らを卑下することによる笑いのように見える。その場合観客の笑いは保田圭への笑いということになり、「見世物小屋」の構造をなす。

しかしおそらくそうではなかっただろう。観客の笑いは保田圭*を*笑ったのではない。保田圭*とともに*笑ったのである。

何を笑ったのか。もちろん「ミラクル」というラベリングを、である。ならばそれは2chの笑いと同じものか?

保田圭は「ミラクル」ではなかった。地味に加入し、当時のファンから厄介者扱いされ、楽曲のパートも目立たないパートはもらえなかった。彼女はずっとそういう立場にいながら、ずっと娘。の楽曲を目立たないところで支え続けてきた。それやこれやのここで書き連ねればきりがない彼女の娘。への貢献をファンは見続けてきた。

そうして今モーニング娘。を応援しているものの多くはそうした各メンバーが紡いできた物語を含めて、応援しているのだ。その思いは保田圭が卒業した後のモーニング娘。にもおそらく受け継がれている。「安倍なつみ」という卒業メンバーを見に来た観客の中にもいまだモーニング娘。に愛着を持つものも多かろう。「ミラクル」という安直なラベリングはそうしたものたちの思いを踏みにじるところが多少なりともあったのだ。

だから笑うのだ。その笑いは差異化のための笑いではない。踏みにじられそうな思いを回復するための笑いだ。笑うために立場を捏造したのではない。立場を守るために笑うのだ。

その笑いはもちろん爆笑ではない。嘲笑でもない。どこかしら自嘲的な色彩も帯びたアイロニカルな笑いである。

■ コンサートではない

昨日の更新は前から考えていたことを、仕事が進まないイライラの中で書いたものだったけれど、どうやら昨日のテーマはあちこちで議論になっているようで。その議論に分け入るように読まれてしまったりするのかな?

私は単に、今やっているのは安倍なつみコンサートじゃなくて、安倍なつみが出ている環境保護イベントなんで、それはそれでいいけれど、コンサートもやれや、「あなた色プレミアム」以来どんだけ日にちがあいているねん、われ、という愚痴を書いただけなんで。

内容が明らかになる前から「コンサート」とは認めがたいものがいっぱいでしたしね。値段も安すぎるし、大体東京近辺でしかやらないってだけで論外。安倍なつみのコンサートは全国区でなければならないの。最低限東京・大阪・名古屋の3大都市ははずしてもらいたくはない。

そんなこんなで、最初から「安倍なつみコンサート」としてはカウントしたくなかったし、内容聞いて「そりゃそうだよね。あれはやっぱりイベントなんだよね。コンサートは別にやるんだよね」と言い聞かせたくもなる、というのが正直なところ。

というわけで秋にはセカンドアルバム引っさげて全国ツアーがある、ということでひとつよろしく。

2005年06月15日

■ ポイ捨て

20日締め切りの仕事が進まない。

というかやる気がしない。

ほとんど作業量0でほぼ一週間無駄にした。

まあ、仕事なんてそんなものなのかもしれないけれど、やってて全然面白くないし、というかむしろ仕事の内容は私の理念とは合わないし、要するにお金のための仕事でしかないし、なんて愚痴を言っても何も始まらないんだけれど、まあ、愚痴を垂れ流すのもブログの効用ということで。それで読者を失うのも私の自由だしな。

ホリエモンの言い分(ジャーナリズムの否定)を私はそのまま賛成はしないが、ある部分正しいと思っていて、「便所の落書き」の集積もそれ自体として価値を持つだろうと。もちろん「勝ち」といっても正の価値か、不の価値かはわからないのだけれど、何かの価値、あるいは社会的効果は及ぼしているだろう。

よくインターネットを評していわれる、ごみの山の中に宝がある、というのは半分間違っていて、ごみ自体が宝となりうるのだ、というのが正しいだろう。

結局何がいいたいってこともなくて、単に仕事をやりたくない、まともな思考をする精神的余裕がない、ということで。

バイチャ。

■ ふれあいこん

なっちこと安倍なつみの「ふれあいコンサート」。

関西では行われていないので、交通費までは払えない、ということで不参加なのに、内容だけは気になるので、ネットをチェックしまくる。

DVDになることを期待したかったが、2月の「レビュー」がファンクラブ向けのみということからして、ファンクラブ会員ならざる私が、今回のコンサートの内容を映像で見る機会は完全にないことがはっきりしてしまった。

というわけでネットの評が頼りなわけですが。ずいぶんと評判、悪いようで。

以下の文は見にいかない奴の僻みごととして聴いていただければ結構。

実を言うとセットリストを見たとき、私はほっとしました。内容が薄くて。

これで昨年のコンサート並みの充実度だったら、私は逆に悲しかった。だって3800円でしょう。昨年の6800円にくらべて3000円も安い。私は内容云々の前に、その3000円の値下げが悲しかった。それって安倍なつみの市場価値が下がったってことかよ、って。ええ、賢い消費者じゃありませんよ。そもそも参加しないのだから、消費者じゃないし。こういうところで値段が下がってうれしい、とは思えないんだな。安倍なつみに関して、価格破壊なんてしてもらいたくない。作り手の誇りとして、そういうダンピングはしてはならない、と思うのです。

安いのなら安いだけの理由が欲しい。まともなコンサートをこの値段ではやって欲しくない。

結局環境省のイベントでしょ?だったら安くてもしょうがない。たぶん適正価格なのでしょう。安倍なつみコンサートの価値を下げられたわけじゃない、参加した人には申し訳ないけれど、私にはそっちのほうが重要なのです。

もちろんきちんと6800円取る、本当のツアーをやって欲しかった、というのは私も同じ。ただ先に3800円という金額を知らされて、なんのこっちゃと思ったという経緯からすると、これはこれで内心ほっとしたというところです。

さらにいえば、こういう「お堅い」仕事が回ってきた、というのは昨年末の件からして、いいことじゃないか、という思いもある。犯罪だなんだと、ネットの腐れ「言論人」どもだけじゃなくて、某テレビ局までそういう言い方をしていたりしたが、NHKとかお役所とか、まともな「大人」は全然そんなこと気にしてないじゃん、なんて子どもじみたことを考える。

それから℃-uteとかいうユニット売り出しになっちを利用するな、という批判について。その言い分もわかるけれど、多分そういうつもりはないんじゃないかと思う。もしそういう気があれば、きちんと曲つきでデビューさせるでしょう。ここはつんくさんの言うとおりなのだと思いますよ。

環境を考えるイベントということで、「生徒役」の子どもが必要だ。ちょうどハロプロキッズというのがいるじゃないか。じゃあその中からBerryz工房をのぞいたメンバーを使えばちょうどいいじゃないか。じゃあついでだから呼び名をつけようか。そんなノリでしょう。

もちろんこの機会に名前を売りたいな、ぐらいの野心はあると思いますがね。でもそれは後付だと思うし、まずは安倍なつみありきの企画だと思うから、私はそれほど否定的な感情は持たない。

まあ、初日のしょっぱなに安倍なつみ抜きで「ぴりり」を持ってきたセンスは疑いますがね。そんなもん、会場「ドン引き」になるのは当然じゃないか。誰も幸せにならない。馬鹿だなあ、と。

本当にむかつくのはBerryz工房は単独コンをやるくせに、なっちもWも後藤真希もメロン記念日も(まともな)単独コンの予定がまだない、ということのほうです。つくづくどこ向いて仕事しているんだ?と思う。Berryz工房が松浦亜弥に化けたり、ミラクル久住が後藤真希に化けたりはしませんぜ。もっと旧来の顧客を大事にしろ、といいたいです。

■ ラベリング

ふれあいコンを映像で見られることはないだろうということで、某所で音源を拾って聞きました。

その中で笑ったところ。寸劇の中で保田圭ばあちゃんが「わしもモーニング娘。に加入したころにはミラクル圭ちゃんと呼ばれたものだ」とか何とかいっていたところ。「ミラクル」って卒メンを含むメンバー、スタッフにネタとして流通しているんだな、と。

こうした「押し付けの」レッテルをネタにする、というのはネタにする本人はその意識がなくとも、どこかしらアイロニカルな含意を持つ。「ミラクル」という言葉の持つ空疎さを際立たせてしまうのだ。それは2chあたりで「ミラクル」が反復されているのとほぼ同じ効果を持ってしまう。

ミラクルというレッテルによい感情を持たない当方としては、喝采したいところだが、自分に貼られたレッテルがそういう「ネタ」にされてしまっている久住さんには正直同情する。レッテルといっても、もちろんそれを背負わされた当事者にとっては人格の一部となってしまうわけで、そうした「重み」を、レッテルを貼りかつそれをネタにした事実上同一の主体(いずれもハロープロジェクトの運営サイドなのだから、同一人物ではなくても主体としては重なる)は理解しているのだろうか、などと思ったりする。

2005年06月10日

■ 二度あることは

今日は暑い中を30分以上歩いて疲れたので、頭のいる話は先送り。明日出来ることは今日するな。

昨日に引き続き、ちょっといやな話をやや感情的に書く。

安倍なつみというキーワードが編集されている。より正確に言えば、なにやら編集されて、元に戻っている。編集した人物と元に戻した人物は同一人物だ。

何をしたかったのかはよくわからないが、元に戻したのをとりあえず最低限のエクスキューズとして受け取っておく。しかしそいつが一度やろうとしたことは私は忘れない。痕跡はシステム上残り続けるわけだしな。

何ヲタが、とは言うまい、とこらえるが、こうもこういうことが続くといい加減堪忍袋の首絞めちゃうぞ。

2005年06月09日

■ 愛の量を教えて!

今日はいろいろ本を買い込んだりしてきたのだけれど、とっても憂鬱な明日の仕事のこととかあるので、頭を使う方面の更新はせずに、楽しい方面の更新だけ。

って、全然楽しくない話題なんですが。

たとえ話ですが。

デートをするときに、仲のいいお友達を連れてきてくれれば、それなりに歓迎です。こっちも旧知の相手だったらそれはもう大概は大歓迎です。

でも近所のガキを連れてこられると正直、ビミュー。

おまけにそのガキの連れ添いに関していやなうわさが満載と来たら。。。

といっても私は現場に居合わせるわけではないので、よほどいやな話が流れてこない限りはそれ以上どうこうは言いませんが。

ああ。一応原理主義者としては全てのハロメンに愛を注ぐべしという規範はあるのですが、こっちは神ならぬしがないフリーターですので、愛の絶対量が足りません。

2005年06月08日

■ 「内ゲバ」に敗北す

2000年春の武道館ライブ映像を改めて見返す。

その中の一曲「おもいで」。昨年のなっちコンで圭ちゃんこと保田圭がソロで歌っていた曲。「セカンドモーニング」に収録されていてもおかしくない初期モーニング娘。の色を残していることもあって、なんとなく懐かしく、何度も見返す。

この曲を含んだアルバム「3rd LOVE〜〜 パラダイス」はいろいろ不純な気持ちがあって買わなかった。もったいないことをした。もっと虚心に「モーニング娘。」を楽しめればよかった。

■ 「日本赤軍派」

仕事が一段落ついて、ヒッキーの暮らしがよみがえってきて、ようやく本を読む気力・体力が戻ってきたところ。昨日触れた「日本赤軍派」読了。

これって早い話素材が面白すぎて、何を読んでも「面白い」という感想が出てきてしまう。もちろん本書も十分面白かった。

実を言えば赤軍関係の本をきちんと読むのはこれが初めてなので、事実経緯レベルでいろいろ知るところが多かった。日本赤軍と連合赤軍の関係、とか。知っているようで知らない、という。「うろ覚えゼミナール」で取り上げてもらいたいな。

象徴的相互作用論の枠組みで事件を読み解いた、というものらしいが、象徴的相互作用論じたいがそれほど強力な理論ではない、という印象を個人的には持っていて、その意味では理論レベルで特に触発されるものはなかった。その分、事件の流れなどが小説を読むような、レアなものとして頭に入ってくる。特に新たな視点を得られたわけではないが、実に納得の行く経過報告を読んだ、という感じである。

このあたりの事実経緯についての了解は、新左翼運動というものをどれだけ同時代的なものとして接触したのか、というベタな話に回帰するようにも思える。

身も蓋もないことを言ってしまえば、この事件の「了解」には理論などいらないのではないか、と思う。なぜ「粛清」がなされたのか、という問いを、この事件自体に向けるほど、この事件は特異なものだとは私には思えないのだ。昨日も書いたように、この事件の一つ一つの事柄はことごとく「既視感」がある。例えば「共産主義化」を求める「総括」はまさに当時広く行われていた「糾弾」闘争と同じ構造をなす。とてもありうべき「平凡」な状況の中で、ありうべきひとつの帰結として、「凄惨な」殺人があったのではないか。ここで行われるあらゆる事柄が、その時代の表象物にほかならない。

構造分析よりも本書のようなある意味ジャーナリスティックなレアな記述のほうがより「面白い」と私が感じるのは、私がこの事件を引き起こしたのがある種の構造的必然というよりは、当時社会に底流していたある種の力の発露のひとつとして捉えるべきではないか、という印象を持っていることと符合する。そしてまた今の状況、構造的には平凡きわまりないいまの言説空間においても、ところどころで小規模ながら噴出する力の流れにこそ着目すべきではないのか、という私の思いにつながっている。

2005年06月07日

■ リハビリ中

とりあえずリハビリ代わりにということで購入した「哂う日本の『ナショナリズム』」。

予想外に面白かった。基本的に私は「今」の状況を説明するのに歴史をさかのぼる、という手法は評価しないのだが、この本に関しては最初の連合赤軍をテーマにした部分が圧倒的に面白かった。私は世代的にも連合赤軍事件は記憶の外であるし、これまでも特にコミットしたこともなかったのだが、あらためてその話題に触れて、とても興味を引かれた。

北田が取り出してくる事例自体は、私にとって、それほど驚かされるものはない。むしろ逆に、「さもありなん」、ある意味とてもリアルに感じられた。

私は北田と同年代なのだが、しかし「左翼運動」にかかわる時代感覚にはずれがあるようで、それが逆に興味深かった。北田は、淡々と記述はしているのだが、連合赤軍内部で起こった「総括」を、感性的にはありえないこととして捉えているように感じられた。そのような「ありえない」ことが起こった構造を北田は取り出そうとする。

私は逆に、そこで起こった事態には明確に「既視感」を覚える。「総括」を要求する指導者の論理が、「構造」以前に、私にはベタに了解できてしまうのだ。

もちろん「分析」とはそうしたベタな次元から離れて、構造を取り出すべきものであり、その意味で正しいのは北田の態度のほうだ。しかし、それにもかかわらず、そうして取り出された構造の残余、ベタな感性への共感、の欠落が、私にはどうにも気になってしまう。それをいささか批判的な言葉で言ってしまえば、北田の分析は、構造ありき、さらには結論ありき、の議論にも思えてしまうということだ。

北田の論点は「準拠枠組みなき」「形式主義」という言葉に尽きる。そのタームで北田は連合赤軍事件から2ch現象までを捉えていくのだが、私の関心はむしろその裏、「にもかかわらず」その場で必然的な意味を持ったものは何か、なぜそれが選ばれたのか、という論点である。

例えば連合赤軍事件における「総括」のきっかけを北田は「偶然的」と評するのだが、本当に偶然的であったのだろうか、というのが疑問なのである。むしろそれは必然であったのではないか、そしてその必然性は、その閉ざされた集団固有のものですらなく、社会一般にある種の形で反復される類のものではなかったのか、という疑問である。

ひとつ例を出そう。「総括」を強要され、リンチ殺人されていったある女性「兵士」が問題とされたのは「他人の発言中に髪をとかした」、というものであったとされる。それを北田は「偶発的」と評するのだが、果たしてそうか?この「原因」には既視感がある。それからほぼ10年後に起こった教師による生徒リンチ殺害事件である。そのとき生徒が「指導」された原因がヘアドライヤーを持っていたことであった。この10年という年月を経て反復される髪のおしゃれと死との連続性に私は拘る。

「髪の毛」という身体は集団における秩序に対する霍乱要因として明確に存在し続けているのであって、それが引き起こす「乱れ」が組織全体を瓦解させるのではないかという「恐れ」(妄想)は、私には北田が言うほど「些細」なものとは思えない。

こうしたズレが現状分析にまで及ぶことになる。たとえば2chで行われた二つのバッシング、「イラク人質被害者」バッシングと拉致被害者家族会へのバッシングを北田は等値なものとして並べるのだが、その両者のバッシングに備給されたエネルギーが等価なものだとは私にはどうにも感じられなかった。確かに、匿名性の高い掲示板ゆえに、何に対してもバッシングは起こりうる。しかしそのなかで特に何が獲物として選ばれるのか、何が「祭り」として盛り上がるのか、はそれほど偶発的なものとは私には思えないのだ。

この論点と係るかどうかは現段階では不明な論点。シニカルとアイロニカルとの概念をどう使い分けているのかが、私には読み取れなかった。私は現在の2chの言説はシニカルではあってもアイロニカルなものではない、と感じているので。

この論点に関するジジェクの論考。自分へのメモ代わりに。

PLEXUS / Lacanian Ink: Slavoj Zizek - From Joyce-the-Symptom to the Symptom of Power

ついでにたまたま自宅の本棚にあった日本赤軍関係の本。

日本赤軍派―その社会学的物語

日本赤軍派―その社会学的物語

今から読むべ。

■ 靖国神社

この先の記述は政治的な話題を含みます。あしからず。

靖国神社、A級戦犯分祀問題。

私は反対ですね。いや、別に靖国神社側が突然「やっぱA級戦犯は祭りたくないっす」とかなんとかいいだして、放り出すというのは別に咎めはしない。が、政府が介入して分祀だなんだというのは賛成できない。

政府が一宗教法人にそのような介入をすれば、それこそ政教分離の原則はどうなるのだ、ということだ。そうして分祀したらそれで靖国神社は政府お墨付きということになってしまう。それは靖国神社がどうという以前に政教分離に反する。

そもそも、だ。靖国神社という神社はA級戦犯を分祀するとかしないとか、そういう次元で「問題」なのではない。A級戦犯が祭られている、というのは問題の表象であって、原因ではない。そこを分祀論は完全に取り違えている。靖国神社とは、その名から成立の経緯から、祭られているものの選別から、その全て、骨の髄にいたるまで、「お国のために命を賭すのは崇高なことである」という価値観に彩られている。たまたま東京裁判で「A級戦犯」と認定された人間が祭られているとかどうとかそういう次元で問題なのではない。国家と「私」との関係に対する思想全体にかかわる問題なのであって、そうしたなかで民主主義・平和主義・政教分離を標榜する日本国家において、公的な意味合いを担わせることが良いことなのかどうか、そして「私」たち個人が靖国神社が体現している思想をどう評価するのか、それらが問われているのだ。

私の結論は簡単だ。前者に関しては端的に否である。もちろん思想信条の自由というのはあるから、一宗教法人として靖国神社なるものがあるのは一向構わない。しかし公的な形で何らかの役割を担う、というのは、右とか左とかの思想対立とは無関係に、近代国家としてありえないことである。この簡単な原則を朝日新聞あたりに寄稿する「良識派」が忘れていたりするのは何たることか。いかに妥協であっても政府の介入する「分祀」論はありえないはずなのだ。

後者に関して。軟弱非国民を標榜する私にとって靖国神社的なるものは個人として受け入れる余地はまったくない。「戦争で命を落とした人を偲び、平和への思いを馳せる」という感性もあるらしいが、それを否定する気はないが、平和とは今生きている人のためのものであって、靖国神社が体現している思想は、今、そして未来のあるべき(と私が思う)国家観とは完全に対立しているので、死者を言い訳に靖国神社的なるものに敬意を表する余地はまったくない。

最後に。中国・韓国との関係について。私は基本的には、「それ」以前の問題として処理されているので、私個人の判断としては中国がどういっているとかはあまり関係はないのだが、早い話中国がかりに「靖国万歳」と言ったとしても、私は靖国神社を認めるつもりはないのだが、利用できるものは利用するというのも立派な戦略であり、リアリズムだ。そしてまた外交、それにかかわる「国益」というのも徹底したリアリズムが要求されるはずだ。それからして、小泉及びそれを支持する人たちは、「平和主義」に対しては「左翼」のロマン主義を哂うくせに、この場面ではずいぶんとロマン主義に徹するじゃないの、と笑い返してやればそれでいい。

■ ライブ空間の歴史性

知っている人も多いと思うが、

パソコンテレビ GyaO [ギャオ]無料動画

でモーニング娘。のライブ映像が無料で見られる。発売されているDVDを配信しているものだと思うが、未入手のものなのでありがたい。

現在配信されているのは1999年春の福田明日香卒業コンサートと2000年春の市井紗耶香卒業コンサート。わずか一年の間を経たメンバーの入れ替わりとライブそのものの雰囲気の変化。1999年の時にはまだこのグループがどうなるのか、先が見えない不安さがにじみ出ていて、それだけに無限の可能性をも感じさせられる。「脱退」という非常事態に挑むメンバーの悲壮感が漂い、緊張感あふれる中の凛とした雰囲気。薄暗い景色の中に明るい日差しをを求める祈りの空間。その宗教的ともいうべき雰囲気からすると2000年のコンサートはずっと牧歌的で明るいユートピアだ。現在のモーニング娘。あるいはつんく本来の構想たる「お得なモーニングセット」的なものへ回帰する途上ともいえようか。

それでもあくまで「途上」というのは、いい悪いは別にして、加入して2年たつ6期メンバーの安定振りに比べての同じく加入して2年間での市井紗耶香の変貌振り、そして脱退、その落差に表象されている。

それからさらに5年もの時間が流れ、今のモーニング娘。を「保守的」なヲタは競争や緊張感がない、と批判する。しかし好みはどうあれ、そのようなものは今取り戻しうるものでも取り戻すべきものでもあるまい。確かに私は1999年のライブをこそ最高にすばらしいものだと思った。同じ卒業コンサートでも、安倍なつみ卒業コンサートの映像よりも断然惹かれるものを感じた。「卒業」という事態の持つ重みがまったく別物なのだ。1999年のコンサートでは、私(たち)が卒業という言葉で想起するカタルシスを存分に味わうことが出来る。しかし安倍なつみ卒業コンサートではそれは多くの部分形骸化されており、制度的なものとして飼いならされてしまっている。

しかし歴史はあくまで歴史だ。私(たち)は1999年の映像の中に、今のモーニング娘。に宿るユートピアを見なくてはならないし、逆に今のモーニング娘。の安定感の中に初期娘。に漂う不安感、亀裂の痕跡を読み込まなければならないのだ。

■ ライブ批評

後浦なつみコンなどを踏まえて、なっちこと安倍なつみのパフォーマンスがほかの二人と比べてどうなのよ、というのが話題になったりしているようだ。

私は現場には行っていないので、それ自体について何も論評は出来ないのだが、しかしテレビなどで見る限り、というエクスキューズをつけて思うこと。

前にも書いた気がするが、もし仮に3人のパフォーマンスを各要素に分解し、各々を評価する、という評価手法をとったら、多分安倍さんの評価は低くなるのではないか、という気はしないでもない。音域は狭いだろうし、声量はどうなのだろう。踊りはダイナミックさという点ではいささか頼りないかもしれない。

でも、一応ジャンルとしては「芸術」に属する評価に、そんな科学主義・機能主義的な評価方法というのが、そもそも正しいのか、ということだ。一般論として「芸術」への評価というのはそうした機能の分解に還元されざるもの、「アウラ(オーラ)」と呼ぶしかないものを含みこんでなされるべきものに他ならない。もちろんそれは言語化困難な代物だ。しかし、だからこそ、芸術批評というのが意味を持つのだ。

言語化困難なものを言語化していくこと。たとえば安倍さんの醸し出す「空気」を言語化して伝えること。それが「批評」のなすべき仕事なのだ。

2005年06月05日

■ 本購入記録

とりあえず仕事が一段落ついたということで、少しリハビリに入ることにする。というわけで安倍さんの写真集をスルーして買い込んだ本数冊。

身体なき器官

身体なき器官

嗤う日本の「ナショナリズム」

嗤う日本の「ナショナリズム」

「身体なき器官」から読み始めたが、リハビリには少しハードすぎるかも。ドゥルーズ、よくわからんし。まあ、ぼちぼち、ということで。

■ 学生−教師関係

ホテル住まいの仕事が先週の火曜日で終了。新たに看護学校が始まる。

看護学校もいい加減ルーティン化したいのだが、毎年こちらのざっくりした予定を裏切る学生の「質」の低さに、その場での軌道修正を余儀なくされる。今年もまたまたひどいのがいて、担任さんに「今年の学生はどうでしたか?」と聴かれ、思わず愚痴ったが、その愚痴には何の意味もなかった、と言った直後に後悔。いいたいことがあれば学生に直接何らかの形で伝えるしかない。そんなことはわかりきったことなのに、己の弱さがこぼれ出る。

大学。飽きもせずにハロプロメンバーの名前を借用したダミーデータを使用。そのデータを見た女子学生がぼっそりと「モー娘。すきやなあ」とつぶやくのが聞こえる。

ああ、好きですよ。悪かったな。もうこうなったら意地だ。次の日付計算用の資料は娘。の誕生日一覧を持っていって現在の年齢を計算させる練習問題にしてやる、かなあ。

■ ハロプロ日記

また長く更新していない間にいろいろなことがある。

久々のシャッフルユニット。なっちはもうこの企画からは卒業、ということで無関係、中澤さん、飯田さん、保田さんが「プリプリピンク」なんていうユニットに参加するんだから安倍さんが参加してくれてもいいか、というのもあるが、あまり参加して欲しいとも思わないかも。

ハロモニ新コーナー「うろおぼえゼミナール」の3教授、安倍さん、加護さん、後藤さんの3人のユニットなら見てみたいが、そこに辻さんが加わっても良いが、実現の可能性のない妄想を続けても仕方がない。

それより高橋、田中が参加する「エレジーズ」を楽しみにしよう。藤本さんのいる「セクシーオトナジャン」は中学生に挟まれる藤本さんというのがなんとなく痛々しい感じなので、期待薄。

ハロモニの新コーナー「うろ覚えゼミナール」はかなりツボな人選なのだが、企画もゆるゆるでいい感じなのだが、3教授が答える課題が難しすぎるのが難点。もう少しやさしい課題に答えさせたほうが、アホさが際立って面白いのに、というのは残酷か。

これをはずしちゃナチヲタ失格の写真集「Fu」。いまだ購入していません。写真集って下手したら10分ぐらいで見終わってしまうので、あまり気乗りがしない。写真というのは即物的というか、安倍さんの売りだと私が思っている「空気」感が薄いというか、そんな気がする。

安倍なつみ写真集「Fu (ふう)」

安倍なつみ写真集「Fu (ふう)」