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2005年06月08日
■ 「日本赤軍派」
仕事が一段落ついて、ヒッキーの暮らしがよみがえってきて、ようやく本を読む気力・体力が戻ってきたところ。昨日触れた「日本赤軍派」読了。
これって早い話素材が面白すぎて、何を読んでも「面白い」という感想が出てきてしまう。もちろん本書も十分面白かった。
実を言えば赤軍関係の本をきちんと読むのはこれが初めてなので、事実経緯レベルでいろいろ知るところが多かった。日本赤軍と連合赤軍の関係、とか。知っているようで知らない、という。「うろ覚えゼミナール」で取り上げてもらいたいな。
象徴的相互作用論の枠組みで事件を読み解いた、というものらしいが、象徴的相互作用論じたいがそれほど強力な理論ではない、という印象を個人的には持っていて、その意味では理論レベルで特に触発されるものはなかった。その分、事件の流れなどが小説を読むような、レアなものとして頭に入ってくる。特に新たな視点を得られたわけではないが、実に納得の行く経過報告を読んだ、という感じである。
このあたりの事実経緯についての了解は、新左翼運動というものをどれだけ同時代的なものとして接触したのか、というベタな話に回帰するようにも思える。
身も蓋もないことを言ってしまえば、この事件の「了解」には理論などいらないのではないか、と思う。なぜ「粛清」がなされたのか、という問いを、この事件自体に向けるほど、この事件は特異なものだとは私には思えないのだ。昨日も書いたように、この事件の一つ一つの事柄はことごとく「既視感」がある。例えば「共産主義化」を求める「総括」はまさに当時広く行われていた「糾弾」闘争と同じ構造をなす。とてもありうべき「平凡」な状況の中で、ありうべきひとつの帰結として、「凄惨な」殺人があったのではないか。ここで行われるあらゆる事柄が、その時代の表象物にほかならない。
構造分析よりも本書のようなある意味ジャーナリスティックなレアな記述のほうがより「面白い」と私が感じるのは、私がこの事件を引き起こしたのがある種の構造的必然というよりは、当時社会に底流していたある種の力の発露のひとつとして捉えるべきではないか、という印象を持っていることと符合する。そしてまた今の状況、構造的には平凡きわまりないいまの言説空間においても、ところどころで小規模ながら噴出する力の流れにこそ着目すべきではないのか、という私の思いにつながっている。
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