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2005年06月29日
■ 愛ごころ
いやはや参った。まったく仕事も何もはかどらないのはこの暑さのせいだけではない。
普段写真集はあまり買わないのだが、「大阪 恋の歌」以来高まっていた愛ちゃん熱に冒されて購入。
高橋愛の存在感が存分に出ている。例えば安倍なつみの場合は、写真という静止画よりも映像のほうがその存在感を感じる。彼女の声、表情の動き、体の動き、そういったものにこそ安倍なつみの存在が現れてくる。写真はその断片を切り取ったものだ。
しかし高橋愛に関しては逆だった。普段のテレビ(バラエティもの)での高橋は、しゃべりにおいても早口に語尾も不鮮明で、表情もどこかしら不安げで、要するにその動き、声、そういったもの一つ一つがその存在感を弱める方向に働いている。彼女の本来の存在感はおそらくその歌の中で感じ取るべきなのだろうが、テレビにおいては大人数のグループ、「高橋愛」の存在を存分に感じ取ることは出来ない。
この写真集においては、そうした霍乱要因一切を省いて、「高橋愛」の存在を直接的に感じ取れるのだ。むしろその存在感は静止画であることで高められる。どっしりと高橋愛がその風景の中に根を下ろしている、そういう感覚だ。後姿や足元を狙った写真の存在がそうした力強さを後押ししている。
凛とした気品とあどけなさが同居した表情の繊細さはいつもの高橋だが、しっかりこちらを見据える視線に引き込まれる。水着もその身体的な質感を表現している。水着がやや浮いて見える写真集もある中で、この写真集ではしっかりその効果を発揮している。
全体として余計なメタメッセージなどを押し込まず、ひたすら「高橋愛」の魅力を表現することに徹した写真集。もちろんそれで十分である。高橋愛ファンにはいまさら薦めるまでもないが、普段の高橋愛にどこかしら物足りなさを感じている人にこそお勧めすべき写真集である。
もちろんこの写真集単独でも十分高橋愛の魅力は伝わるだろうが、例えばハロモニで中澤裕子に説教されてややおびえ気味に凹んでいる高橋を思い浮かべながら、この写真集を見れば、そのギャップも含め、なおいっそう楽しめる。
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