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2005年06月16日
■ ミラクルな笑い
「ミラクル圭ちゃん」とそれへの笑いについて。
ちょっと考えかけている「シニカル」と「アイロニカル」についての素材として使えるような気がした。ただし現段階では私の感覚的な使い分けについての整理にとどまり、アカデミズムの議論を反映させたものではない。
例えば、2chあたりで「ミラクル」が連呼されているのは、少なくとも表面的にはシニカルな言説に見える。「ミラクル」を連呼するものたちは、その結末・未来をあらかじめ想定しており、その予測される無残な結末から省みて、今の「ミラクル」というレッテルを笑う。既に状況把握を済ませた立場に自らは立って、その状況の渦中にいるものを笑っているわけだ。そこで笑うものは状況へのコミットはせず、単に観客の立場で高みに立つ。さらに言えば、高みに立つという立場を確保することにおいてのみ状況にコミットしているのだ。つまりこれは高みに立つということ自体を目的とした笑いなのである。この構造は典型的にシニシズムである。すなわち
・差異化そのものが自己目的化した循環的な差異化システム
・自らを観客の立場においた見世物小屋的空間
・状況にコミットしないという否定によってのみ成り立つ立場性
私はこの手のシニシズムを嫌悪してきた。
一方保田圭の寸劇中でのせりふ「ミラクル圭ちゃん」とそれへの笑いはそれとは違った構造にあるように私には思えるのだ。
一見この笑いは保田圭が己を「ミラクル」成り得なかったものとして自らを卑下することによる笑いのように見える。その場合観客の笑いは保田圭への笑いということになり、「見世物小屋」の構造をなす。
しかしおそらくそうではなかっただろう。観客の笑いは保田圭*を*笑ったのではない。保田圭*とともに*笑ったのである。
何を笑ったのか。もちろん「ミラクル」というラベリングを、である。ならばそれは2chの笑いと同じものか?
保田圭は「ミラクル」ではなかった。地味に加入し、当時のファンから厄介者扱いされ、楽曲のパートも目立たないパートはもらえなかった。彼女はずっとそういう立場にいながら、ずっと娘。の楽曲を目立たないところで支え続けてきた。それやこれやのここで書き連ねればきりがない彼女の娘。への貢献をファンは見続けてきた。
そうして今モーニング娘。を応援しているものの多くはそうした各メンバーが紡いできた物語を含めて、応援しているのだ。その思いは保田圭が卒業した後のモーニング娘。にもおそらく受け継がれている。「安倍なつみ」という卒業メンバーを見に来た観客の中にもいまだモーニング娘。に愛着を持つものも多かろう。「ミラクル」という安直なラベリングはそうしたものたちの思いを踏みにじるところが多少なりともあったのだ。
だから笑うのだ。その笑いは差異化のための笑いではない。踏みにじられそうな思いを回復するための笑いだ。笑うために立場を捏造したのではない。立場を守るために笑うのだ。
その笑いはもちろん爆笑ではない。嘲笑でもない。どこかしら自嘲的な色彩も帯びたアイロニカルな笑いである。
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