重層的非決定?

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2005年06月15日

■ ラベリング

ふれあいコンを映像で見られることはないだろうということで、某所で音源を拾って聞きました。

その中で笑ったところ。寸劇の中で保田圭ばあちゃんが「わしもモーニング娘。に加入したころにはミラクル圭ちゃんと呼ばれたものだ」とか何とかいっていたところ。「ミラクル」って卒メンを含むメンバー、スタッフにネタとして流通しているんだな、と。

こうした「押し付けの」レッテルをネタにする、というのはネタにする本人はその意識がなくとも、どこかしらアイロニカルな含意を持つ。「ミラクル」という言葉の持つ空疎さを際立たせてしまうのだ。それは2chあたりで「ミラクル」が反復されているのとほぼ同じ効果を持ってしまう。

ミラクルというレッテルによい感情を持たない当方としては、喝采したいところだが、自分に貼られたレッテルがそういう「ネタ」にされてしまっている久住さんには正直同情する。レッテルといっても、もちろんそれを背負わされた当事者にとっては人格の一部となってしまうわけで、そうした「重み」を、レッテルを貼りかつそれをネタにした事実上同一の主体(いずれもハロープロジェクトの運営サイドなのだから、同一人物ではなくても主体としては重なる)は理解しているのだろうか、などと思ったりする。

投稿者 althusser : 2005年06月15日 00:00

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