重層的非決定?

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2005年10月27日

■ 歳月

およそ無茶な仕事を抱えていて、いらいらする。

それでもHey!Hey!Hey!とうたばんはしっかり観る。まもなく一年、何とも言えない感慨がこみ上げる。松浦さん、後藤さん、石川さん、みなに、なんだかよくわからないが、お礼を言いたい気持ち。

安倍なつみがお世話になっております。

ん?やはりどう考えても変だな。でもそんな気持ち。

いろいろあったけれど、なっち、がんばっているよね、と道行く人に確認したい、そんな気持ち。

■ なちコンへの願い

一部で話題になっているコンサートのマナーを巡る話。発端はここ。

10.25.一夜限りの残念パーティ〜! 

別にその場に居合わせたわけでもない、ましてやご本人がその後謝罪されている中、今更どうこう言うことはない。ただ、ふと、これをなちコンでやられたら、と想像してしまった。

特に、開演されているのに、わざと集団で遅刻して、行進して入場、という下り。寒気がした。そういうのでなくても、開演後にごそごそ入場されるのがいやで仕方がないのが、それはお互い様と言い聞かせている。それをわざと遅刻して、こそこそどころか、集団で行進して見せて、それをステージ上の演者に見せつける。ちょっと度が過ぎるとか、やった方の主観はそうでも、おそらくなちコンでそういう場に居合わせたら、大げさでなく、生涯恨むと思う。

いまだなちコンでそれに似た話すら聞いたことはない。しかし徴候がないでもない。ハロプロ全体にチケットがあまり気味でずいぶん安い、あるいは無料で入場してくるものが結構いる。私が行ったときも、大声で「この席千円だった」とか何とか言い散らしている馬鹿がいた(安くで買うのはかまわないが、そんなのを周りに聞こえよがしに言えば、正価を払っているものからすればいい気がしないことぐらい想像できないのか)。そうなれば「安倍なつみ」のステージを見に来たのではなくて、単に騒ぎたいだけのものがどんどん入場してくるようになるかも知れない。今までの安倍なつみのステージを見に来たものたちとは根本的に心性が違うものたちが多く会場を埋めれば、コンサートの雰囲気などまったく変わってしまうかも知れない。

しかしまた、それとは違った、少しある意味きわどい想像もする。もし遅れて入場行進をして席に着く馬鹿がいたとして、ステージ上の安倍なつみは、少しでも好意的な反応をするだろうか。本音不愉快、でもプロとしてそしらぬ顔をして、自らのステージをつとめるのではないか。ステージを作るのはこの私だ、そういうプロ根性を安倍なつみにはひしひしと感じる。へらへらMCをやっているようでも、絶対的に空間を支配する力、私は安倍なつみにそれだけの力を感じている。

なぜ加護さんはあのような不埒な観客に、好意的とも受け取られかねない反応を返してしまったのだろうか。そしてなぜその場にいた観客たちの一部は、そのようなステージを評価したのだろうか。ハロプロパーティなるステージは、観客、演者にとって、いったい何の場であったのだろうか。

他のハロプロコンサートはさしあたり気にするまい。なちコンだけは、安倍なつみのステージを鑑賞する場であり続けることを願ってやまない。

2005年10月23日

■ 電車男系

東京では先週放送分のハロモニ。メンバーで幸せな結婚をすると藤本美貴が思っているのは誰かを嘘発見器から確認するというコーナー。そこで藤本が第二位に選んだのが、高橋愛。なぜ高橋なのかについて藤本が語る。

「これはですねえ、ちょっと申し訳ないんですけど、どうしようもないじゃないですか、高橋愛という、あのー生き物は。私の中ではどうしようもないな、っていう、こうなんかこうだから男の人はそこをかわいらしいなあと思って、尽くしてもらうタイプ」。

それを受けて司会の石川さん、「守ってもらう、ということですね」。

ガキさんに次いで高橋さんと親しい藤本さんの高橋愛感はちょっとおもしろい。確かに「男の人」に「かわいらしい」と思ってもらえるタイプというごく一般的な説明が主軸になっているのだが、そうした理解から、しかし微妙にずれた説明が紛れ込み、藤本さんの説明を攪乱している。それが表に出たのが「尽くしてもらう」という言葉。そのぶれを石川さんは素早く補正し、「守ってもらう」と言い換える。

しかし藤本さんの「真意」はおそらくもとの「尽くしてもらう」という言葉の方に出ているのだ。少し一般的な形で整理しよう。

  1. AがBに尽くす。
  2. AがBを守る。

このとき、1のAは「女性」を想像させ、2のAは「男性」を想像させる。このジェンダー規範に従えば、高橋愛という女性アイドル(しかもモーニング娘。においてリーダーの吉澤ひとみやサブリーダーの藤本美貴が一般的に「男性的」と称されるのに比較して高橋は「女性的」なポジショニングにある)は「尽くされる」のではなくて、「守られ」なければならない。それが石川さんが藤本発言を修正した理由だ。そのもとで高橋は、一般的な理解に従った女性的なポジショニングをするものとして安定する。

しかし藤本さんの実感はそうではなかった。藤本さんが最初に選んだワーディングに従えば、高橋は「尽くされる」存在なのであって、それは「駄目男」のポジションだ。そしてそうした駄目っぷりを「どうしようもない生き物」といいながら温かく見守る藤本さんは「母性本能」に満ちた女性の目で高橋さんを見ていることになる。

藤本−男性的、高橋−女性的というある種の見方とは裏腹に、藤本−高橋二者の間では各々の担っているジェンダーはむしろ逆、「どうしようもない」オタク系少年の高橋をおもしろがりながら見守るしっかり姉さんの藤本、という図式なのではあるまいか。

■ 最高のチームだ

好きすぎて バカみたい

好きすぎて バカみたい

金曜日に入手。

カップリングがなくて、表題曲のリミックスだけなので、つまらない。表題曲はテレビ他でさんざん聴いたので、今更感動もない。CDで聞けば音がよい、というだけの耳とか設備があればよいのだが、私はどのみち聞くのはノートPCプラス安物のイヤホン、ついでにCDを挿入するといきなり愛ちゅんもといiTunesが立ち上がって、リッピングしてしまう設定にしているので、CD音源で曲を聴くことがそもそもない。CD買っても、どうせ聞くのは圧縮音源だ。

ということで、CDを買ったのはほとんど義理なのだが、このユニット自体は悪くない。去年の後浦なつみに新たに石川梨華が加わることで微妙に人間関係に影響があったりして、それが楽しい。

後浦なつみでは、なんだかんだ「後輩」の松浦さんを意識している安倍さんと、それを正面から受け止める松浦さんが微妙な空気を発しているところに、その手の人間関係に無頓着なくせに、二人の間に距離があることをなにげにうれしがっている後藤真希、というまとまる要素ゼロで、それはそれでとてもスリリングでおもしろかったのだが、石川さんが加わることで空気が変わる。

石川さん、後浦なつみの微妙な空気感には基本的に耐えられない繊細さと責任感の持ち主なのだろう、やや無理気味に「普段の石川梨華」を演じて見せて、道化役を務め、場を和ませようとする。そうした空気をこれまた微妙に読んで反応する安倍なつみ、少しゆるんだ空気に気をよくする松浦亜弥、そして何も感じない後藤真希、という絶妙のコンビネーション。

2005年10月18日

■ ガキさんが泣いた日

ガキさんこと新垣里沙さんが誕生日を迎え、娘。コンサートでファンが盛大に声援を送ったという。感激のあまり、ガキさん涙をこぼしたというレポートを読む。

そのレポートを読んだのが仕事帰りの電車の中。不覚にも私も泣きそうになった。ガキさん一人に向けられた大声援。参加もしていない私が言うことではないが、娘。ファンとして背負ってきた重荷を下ろした気持ちだった。

2001年加入当初の頃を嫌でも思い出す。それはおぞましくも不思議な状況であった。まだ5期4人の加入が決まったばかり、まだ私などは新メンバーの個性やら何やらをつかむ前に始まったバッシング。2chとか(そのころあったかどうかも記憶にない)Yahoo掲示板とか、そういう吹きだまりのようなところはさしあたりどうでも良い、大手のファンサイトの掲示板でもバッシングが公然となされ、それが管理サイドで黙認されるような状況。そうして「現場」、コンサート会場でもそうした空気が明確に出たと聞く。

一般にハロプロファンは、ネットではバッシングばかりをしているものたちだ、とイメージされることもあるかも知れないが、少なくとも「現場」はそういうことはなかった。実際お金を払って会場まで見に行くものたちだ。ネットで、口先で、ファンだなんだと言っているものとは意味が違う。しかしそうした現場でも新垣さんに対する否定的な空気が流れる、それはまさに「異常」と言うしかなかった。

私は、早い段階からガキさん(とは当時は言わなかったが)贔屓だった。もちろん安倍ヲタなればこそだ。なんと言っても新メンバー4人で、あこがれの人を皆が「後藤さん」と応える中で、「安倍さん」と言ってくれた人だ。可愛いに決まっているではないか。

さらによく言うことを聞けば、新垣さん、普通に娘。ファンで、コンサートにも行き、安倍さんのグッズなんかを買って、「なっち〜」と声援を送っていたという。そうして娘。にひたすら一途にあこがれ、オーディションを受け、念願の娘。入りを果たした。後藤真希の再来ならぬ保田圭の再来だ。自分がスターになりたいのではなくて、少しでも娘。に近づきたい、娘。を支えられるものなら支えたい、例え「一推し」にしなくても、娘。ファンなら皆が娘。自身を、ひいては自分の推し面を支えてくれることに感謝しなければならない存在ではないか。

私は柄にもなく、某大手ファンサイトの管理人に、バッシング書き込みを放置したことを抗議し、今後の善処を求めるメールを出したぐらいだ(管理人の一人である加護「右翼」として知られる人から丁寧な返事をいただき、私の知る限り状況は改善された。その管理人氏は彼なりにいろいろ運営には悩んでいたわけで、決して黙認していたわけではなかったということもわかった)。

いつからだろう、ガキさんの「娘。愛」は娘。ファンなら皆が知るところとなった。しかしその前に我ら娘。ファンがガキさんにした仕打ちのひどさは簡単に返済できるものではなかったはずだ。

ファンの声援に、ガキさんが感激し、涙をこぼした日。借金は完済できたのかも知れない。

2005年10月16日

■ 福井弁講座

高橋愛による福井弁講座の最終回。

すきぶずき。まあ、あの五分五分、みたいな。ああ、まあすきぶずきあるわのー、とか。いやー、言う気がするんだけどな、こっちでも」

なんか少し説明おかしくないか。もしかして「好き好き」という意味か?

「あと、のー、はまあ、無難ですよね」。

「無難」って。「説明しなくても意味がわかる」といいたいんでしょ?少し言葉の使い方が変じゃないか?

「あと、もつけねー。もつけねー、とか。これはすごい盛り上がったんですけど、二人で。ああ、もつけねーとか言うがの、とか言って。これは、かわいそう、とか、ああ、もつけねーのー、とかなんか、なんて言うんだろ、そんな重い言葉じゃないんやけど、ああ、もつけねーのーとかいう感じ。伝わったかな、そんな感じです」。

言葉数の割に情報量が。

ということで、まあ、何とか、規定回数無事終了。

お疲れ様。

2005年10月14日

■ つるつるいっぱい

高橋愛ゴト。もろもろの事情で(単にリアルタイムで見られない地域在住のため)常に少しずつ遅れた更新。

スタッフの努力が完全に実を結んでいる。故郷の友達に電話させて、視聴者向け福井弁講座のネタ収集。

なるほど、友達同士の会話を聞いていると、見事ななまり。テレビに出ているときは方言が「全然出ませんねー」と少しなまりながらいっていたのもうなずける。

「おちゅきんしねま、とか言うが、普通に。で、それ以外あまりないやろ。あんまなくないか。うっそお」。

「じゃみじゃみは通じんなあ」。

「つるつるいっぱいかあ、それは言うやろ、普通に」。

「え、言わんのかあ?」。

・・・

「ああ、言うのお、言うのお」。

・・・

と、かなりきつい福井弁で会話が進行。

いよいよ視聴者に向けて、福井弁講座。

「つるつるいっぱい。これは(福井以外の人も)言うよなあ。でも一応書いときました。つるつるいっぱい」。

・・・

「これ説明せなわからんもんな。これ、つるつるいっぱいはまあ(お茶が7割ぐらい入っているコップを持ち上げて、乾杯するような仕草をして)、つるつるいっぱい、ていう」。

え?で、「つるつるいっぱい」って結局何なんですか*1

*1:ググればすぐにわかりました。高橋さんの説明、適当すぎ

2005年10月13日

■ 千は千だよ

サイト巡りをしていると、宇喜多千が安倍なつみと「確定」したという記述を見かける。ちょっと驚き、少し落胆する。ファンがあれこれ推理はしても、公式にはあくまで「宇喜多千は宇喜多千だ」と言い張って欲しい、そう思っていた。

名目が違えばあくまで別人格。しかしイコールだと公式に認めてしまえば、人格は統合される。私は安倍なつみとは別の宇喜多千を見たいのだ。

ある意味閉塞状況のハロプロ、そして一年前のことを多少なりとも抱えざるを得ない安倍なつみ。そうであればこそ、ここは「攻めて」ほしい。「安倍なつみ」は温存して、「宇喜多千」で攻める。有利な戦いではないか。安倍なつみには失うものがあるが、宇喜多千には失うものは何もない。ただひたすら攻めるのみ。そうして「世界」を望もう*1

改めていろいろ情報を調べてみると、単に「実質確定」と言っているだけであって、公式に認められた、とかそういうことではないようだ。ほっとする。

*1:変に誤解する人間がいないとも限らないので注釈。「世界」とは別に全米進出とかそういうアホなことを言っているのではない、念のため

■ 努力の成果

高橋愛の一人語り四回目。

早口言葉やらなにやら指令に応えたり、お母さんと電話したり、ガキさんから電話がかかってきたり、高橋さん、じゃなくて、スタッフ、がんばっているな。

そういえば前の今や伝説となった高橋愛の「二人ゴト」、何かひどいことになっていたっけ、と思いだして、改めて見返す。

最初は勢いよくお母さんの話をしたりして、結構しゃべっているのだが、途中で話題が尽きたようで、挙動不審に陥る。

突然「よし、絵を描こう」。

黙々と自画像を描く。書き終わってまた時間をもてあます。

「バーレッスンしよ」。

クラシックバレー?の動きをソファー越しに行う。

「見えないかな。いいや」。

黙々と踊る。本当に見えない。

「やめた」。

「どうしよう、何しよっかなあ」。

台所に消える。

「なんもなかった」。

しばし沈黙。

「お水いただきます」。

飲む。

「旨い」。

自画像を描くのに使ったクレヨンの箱を見る。

「クレヨンだって」。

沈黙。

「発声しよっかな、どうしよう。やめたー。今日声でないから」。

沈黙。

場面切り替わってなぜかテレビカメラの前で本を読んでいるシーン。

沈黙。

どうやらスタッフが業を煮やしたらしく、亀井絵里が乱入。

ただ者ではない。

2005年10月12日

■ 愛ゴト

いろいろ精神的にしんどくて、なかなか更新する余裕もないが、娘DOKYU!の高橋愛の発言をテキスト化するだけで十分ネタになる。もちろんそんなテキストは全国1億2千万人の娘。ヲタが書くだろう故、飽和状態ではあるのだが。

と言うことで、オチは後回しにして、高橋愛、その発言のある種のつたなさからして、高橋さんに好意的な人ですら「頭はちょっと弱い」というような発言をするのを見かけることがある。確かにそう思いたくなる部分があるのはわかる。しかし私は実際にはそう思ったことはない。彼女は頭が悪いんじゃない。ただちょっと性格的に変わっているだけなんだ、ってこれはフォローになっているのか?

昨日の高橋愛ゴト。早口言葉の続き。

「シカもカモシカもシカだが、しかしアシカは確かにシカではない」。

「そりゃそうだな。・・・そりゃそうだ」。

「キツツキ木突き中、きつく木にぶつ・・・え?キツツキ・・・、キツツキ木突き中、キツ、きつく木に頭突きキし、キツツキ気絶し、木突き続けられず」。

「『つ』ばっかだな。・・・こーんなのわからんよー」。

皮肉でも何でもなく、そこはかとない知性を感じないか?

2005年10月11日

■ 高橋ゴト

昨日の続き。高橋愛さんに変わって二回目。

部屋に仕込んであったプードルをひたすら愛でる。ほとんどぬいぐるみ扱い。視聴者不在。時々思い出したようにプードルの顔をカメラに向けるが、いや、別にプードルの顔なんて見たくないし。

新垣さんの時とうってかわって、数秒間なにも音がしない時間が入る。そして口を開けば「可愛い、これ」。放送一回あたりの情報量の差たるや凄いものがある。

こうなることをガキさん予想していたか、「早口言葉をやれ」との指令を残す。早速挑戦するが、「青巻紙、赤巻紙、黄巻紙」。見事に言えない。「駄目だこれ、言えん、駄目」と言ってさっさと次に移る。

「ブタがブタをぶったら、ぶたれたブタがぶったブタをぶったので、ぶったブタとぶたれたブタがぶったおれた」。

「これ、意味がわからん」。

いや、わかるし。もう一度じっくり読み返す。ようやく意味が頭に入ってきたよう。そこで一言。

「ブタばっかだな」。

2005年10月09日

■ オタク少女

モーヲタ界隈が文化祭とやらでにぎわっているこの週末、関西から横浜まで行く気力・財力なく、だらだら家で過ごす。

関西では放送されていない「娘DOKYU!」を例によってごにょごにょしてみる。ちょっと前に放送されていた「ひとりごと」リターンズみたいな内容。娘。メンバーが部屋で一人でいろいろしゃべっているのをだらだら放送する、という娘。生態マニアにはたまらない一品。

初回登場はガキさんこと新垣理沙。相変わらず娘。愛に満ちたしゃべり。とくに「五期」への愛情たるや見上げたものだ。もちろん視聴者へのサービス精神も忘れず、いろいろ話題をかんがえながら、一生懸命しゃべっている様子がいじらしい。ただところどころの喋りが少しおばさんっぽかったりして、なんとなく可笑しかった。

それに対して、その後を引き継いだ高橋愛。君はその、オタクやろ?テレビカメラの前で、いきなり一人でゲームにいそしむ。その後もひたすら自分の世界に没入。規定回数、間が持つのか、かなり心配。

2005年10月08日

■ 部分移転

先日予告しておりましたとおり、サイトの運営方針を若干改め、本ブログの一部を移転します。

重層的非決定

ただし上記URLは恒常的なものになるとは限りませんので、

Would-be Marxist’s Page

からアクセスしていただく方が確実です。まあ、URLが変わるときには告知はしますので、大丈夫とは思いますが。

移転先はこれまでここの[nacci]以外のカテゴリーの内容全般が対象となります。ということで「nacci]以外のカテゴリーの読者の方(いるのか?)はそちらの方をよろしくお願いいたします。向こうでもハロプロ関連は取り上げることもあり得ますが、かならずしも「ファン」としてのスタンスで書くわけではありませんので、人によっては不愉快な記述もあり得ます。

こちらのサイトでは引き続き[nacci]カテゴリーを更新していきます。たまに[memo」も書くかも知れません。政治ネタなどは扱いません。スタンスとしてはこれまでよりも「ファン」としての立場を意識して書きます。

もともとこのサイトはファンサイトではありませんでした。あくまでも社会・文化批評を行う場として設けたものであり、たまたま書き手がハロプロ・安倍なつみファンであった、というだけのことでした。そして政治・哲学・社会思想・アイドルを同時に、等価なものとして語る、という理念をサイト名に込めました。そうして私が目指したのは「アルチュセールでモーニング娘。を語り、モーニング娘。でアルチュセールを語る」というものでした。

上記もくろみはさておき、政治ネタとハロプロネタを同時に記述する、というのはとても危ういことであることはわかっていました。政治ネタ、その他のネタで本サイトにきた人にモーニング娘。の宣伝をするのは本意でしたが、その逆、モーニング娘。ネタで来た人にある種の政治的な主張を読ませるのは本意ではありません。元々のサイトはモーニング娘。ファンなど来るはずもないサイトだったので、そちらの方はあまり気にする必要がなかったのですが、ここ「はてな」に来てからは、キーワードシステムのおかげで、モーニング娘。関連で来る人が明らかに増えました。そしてまたファンサイトからリンクを張っていただけるようにもなりました。それは元のサイトの状況からするとまさに天国のような状況です。改めて言うことでもありませんが、私はそれをとてもうれしく、かつ誇らしく思っています。そしてそれだけにモーニング娘。関連で来ていただいた読者に対する責任のようなものを考えるようになりました。それはつまりモーニング娘。をある種の政治宣伝の道具にすることを止めなければならない、ということです。

わたしはファンサイトで「嫌韓・反中」感情を書き立てるサイトに敬意を表する気はありません。またファンサイトの掲示板でそのような書き込みをするものを軽蔑しています。わたしはモーニング娘。に文化的なユートピアを見ようとしている、それをくだらない、吐き気を催すような「政治」的亀裂を無理矢理生み出すような記述で汚すことを認めることは出来ない。しかしある水準で私がやっていることもそれと同じではないか、と言われると、本質的には違うと思っているけれども、表面的にはやはり同じようなものだ、と見なされることもやむを得ないとも思う。結局モーニング娘。を政治的対立の具にしているという意味では確かに大差はない。

別の角度からこうも言えます。「安倍なつみ」に対して中立的で、政治的には私とは真逆の立場の人がこのサイトを見たとき、私の主張に対する嫌悪感が「安倍なつみ」に対する嫌悪感にすり替わる危険性を排除できない。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは幼稚なようであれ、それほど馬鹿にした感情でもないだろう、と言うのが私には感覚としてあります。

いずれにせよ、そうしたことを、実はこれまでもそれなりに意識して、自分で言い訳をしながら書いてきた、それは少なからず私の書きたいことを書く、と言う上ではブレーキになってきた。しかしそれは元々サイトを運営してきた私の意図からすると少し違うのではないか、そういう思いが強くなってきたのです。

ものを書くという行為は人を傷つけることが多分にある行為である。それは一般的に言ってまさしくその通りです。そして「だからそれを意識して、書く内容をコントロールしよう」というのも正しいことです。しかし時にはそれとは逆に、「人を傷つけうることを知りつつ、断固として書く」ということが大切なこともある。それだけの覚悟を持った文章というものはそれだけの価値がある。私は本質的にそのように考えてきました。もちろんそれはただ「書き殴る」「書き散らす」と言うことではありません。そのような行為には覚悟もへったくれもありません。

私は、それなりにこのサイトの文章を読んでいただければ、わかると思いますが、多分にパラノイア気質を持った人間です。納得の出来ないことにはとことん食い下がる。客観的に重要である、ないの判断以前に、引っかかったものに拘泥する。それは情報に満ちあふれた現代、ちょっと情報を見聞きしただけで、物事を裁断してしまう「評論家」たちに対する抵抗という意味合いも多分に意識しています。

ファンサイトなどでなされる「評論家」的見方に反対する主張としては「そこに愛はあるのか?」という問いがある。まさにその通り、「評論家」たちには「愛」がない。ただファンサイトの言う「愛」と私の思う「愛」は違う。例えば「愛ある批判なら良い」という言い方があります。それはいわば自らを応援対象に対して教え導く、啓蒙的な立場に置くことです。私はそのような立場に立ってものを言うつもりはない。私の言う「愛」とは、言ってみれば「関心」のことにすぎず、批判とは対象のためにするものではなく、私自身のためにするものに他なりません。

例えば私はこのサイトで矢口真里さんに対して批判的なことを書きましたが、別に矢口さんに対するメッセージ的な意味を込めて書いたわけではない。単に彼女の言動が私からして不可解であったから取り上げたのであって、しかもそうした不可解さが、現代社会の症候の一つを表現しているように思えるが故に、私は矢口さんから目を離せないのです。改めて言うまでもありませんが、その症候は矢口真里さんの症候ではなく、私自身の症候です。

こうした態度は、しかしファンサイトとして読まれる限り、大いに誤読を招くものです。そしてそれは、たとえば矢口さんファンと安倍さんファンとの間に亀裂をもたらしかねない危険さを持っています。そのような亀裂をわざわざこの場にもたらすのは全く持って不適切でしょう。「批評」的言説の持つ力を一方で確信を持ちながら、それをこの場で行うことの意味を考えたとき、やはりここの場所で「批評」的言説を連ねることは止めようと思うに至りました。

長々と書いてきましたが、話は簡単で、キーワードからリンクが張られ、サイトの趣旨とは無関係に読み流される「はてな」の場では「批評」など出来ないし、するべきでもない、というのが私の結論です。あわてて言い添えますが、これは「はてな」批判ではありません。単に場の不整合というだけのことです。「はてな」自体は依然としてとてもおもしろい場だと感じています。それ故、この場はこの場として、少しスタンスを変えて残します。ここはいわば「ファンをする」という実践の場となれば、と思います。と言っても所詮「在宅ヲタ」、実践と言ってもたかが知れていることは今から明らかではありますが。

ということで長々と書きましたが、こちらと向こう、各々よろしくお願いいたします。

言い忘れましたが、こちらのサイト名は変更するかも知れません。今のところ未定です。

2005年10月07日

■ 「たからもの」

ちょっとここのサイトに関して、運営方針など検討中。どういうスタンスでものを書くか、ということなど。

というので、準備が整うまで更新を少し休止しようと思っていたのだけれど、この件だけは少し。「音楽」カテゴリーを作らなかったので、何となくこのカテゴリーで。

期待の新人歌手宇喜多千が歌う「たからもの」。

訥々と歌っていて、歌唱力を誇示するとかそういうノリでは全然ないのだけれど、楽曲、歌詞、そこに表現されているものをとても大切に歌っている、そんな歌唱。こういう歌のうまさというのがあったのだ、ということに今更ながら気づかされる。とても素朴な曲で、のりがいいとかそういうのでは全くないが、何回繰り返しても飽きない。

たとえて言えば、誰の歌い方に近いかな。といってもハロプロしか聴かないから、例えの幅が狭いな。ちょっと元カントリー娘。のりんねを思い出した。りんねの歌、好きだったな。

というわけで、今(といってもここ十年来か?)はやりのJ-Popとか言うのとはずいぶん違うノリの曲だが、声も楽器の一つというのとは対極を行く、歌い手の息づかいが聞こえてくるような気持ちのこもった歌。

全然白々しくない更新だ、我ながら。

2005年10月04日

■ 高垣なつみ

なちコンでガキさんこと新垣里沙さんのことが話題に出たらしい。亀ちゃんこと亀井絵里と映っている写真を安倍さんに送ってきたとか。なちガキ。久々に聞く取り合わせ。

ガキさんといえば、高橋愛と仲がよいことでファンの間では知られている。安倍なつみと高橋愛、何となく直接の絡みが少なそうで疎遠な感じの二人の間にいる新垣里沙。私にとっては最高の立ち位置だ。

■ 制覇

後期が始まり、週休4日制に突入。体力が持たない。

昨日は外で仕事。今日は疲れて、体調悪く、何もやる気がしない。19時過ぎに部屋の電気をつけたまま、寝てしまう。夢で自動車を押して近所中走り回る。何で車を押して歩かなきゃいけないんだ。あまりに疲れ果てて、目が覚める。

起きてつけっぱなしのPCでネットを見たら、モーニング娘。新曲が発表されている。アルバム「愛の第六感」収録の「直感〜時として恋は」のアレンジを変えて、シングルカットするという。アルバム曲のシングルカットってモーニング娘。では初めてだろうか。何でこの時期にわざわざそんなことをするのか、少し理解に苦しむ。つんくはよほど曲を作る意欲が減退しているのか。

これまたどうでも良い話だが、先日ようやくモーニング娘。全シングル曲をそろえる、ずっと買っていなかった「女子かしまし物語」と「涙が止まらない放課後」を購入。「女子かしまし物語」は中古だが、「涙が止まらない放課後」は新品。カップリングの「寝坊です。デートなのに・・・」を高橋愛が香港ツアーでソロで歌ったと聞き、しかもこの曲を高橋さんが大好きで、ファンの人にも大事にして欲しいとか何とか言っていたらしいということで、中古でも買えるところ、ここは高橋愛に敬意を表して新品の初回盤を購入。

「寝坊です」は曲名からの印象とは何となく違った不思議な曲だった。高橋愛のセンスの一端を見た気がする。

なちコン以来、安倍なつみが脳みそを占有している状態が続いていたが、モーニング娘。および高橋愛のことを考える余地が生まれる。仕事しろよ、おい。

■ 組み合わせ

冬のハロコンの日程などが明らかになる。昨年に引き続き、メンバーを二つに割って実施するらしい。早い話、モーニング娘。のいる側といない側。昨年もそうだったが、やはりモーニング娘。がいない側に対して「客席が埋まるのか?」という疑問が呈される。なんだかんだ言って、ハロプロ内でのモーニング娘。の存在は図抜けている。逆にモーニング娘。のいない側の主力であろう安倍なつみ、後藤真希、松浦亜弥のうち、前者二人はソロツアーを行ったばかり、モーニング娘。ファンに比べ、相対的に単独コンサートへの思い入れの強い二人のファン、確かに求心力は低いかも知れない。

モーニング娘。のいる側の司会に矢口真里。いない側の司会をやればよいのに、との声ちらほら。私もそのように思う。安倍なつみと絡むのはかまわないが、モーニング娘。とは絡んで欲しくない、そんな気持ち。

先日「空飛ぶグータン」という番組で久々に矢口を見た。飽きもせず、娘。脱退のあたりの話をしていた。既知の話ばかりだったが、前にも思ったことだが「何かこの人、この話を武勇伝を語る口調でしゃべるな」と思った。「とっても悩んだ」自分を認めて欲しい、そんな気持ちがにじみ出てくる。

自己の正当性を誰かに認めさせたいという潜在的な想いが溢れてくるのか。「恋愛をしていた自分はなにか悪いことをしていたのか?」。そのような納得の出来ない想いが傷として、矢口の心の中に居座り続けているのか。そう深読みでもしないことには彼女の語り口調は理解できない。そしてそのように理解してしまえば、彼女への不快感は消え、ただ痛ましさのみを感じる。

モーニング娘。にとって矢口真里は「傷」となった。逆に矢口真里にとってモーニング娘。が「傷」となっているのであれば、この両者をつきあわせるのは悪趣味としか思えない。