2005年10月08日
■ 部分移転
先日予告しておりましたとおり、サイトの運営方針を若干改め、本ブログの一部を移転します。
ただし上記URLは恒常的なものになるとは限りませんので、
からアクセスしていただく方が確実です。まあ、URLが変わるときには告知はしますので、大丈夫とは思いますが。
移転先はこれまでここの[nacci]以外のカテゴリーの内容全般が対象となります。ということで「nacci]以外のカテゴリーの読者の方(いるのか?)はそちらの方をよろしくお願いいたします。向こうでもハロプロ関連は取り上げることもあり得ますが、かならずしも「ファン」としてのスタンスで書くわけではありませんので、人によっては不愉快な記述もあり得ます。
こちらのサイトでは引き続き[nacci]カテゴリーを更新していきます。たまに[memo」も書くかも知れません。政治ネタなどは扱いません。スタンスとしてはこれまでよりも「ファン」としての立場を意識して書きます。
もともとこのサイトはファンサイトではありませんでした。あくまでも社会・文化批評を行う場として設けたものであり、たまたま書き手がハロプロ・安倍なつみファンであった、というだけのことでした。そして政治・哲学・社会思想・アイドルを同時に、等価なものとして語る、という理念をサイト名に込めました。そうして私が目指したのは「アルチュセールでモーニング娘。を語り、モーニング娘。でアルチュセールを語る」というものでした。
上記もくろみはさておき、政治ネタとハロプロネタを同時に記述する、というのはとても危ういことであることはわかっていました。政治ネタ、その他のネタで本サイトにきた人にモーニング娘。の宣伝をするのは本意でしたが、その逆、モーニング娘。ネタで来た人にある種の政治的な主張を読ませるのは本意ではありません。元々のサイトはモーニング娘。ファンなど来るはずもないサイトだったので、そちらの方はあまり気にする必要がなかったのですが、ここ「はてな」に来てからは、キーワードシステムのおかげで、モーニング娘。関連で来る人が明らかに増えました。そしてまたファンサイトからリンクを張っていただけるようにもなりました。それは元のサイトの状況からするとまさに天国のような状況です。改めて言うことでもありませんが、私はそれをとてもうれしく、かつ誇らしく思っています。そしてそれだけにモーニング娘。関連で来ていただいた読者に対する責任のようなものを考えるようになりました。それはつまりモーニング娘。をある種の政治宣伝の道具にすることを止めなければならない、ということです。
わたしはファンサイトで「嫌韓・反中」感情を書き立てるサイトに敬意を表する気はありません。またファンサイトの掲示板でそのような書き込みをするものを軽蔑しています。わたしはモーニング娘。に文化的なユートピアを見ようとしている、それをくだらない、吐き気を催すような「政治」的亀裂を無理矢理生み出すような記述で汚すことを認めることは出来ない。しかしある水準で私がやっていることもそれと同じではないか、と言われると、本質的には違うと思っているけれども、表面的にはやはり同じようなものだ、と見なされることもやむを得ないとも思う。結局モーニング娘。を政治的対立の具にしているという意味では確かに大差はない。
別の角度からこうも言えます。「安倍なつみ」に対して中立的で、政治的には私とは真逆の立場の人がこのサイトを見たとき、私の主張に対する嫌悪感が「安倍なつみ」に対する嫌悪感にすり替わる危険性を排除できない。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは幼稚なようであれ、それほど馬鹿にした感情でもないだろう、と言うのが私には感覚としてあります。
いずれにせよ、そうしたことを、実はこれまでもそれなりに意識して、自分で言い訳をしながら書いてきた、それは少なからず私の書きたいことを書く、と言う上ではブレーキになってきた。しかしそれは元々サイトを運営してきた私の意図からすると少し違うのではないか、そういう思いが強くなってきたのです。
ものを書くという行為は人を傷つけることが多分にある行為である。それは一般的に言ってまさしくその通りです。そして「だからそれを意識して、書く内容をコントロールしよう」というのも正しいことです。しかし時にはそれとは逆に、「人を傷つけうることを知りつつ、断固として書く」ということが大切なこともある。それだけの覚悟を持った文章というものはそれだけの価値がある。私は本質的にそのように考えてきました。もちろんそれはただ「書き殴る」「書き散らす」と言うことではありません。そのような行為には覚悟もへったくれもありません。
私は、それなりにこのサイトの文章を読んでいただければ、わかると思いますが、多分にパラノイア気質を持った人間です。納得の出来ないことにはとことん食い下がる。客観的に重要である、ないの判断以前に、引っかかったものに拘泥する。それは情報に満ちあふれた現代、ちょっと情報を見聞きしただけで、物事を裁断してしまう「評論家」たちに対する抵抗という意味合いも多分に意識しています。
ファンサイトなどでなされる「評論家」的見方に反対する主張としては「そこに愛はあるのか?」という問いがある。まさにその通り、「評論家」たちには「愛」がない。ただファンサイトの言う「愛」と私の思う「愛」は違う。例えば「愛ある批判なら良い」という言い方があります。それはいわば自らを応援対象に対して教え導く、啓蒙的な立場に置くことです。私はそのような立場に立ってものを言うつもりはない。私の言う「愛」とは、言ってみれば「関心」のことにすぎず、批判とは対象のためにするものではなく、私自身のためにするものに他なりません。
例えば私はこのサイトで矢口真里さんに対して批判的なことを書きましたが、別に矢口さんに対するメッセージ的な意味を込めて書いたわけではない。単に彼女の言動が私からして不可解であったから取り上げたのであって、しかもそうした不可解さが、現代社会の症候の一つを表現しているように思えるが故に、私は矢口さんから目を離せないのです。改めて言うまでもありませんが、その症候は矢口真里さんの症候ではなく、私自身の症候です。
こうした態度は、しかしファンサイトとして読まれる限り、大いに誤読を招くものです。そしてそれは、たとえば矢口さんファンと安倍さんファンとの間に亀裂をもたらしかねない危険さを持っています。そのような亀裂をわざわざこの場にもたらすのは全く持って不適切でしょう。「批評」的言説の持つ力を一方で確信を持ちながら、それをこの場で行うことの意味を考えたとき、やはりここの場所で「批評」的言説を連ねることは止めようと思うに至りました。
長々と書いてきましたが、話は簡単で、キーワードからリンクが張られ、サイトの趣旨とは無関係に読み流される「はてな」の場では「批評」など出来ないし、するべきでもない、というのが私の結論です。あわてて言い添えますが、これは「はてな」批判ではありません。単に場の不整合というだけのことです。「はてな」自体は依然としてとてもおもしろい場だと感じています。それ故、この場はこの場として、少しスタンスを変えて残します。ここはいわば「ファンをする」という実践の場となれば、と思います。と言っても所詮「在宅ヲタ」、実践と言ってもたかが知れていることは今から明らかではありますが。
ということで長々と書きましたが、こちらと向こう、各々よろしくお願いいたします。
言い忘れましたが、こちらのサイト名は変更するかも知れません。今のところ未定です。
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