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2005年07月27日
■ 初恋妄想
ナチヲタ界隈ではほとんど話題にならず、現役モーヲタが必死になって走り回っている今日この頃、皆様いかがお過ごしですか。
モーニング娘。新曲「色っぽい じれったい」。握手抽選券付きということで、複数枚数確保に走る人多数。とりあえず私は一枚買おうと思って二件回ったがどちらも影も形もなかった。売り切れとかそういう表示もなく、ただものがない。入荷数少なすぎ。
握手は、まあ、申し込むかどうかさえ不明。とりあえず申し込んで、抽選待ち、とも思ったが、当たったらやはり行かなくてはいけないような気がするのでちょっと慎重に考える。生愛ちゃんは見てみたい。でも握手はねえ。多人数の握手会だから、スタッフもぴりぴりしているだろう、向こうからすればこっちはストーカー予備軍みたいなものだろうから、客扱いどころか人間扱いしてもらえないんじゃないか、なんて思ったりもする。
そんなこんなですっかり高橋愛にはまっている今日この頃ではあるが、「うろ覚えゼミナール」なんかでなっちを見ると、何となくほっとする。「お、なっち、久しぶり」みたいな。逆に高橋愛は全然ほっとさせてくれない。何が出るかな、玉手箱。全然正体がつかめず、見ていてはらはらさせられる。かつてはなっちにはらはらさせられたものだが、今やすっかり幼なじみの心境だ。
■ 身内妄想
安倍なつみより高橋愛の方にどきどきする、といっても一押しが変わったとかそういうことではない。なんと言っても、悪口をかかれてカッとくるのは断然なっち。高橋さんへの悪口は、冷静にスルーできる。安倍さんへの悪口は、たぶん親の悪口を言われるよりむかつく。要するにすっかり身内なんだな、うん。
■ 女王の教室
今クールのテレビドラマの中から早くも脱落一本。「女王の教室」。いろいろ視聴者の間で議論も紛糾、話題たっぷり、作り手してやったり、らしい。おめでとうございます。
「社会の現実」の厳しさを説く女性教師がスパルタ的に学級運営を行い、それに反発する女の子が苦境に立ちながら「戦う」とかそんな感じのストーリー。厳しい「社会の現実」を描きたいのか、女の子の「戦い」を描きたいのか、それがはっきりしない。
何かしらのストーリーを描き出そうとする以前に、「罰」だとか、いじめだとか、そういう「刺激的」っぽいものをちりばめればそれで話題になるだろう、という作り手の卑しさが目について嫌になった。どのみち、作り手はへたれだから、女性教師の言い分が最後まで通るようには作らない。そういうエクスキューズを最後に持ってくる「逃げ道」を作っておいて、とにかく刺激的な部分を強調してみせる。そんなので「問題提起」などとおこがましい。
連続ドラマは、通して一つの筋を持つ一方で、一回一回に全体に通じる作り手の「思い」がほしい。そして、これは私の好みというだけだが、ドラマにこそ、現実の中に隠れている「ユートピア性」をどこかに浮かび上がらせてほしい。通り一遍の「問題提起」とその安全パイとしての「解決」などはいらない。一つ一つのエピソードの中にささやかなユートピアを。
2005年07月24日
■ お買い物
東京方面は一方で地震があったり、他方でハロコンがあったりといろいろな意味で話題いっぱいのようだが、関西はただ暑いだけ。夏ばてで食欲がなく、ろくなものを食っていない。
とりあえずクーラーのついた部屋に引きこもるのも疲れたので、京都市内に出て中古CD屋を漁る。うまい具合に半額セールをやっていた。ということで本日の戦利品。
- アーティスト: モーニング娘。
- 出版社/メーカー: アップフロントワークス(ゼティマ)
- 発売日: 2003/03/26
- メディア: CD
- アーティスト: タンポポ
- 出版社/メーカー: アップフロントワークス(ゼティマ)
- 発売日: 2002/09/04
- メディア: CD
締めて1000円弱。
さらに新品で入手。
全部モーヲタならすでに持っていてしかるべきものばかり。今頃買ったのかよ、というつっこみは甘んじて受けます。
買い物といえば、先日ATOKを購入。MS-IMEをずっと使ってきたが、ちょっと嫌になってきた。JUSTSYSTEMがんばれという思いも込めて。
卒メンを含む娘。メンの本名がことごとく正しく変換されるのに感激。たとえば加護亜依と高橋愛が一発で変換できる。ついでに田中れいな。ひらがなかよ。ずいぶんモー娘。(これも「もーむす」で出た)寄りじゃないか。やっぱJUSTSYSTEMがんばれ。断然がんばれ。松下なんかに負けるな。
最後におまけに、大谷間さえ、駄目じゃん。
2005年07月23日
■ 地雷
# UandU 『このキーワードもid:althusserさんがいずれ復帰されるでしょうが、はてなダイアリーキーワードは削除することで問題提起(編集者にメールが届く)するシステムとなっています。しかしながら、私の問いに答えてくれた人が皆無で復帰というのはいささか寂しいですね。』 (2005/07/23 15:07)
編集もコメントもしたことのないキーワードに名前を出していただいて光栄でございます。
何というか、ヒステリー*1を起こさせちゃったみたいね。何となく人間像がうかがい知れるなあ。関わりたくはないけれど精神分析的観察対象としてはとてもすてき。
*1:キーワードの「ヒステリー」の説明の貧弱さにがっかり。きちんとフロイト先生の説明をふまえた説明文を書いてほしかったなあ
■ 謝罪文
書いちゃったものは単純なミス以外は修正しない主義なので、訂正とともに謝罪文。
上の文で「確実に」と書いていますが、確実ではありません。かなりの疑いはありますが、証拠はありません。というわけでお詫びするとともに訂正させていただきます。
ただリンクスコアはハロプロに日記で日常的に言及している人数に比して、あまりに棄権が多く、未だ投票としての価値は薄いと思っています。思いのあるものが投票しているのだから、その結果を尊重すべきだ、という主張もあり得ますが、要は一部でのみ盛り上がっているにすぎない話ではないか、ということでもあり、まずはリンクスコア云々を主張する前にもっと「世論」を盛り上げるのが何事かをなさんとするものの努めでしょう。
いったんネット上にあげられた情報の削除というのは、その情報がどんなに糞であっても慎重の上にも慎重でなければならない、というのが私の立場。ネットとはそういう糞みたいな情報の集積の上に成り立っているのであって、それを含めて私(たち)はネットを利用しているはずです。糞な情報が満ちあふれることよりも、一部のものの思惑だけで情報が消されることの方に私は危機感を覚えます。
■ (●´ー`)大東亜共栄圏だべさ
先日安倍さん関連の話ばかりでつまらなくなった、とコメントをいただいた。それは申し訳ないことでした、というよりまだ安倍さん関連以外の読者がいることのほうに驚いた。長い不調、というより日々の生活でいっぱいいっぱい、「艶」のある話以外書くエネルギーがない。完全週休「5日」制が実現すれば、と思うが、なかなか難しい。
またはてなのキーワードシステムのおかげで、安倍さん関連の読者が増えて、それ以外の話題がちょっと出しづらくなったというのもある。あまり政治的な話題を出していたら、それを不快に思う人も出てくるのではないか、とか。私だってハロプロ系の話題をしているところで突然北朝鮮がどう、朝日新聞がどう、などという記述をみたらかなり引く。
さる掲示板で、ナチヲタをやめることと己の政治的立場を放棄することとの選択を迫られたら、などというばかげたことが話題になっていた。もちろん私は己の政治的立場を守る、などと考えていて、そんな選択が迫られる場面とは具体的に何だ?ということで安倍なつみが皇国史観バリバリのエッセイ集を出したら、なんてのを想像してみた。ん?それはそれでかなり萌えられるかも。
■ 最悪
この人物のでたらめさを確認するために保存。
# UandU 『「不憫」とは「かわいそう」という意味ですか?不便ではなくて。私のハロプロキャラのAA削除移行に際して頂いた意見は日記上で散見され拝見したのですが、思うにこれはキーワード属性的には「愛称」に近い存在なのかという感覚を得ました。この愛称的AA登録をもって「このAAが持つ萌え属性レベルが近い同好」の言及日記を捕捉するために有用なのかという私側の理解です。復帰される意向をお持ちなら特に異存はございません。それなら何故削除したと言われそうですが、私個人で存在に疑問を持ち、登録及び使用者にこのキーワードの必要性をお教え願いたかったからですので悪しからず。しかしながら、これを「愛称的なキーワード登録」と分類しても機種依存文字の問題や完全一致特性に則さないという問題を孕んだままであり、存在の違和感が変わらないことは事実です。以上お騒がせ致しました。』 (2005/07/24 01:46)
「個人」で疑問?ほう。
で、お騒がせしました?ほう。
で、カテゴリー変更はそのまま?
自分勝手の域を超えていますね。
■ 視線のその先
つまらない、といわれて、その評価は当然ではあるが、しかしある意味いかんともしがたいよなあ、と思いつつ、しかしまたその「いかんともしがたさ」に何となく引っかかっている。
一つは私の慢性的精神的疲労の産物だ。政治的・哲学的・思想的な語りというのは勢いで書けるものでもないために、それなりにエネルギーを要する。そうしたエネルギーの供給源(リビドーとでも言おうか)がハロプロ以外に今は見あたらない。
またそれとは別にやはりこの「はてな」という場、システムにも関わっているようにも思う。前のサイトは本当にひっそりと己の思いだけで、その思いを書き連ねることが許されていた。見に来る人は同じ志向を持っている人だけと事実上決め込んでいられた。しかしこの「はてな」という場はそうではない。たとえ何気なく話題に出した言葉からでもどんどんリンクされ、アクセスされる。もちろんそうしたシステムからくるおもしろさを感じたからこそこの場を選んだのは確かだ。その意味では功罪つけがたい。ただ前のサイトとはどうにも書く側の意識は変わらざるを得ない。「見られている」という意識で書く文章は、一方で緊張感を保てるなどよい効果を及ぼすこともあるだろうが、また一方ではラディカルさを損なう効果も及ぼす。ラディカルとは政治的な主張の偏りの度合いを言いたいのではない。そうではなくて、日常ささやかな事柄に「問題」を見いだしていく、そうしたパラノイア的な思索・姿勢のことだ。
■ くそったれ運動
キーワードの件についてはしばらく静観。元々は削除側に共感する部分も結構あったのだが、今回の件その他削除側の行動をみていて、完全に考えを変える。
ついでに削除側は「リンクスコア」結果を金科玉条のごとく奉るけれど、それもどうかと思う。削除側の人間で少なくとも一人、確実に複数IDを使い分けている人間がいる。そんなことをやる人間がいる時点で意味ないでしょ。
目的の正しさを標榜すればこそ、手段・プロセスにも正しさが要求される。それを欠いた正義などは小ファシズムだ。手段の正しさも、合意形成のプロセスも欠いた今の削除運動などくそ食らえである。
■ 「靖国問題」
かなり前に購入。平易に議論が進められていて、ざっくり読める。
印象に残った箇所。
日本では、中国は「A級戦犯」合祀を理由に日本の首相の靖国神社参拝を批判することによって、日本の戦争責任を徹底追求しているのだ、という印象が広まっている。しかし私の見方は、ある意味で逆である。中国政府は、この問題を「A級戦犯」合祀に絞り込むことによって問題を限定し、一種の「政治的決着」を図ろうとしているのである。
全く持って見事な洞察と言うよりない。
そもそも当初より中国政府は一貫して「日本人民」の政治責任は問わないと明言し続けてきたのである。むしろ「日本人民」も「軍国主義者」たちの被害者なのだ、と。そういう認識に立った上で、中国政府は新生日本に戦後賠償を求めなかったのである。こうした中国政府の問題の「矮小化」に日本は大いに助けられた。中国からすればそれはある意味「貸し」に近いものであったはずだ。そういう経緯があったはずなのに、中国が最低限責任の主体として措定した「A級戦犯」がまつられているところに新生日本の総理大臣が参拝する。それは中国側からすれば「恩を仇で返」されたことに他ならない。
2005年07月21日
■ キーワード
とりあえず落ち着いたようなので、やや節足ながらそろりと問題提起をさせていただきたいと思います。とは言え、このサイトは安倍系サイトとしてきわめて弱小、横のつながりも薄いので、なかなか問題提起が行き渡ることも難しいかとは思いますが、急ぐこともないので、ゆるりと。
いきなりラディカルなことを言って、反発を買うのは必死ですが、実は私は「なっち」というキーワードも独立したキーワードとしてはなくなってもやむをえない、と考えていたりします。いまだ誤爆も見られ、またこうした愛称をキーワードとして登録してしまったところから際限ない登録を許容する下地が出来てしまったようにも思えるのです。
なっちがいいのなら、さゆも良いだろう、ののだって。。。
確かに「なっち」は本名の安倍なつみよりもあるいは知られていたりします。そういう意味では登録は当然のようにも思えます。しかしやはりなっちだけが特別でよい、というのは納得できない人が出てくるのもやむをえないところでもあります。そしてまた困ったことになっちほど安定した愛称は松浦亜弥の「あやや」ぐらいしか見当たらず、一人につき複数のキーワード登録がなされかねない状態を招くのです。また悪いことに愛称の多くは小文字数のひらがななので、一番避けるべき「誤爆」の温床となるという。
とはいえいまさらなっちが削除されることはないでしょうから、ひとつの極論として受け取っていただければ結構です。
さて、現実的なキーワードの整理について。
まずはカッコつき「なっち」。
これが括弧無しのなっちと重複して登録されています。かつて括弧無しのなっちが誤爆の危険性から登録できなかったころの名残です。いまは括弧無しのなっちがあるのですから不要だと思います。いかがでしょうか?
今回問題となった「おけいさんと安倍なつみ」。
これも正式名称があればやはり不要なのではないか、というのが私の考えです。というのもこのキーワードへのやはり言及は明らかに少なく、このキーワードの存在自体がどうにも記録的な意味合いが主であろうと思うのです。となれば正式名称があれば十分そのようは足せるのではないか、将来の可能性としての略称への言及の捕捉、というのがどれほどの意義を持つのか、いまいち私にはつかめないのです。
キーワード登録資源が有限であるとしたとき(当然有限ではありますが、システムによっては限界は事実上無視できるものなのかもしれません。そこがはっきりしないので誤爆の危険性のないキーワードを無際限に登録することの可否がいまいち私には判断できません)、やはり優先順位というものをつけなくてはならず、そうした場合にこのキーワードの優先順位はどうにも高くはないように思えるのです。実際「カントリー娘。に石川梨華」というキーワードは登録されていません。それに比して「おけいさんと安倍なつみ」だけが登録される、というのはややバランスを欠く気がします。
とりあえず今のところはこれだけです。「なちかお」なども本来はこちらで考えてもよいと思いますが、すでにフレームの中に入ってしまっているようですので、手出ししづらいところです。なんにせよ外部のオブザーバーのような立場の人に勝手なことをさせないためにも、本来のユーザがある程度はキーワードにも意識を持っておいたほうがよい、と今回の件を踏まえてあらためて思ったところです。
本件について少しでも思いのある方はコメント欄でもトラックバックでも遠慮なくご意見くだされば幸いです。
■ 警告
キーワード編集は「はてな市民」のみが行える、というのがキーワード編集に関する大原則なわけで、30日間日記をつけることによって、その資格が得られる、というのはこのコミュニティにとって重要な意味を持っているはずです。
それを単にキーワード編集の資格を得るためだけに空白の日記をつけて日数を稼いでキーワード編集を行う人物とまともに話をする筋合いは最初からないわけで、その手の「とんでも」サイトからのトラックバックは受け付けません。
何度削除してもトラックバックを送信し続けるようですが、それもマナー違反もいいところですね。これ以上のトラックバックの送信は荒らしとみなします。
■ 議論
半ば一般論ですが、議論というのはする甲斐のある相手とする場合のみ価値があるものです。例えば青山通りさんが疲弊しきって議論をやめてしまおうとされたのは大変にもったいないわけだけれども、一方で疲弊するのが当然であったわけで、それは議論をする方向、相手を間違えていたからです。それはもったいないよ、と私は青山通りさんに伝えられればそれでよかったし、私の見る限り常識的に伝わったはずです。
おかげで私は甲斐ない相手に付きまとわれてうっとうしいことこの上ないわけですが、それなりに慣れてはいるつもりです。私は普段の会議の場でも甲斐ない相手を追い払うことをあれやこれややっているわけで、おかげさまで一方では重宝がられ、一方ではうらまれているわけですが、私個人が恨みを買おうがどうしようが、議論がそれなりに建設的な方向に動けばそれで十分です。
■ 荒らし
警告にもかかわらずまたもトラックバックを送ってきましたね。
そういえば「荒らし」の項目を読むと、最初からのこの人の行為はそれに該当するわけで。
ま、そういうことです。
2005年07月20日
■ キーワード
はてなキーワードについての議論が喧しい。
なるべく静観していたかったのだが、あまりにも一方的なやり方をする人がいて、どうにも我慢がならず反応してしまう。
そもそもキーワードを整理しようという意図自体が私には「おせっかい」としか思えず、あまり共感できないのだが、問題提起としてわからないこともない。しかし問題提起はあくまで問題提起であって、それをきっかけにはてなユーザの間でさまざまな議論が巻き起こって、一定の方向性が出ればそれが理想ということであって、性急に結果を求めることではない。少なくともあるキーワードを削除することで不満に思うユーザがいるのであれば、一旦はペンディングにして何らかの合意が出来るのを待つ、というぐらいの余裕は必要ではないのか。それでは何も進まない、とは確かに思う。しかしどうしても進めなければならない必然性があるとも思えない。実際削除をしている人がどういう「被害」をこうむるのかがまったく説明されないのでは、理解のしようもない。
件のキーワードについては私は削除もありだと思っている。しかしもう少し時間をかけてもよいではないか。安倍なつみにかかわるキーワードなんだから、安倍なつみの言及を日常的にしているユーザがいろいろ考えて、「やっぱいらないよね」となればそれで問題なく削除されるだろう。
私は私でid:natsumi-crazyさんに「やっぱいらないんじゃない?」という問いかけをする用意はある。しかし今の削除のやり方にはまったく同意できない。
■ キーワード2
「お仕置き」なんちゃらというキーワードもいじったのだが、こちらはそのキーワードの編集者ではなく、ユーザに対するあからさまな侮蔑的表現が含まれていたので一応修正しておいたということです。
しかし不思議なのはそのキーワードの説明がそのような状態で残っているにもかかわらず、キーワードの必要性を主張されている方の誰もがその説明を修正せず、そのまま放置されていたことです。
まともに存続させる気がないのなら、自分たちで削除すればよいのでは?存続を主張される方の気持ちがよくわかりません。
2005年07月19日
■ 便りがないのが
またまた長い更新停止。
基本的にここの更新をするのは仕事がないとき。そういう意味ではあまり頻繁な更新は、私がまともに働いていない痕跡。逆に更新をしていないときは、仕事を抱えているときか、暑さで頭をやられているときか、その両方か。更新されていても、されていなくても、心配してね>なっち。
■ 新生モーニング娘。
安倍さんの出ていないCDを買ったかと思えば、安倍さんのいないライブDVDまで買うことになるとは。
モーニング娘。コンサートツアー2005 春~第六感 ヒット満開!~
- 出版社/メーカー: アップフロントワークス(ゼティマ)
- 発売日: 2005/07/06
- メディア: DVD
我が緩慢なるアイドル推し遍歴にこの期に及んで高橋愛が加わってしまって、金がかさんで困る。ぎりぎり20代でちょっとアクシデント的なところがあって推し始めた安倍なつみを見届ければそれで終わりだと思っていたのに。何でいまさら。
生まれ変わったモーニング娘。、なかなかよい。後藤真希卒業以来、ほぼ重なるようにして続いた卒業ラッシュが一段落ついて、なるほど、一連の卒業ラッシュは*この*モーニング娘。を作りたかったのか、と合点が行く。泥舟からの脱出などと揶揄された卒業ラッシュだったが、結果的に出来上がったモーニング娘。これはこれでなかなかのグループである。
今行われているハロコンで卒業メンバーがLOVEマシーンを歌ったということで、やはり卒業メンバーのほうがパフォーマンス的に云々という声も聞こえるが、私は見ていないのでなんともいえないが、しかし現娘。のLOVEマシーンだって捨てたものじゃないじゃないか、と思い直す。前にテレビ番組で見たときは「いまいちだな」と思ったが、ライブDVDに収録されているLOVEマシーンはよかった。もともとポテンシャルは十分に高くて、集まって練習する機会さえ十分取れれば、十分なパフォーマンスを発揮できるのだろう。
その意味ではハロモニで披露された新曲はいまいちだった。ソロの部分は悪くないのに、声が重なると途端に声がばらばらに聞こえる。きっと歌う機会を重ねればよくなっていくのだろう。
■ むらたさ〜ん、ごきっ?
FC限定で販売されたレビュー&コンサート「むらたさ〜ん、ごきっ?」、某所(ヤフオクではない)で入手。定価4,800円が新品で10,000円。足元を見られている。中古ではない、というので値段がさらに吊り上げられているはずなのだが、その新品、未開封であるというのがいっそう苛立ちを募らせる。見もせずに売り飛ばすのか。そのような小金儲けに組するのは間違っているのだが、記念すべき復帰コンサート、その記録を手元においておかないわけには行かない。うらむべきはこのような重要なDVDをFC限定で販売する事務所と、FCに入る根性(もろもろの事情で「根性」の問題なのだ)のない私自身である。
ちなみに件のDVD、思い入れが強すぎて、じっくり見なければならぬという強迫観念からいまだ未開封。
2005年07月05日
■ 彼女たちの進む道
ハロモニで新人久住さんがPV撮影で苦戦するのを見て高橋愛
なんか、私もこうだったなと思いながら見てたんですけど・・・
ちゃんとできるわけがないんですよ、初めてで。
でも、そこから頑張るのは久住なので、ちょっと頑張ってもらいたいです。
ちょっと前のハロモニでエレジーズの紹介時に
石川 > しゃべらなければ(エレガントなのに)
柴田 > しゃべらなければって。。。
高橋 > しゃべりますけど。。。
なんて微妙なぼけをかましていた人と同一人物とは思えない堂々たる語りっぷり。なるほどこの人は歌・踊りに関しては「プロ」なのだ、と改めて認識する。バラエティなどでボケをかます高橋さんに恋人がいることがわかると「萌え」度は減じる気がするが、この「プロ」の高橋さんに恋人がいるとかいないとかはまったく関係がない。アイドルではない活動の道が彼女に開かれんことを。
といっても「アイドル」を否定したいわけではない。単に高橋の志向するものは「アイドル」とはずれているなと感じるだけだ。
安倍なつみはずっとアイドルとしてやっていくのだと思う。彼女が一からやり直すといったとき、「みんなの前で歌いたい」といった。その思いが、秋の全国ツアーでもってほぼ完全な形で実現する。ファンとともに空気を作っていく場。そうした場が、昨年よりも多くの機会をもてたのだから、彼女はきちんと前進しているのだと思う。
矢口さんは、一から、どの方向に進んで行きたいのだろう。アイドルであることを裏切ったと表明して出直しを誓った矢口さんは、「バラドル」なんて本当にやりたいことなのだろうか。矢口さんには選択権はなかったのかもしれない。でもせめてファンは、二期タンポポ解体時のようなメッセージを発してもよいのではないか。テレビに出まくる矢口さんをひたすら肯定するだけのテキストにはなんとなく違和感を感じるのだ。
2005年07月02日
■ 独り言
蔑称をレッテルとして使い続ける奴なんてそいつの精神の荒廃を感じるだけのことで、それ以上でもそれ以下でもないと思うんだけれどね。まあ、そういう精神の荒廃した奴に「推さ」れる娘。メンバーのほうがよほど可哀想。確実にイメージを悪くしているわけで。まあ、安倍ヲタも同じことであるのだけれど。
って、矢口批判みたいなことを書いた後で説得力ないか。
2005年07月01日
■ 墓に入る
これまで書きかけて、結局きちんと触れずに逃げてきた話題。
なかなか整理がつかなかった。書くべきか、書かざるべきか。それもわからなかった。「感情」でしかないことならば書くまい、しかしそこに論理があるのであれば、書こう。
感情としては、なんとも割り切れぬ思いが残り続けた。矢口の、モーニング娘。を辞めた後の振る舞いに、だ。
その割り切れなさを表現することが、単に感情、ともすればアンチ感情、の撒き散らしに過ぎないのであれば、そんなのはそれこそチラシの裏にでも書いておけ、ということになる。私は私の作る言説空間を己の卑しき感情の肥溜めにするつもりはない。
いろいろな状況に対する感情を反復してみた。矢口が「22歳の私」をイベントで歌ったと聴いて、「よかった」と思った。来るハロコンで矢口が司会を務めるという。「何で?」と思った。矢口がテレビ番組にでまくっている。「何だ?」と思う。矢口が、安倍なつみのコンサートのゲストに出演するとしたら。「いいんじゃないか」。
今の矢口に対する感情をきちんと整理することは簡単ではない。ただやはりどうしても「それは違うんじゃないか」という感情がそれなりにまとまった論理として表現しうるのではないか、と思えてきた。
「矢口はこの一件でモーニング娘。(もちろん矢口もメンバーであった)の負った傷をともに引き受けようとしていない」。
私の矢口に対するいささか否定的なメッセージはこれである。以下、補足。
- 「傷」の責任として矢口を名指したいわけではない。ゆえにもちろん矢口がこの一件で謝罪をすべきであったなどと言いたいわけでも一切ない。
- 「ともに」の対象はあいまいだが、主に「モーニング娘。」の看板をさしているものと思っている。
一番きちんと説明しなければならないのは「引き受けようとしていない」、という言葉であろう。「引き受ける」とはどういうことか、それはやや長い説明を要する。
そもそも今回の「悲劇」(大げさに思えるかもしれないが、モーニング娘。の正史を書くとすればどうあってもリーダーの突然の脱退は否定的にしか書きようがない)の本質的な原因は、(アイドル)タレントのプライベートへの、「付き合っている人は本当にいないのか」という問いに代表されるストーカー的視線にある。一方で私は擁護したいのは、(モーニング娘。のごとき)アイドル集団にたいして、「特定の付き合っている人の存在などあって欲しくない」という感情である。それに私が共感するしないとは別に、アイドル文化の多くはそういう感情に支えられてきたことは確かなのである。
落しどころは明確にある。タレントとは表現者なのだから、要はプライベートな恋愛話など表現しなければよいのである。そしてこの「表現をしない」という行為は(アイドル)タレントに限らず、社会一般において十分尊重されるべきものであるはずだ。特に親しくもない相手に己の恋愛話をぶちまけることのほうがよほどおかしいのだ。
今回のことに限らず、いわゆる「スキャンダル」というのはこうしたいわば当たり前の社会的ルールを、タレントに向けられる一部のストーカー的欲望に応える形で暴力的に破壊したものに他ならない。それは端的に不当な行為なのだ。
矢口はその限りでは完全に「被害者」であった。彼女は傷を負い、モーニング娘。も傷を負った。もともとが不当な「暴露」に発したことであるのだから、それは徹底的に否定的な経験として表象されてしかるべきだった。そして実際、「周り」はそう表象しようとしていたのだ。
ナインティナインが「絡みづらい」と漏らし、島田紳介が矢口の自らの暴露話に「何を言い出すねん」と驚いて見せるとき、彼らは当たり前の社会規範に則って、矢口の経験を否定的なものとして受け止めようとしていたのだ。
矢口の一生懸命なのはわかる。否定的なままではバラエティ番組としてプラスにならない。何とかポジティブに捉え返そう。しかしそれはあまりに自分本位だ。傷を負ったのが矢口ひとりならばそれもかまわない(私はいささか「はしたない」と思うが、それだけだ)。しかし少なくとも写真を撮られたときには矢口はモーニング娘。の看板を背負ったリーダーだったのだ。
自分が原因の一端となって負った傷が生々しいうちに、自分だけさっさとそれを話しのネタにしてしまう。自分の失敗で組織に迷惑をかけて、職を辞し、別の職場でそのミスを肯定的にネタにする。ちょっと違うんじゃないか。
「リーダーとしての自分を裏切っていた」と矢口は言った。そう反省するのであれば、少なくとも最後ぐらいはリーダーとしての落し前はつけるべきではないのか。それは自らの受けた傷を傷として受け止め、その傷を負わせた暴力に抵抗あるいは少なくとも組しないことである。しかし矢口は「裏切っていた」と振り返った舌の根も乾かぬうちに「裏切り」を肯定し、リーダーであったことなど自身にはなかったものとして振舞っているのである。
私は矢口真里という人間そのものは嫌いではない。しかしモーニング娘。のリーダーとしての振る舞いを、少なくともこの一連の流れの中で見ることは出来なかった。3代目リーダー矢口真里という存在は、本人がそう望んでいるとしか受け取りようがないごとく、埋葬されるべき歴史になった。