重層的非決定?

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2005年07月01日

■ 墓に入る

これまで書きかけて、結局きちんと触れずに逃げてきた話題。

なかなか整理がつかなかった。書くべきか、書かざるべきか。それもわからなかった。「感情」でしかないことならば書くまい、しかしそこに論理があるのであれば、書こう。

感情としては、なんとも割り切れぬ思いが残り続けた。矢口の、モーニング娘。を辞めた後の振る舞いに、だ。

その割り切れなさを表現することが、単に感情、ともすればアンチ感情、の撒き散らしに過ぎないのであれば、そんなのはそれこそチラシの裏にでも書いておけ、ということになる。私は私の作る言説空間を己の卑しき感情の肥溜めにするつもりはない。

いろいろな状況に対する感情を反復してみた。矢口が「22歳の私」をイベントで歌ったと聴いて、「よかった」と思った。来るハロコンで矢口が司会を務めるという。「何で?」と思った。矢口がテレビ番組にでまくっている。「何だ?」と思う。矢口が、安倍なつみのコンサートのゲストに出演するとしたら。「いいんじゃないか」。

今の矢口に対する感情をきちんと整理することは簡単ではない。ただやはりどうしても「それは違うんじゃないか」という感情がそれなりにまとまった論理として表現しうるのではないか、と思えてきた。

「矢口はこの一件でモーニング娘。(もちろん矢口もメンバーであった)の負った傷をともに引き受けようとしていない」。

私の矢口に対するいささか否定的なメッセージはこれである。以下、補足。

  • 「傷」の責任として矢口を名指したいわけではない。ゆえにもちろん矢口がこの一件で謝罪をすべきであったなどと言いたいわけでも一切ない。
  • 「ともに」の対象はあいまいだが、主に「モーニング娘。」の看板をさしているものと思っている。

一番きちんと説明しなければならないのは「引き受けようとしていない」、という言葉であろう。「引き受ける」とはどういうことか、それはやや長い説明を要する。

そもそも今回の「悲劇」(大げさに思えるかもしれないが、モーニング娘。の正史を書くとすればどうあってもリーダーの突然の脱退は否定的にしか書きようがない)の本質的な原因は、(アイドル)タレントのプライベートへの、「付き合っている人は本当にいないのか」という問いに代表されるストーカー的視線にある。一方で私は擁護したいのは、(モーニング娘。のごとき)アイドル集団にたいして、「特定の付き合っている人の存在などあって欲しくない」という感情である。それに私が共感するしないとは別に、アイドル文化の多くはそういう感情に支えられてきたことは確かなのである。

落しどころは明確にある。タレントとは表現者なのだから、要はプライベートな恋愛話など表現しなければよいのである。そしてこの「表現をしない」という行為は(アイドル)タレントに限らず、社会一般において十分尊重されるべきものであるはずだ。特に親しくもない相手に己の恋愛話をぶちまけることのほうがよほどおかしいのだ。

今回のことに限らず、いわゆる「スキャンダル」というのはこうしたいわば当たり前の社会的ルールを、タレントに向けられる一部のストーカー的欲望に応える形で暴力的に破壊したものに他ならない。それは端的に不当な行為なのだ。

矢口はその限りでは完全に「被害者」であった。彼女は傷を負い、モーニング娘。も傷を負った。もともとが不当な「暴露」に発したことであるのだから、それは徹底的に否定的な経験として表象されてしかるべきだった。そして実際、「周り」はそう表象しようとしていたのだ。

ナインティナインが「絡みづらい」と漏らし、島田紳介が矢口の自らの暴露話に「何を言い出すねん」と驚いて見せるとき、彼らは当たり前の社会規範に則って、矢口の経験を否定的なものとして受け止めようとしていたのだ。

矢口の一生懸命なのはわかる。否定的なままではバラエティ番組としてプラスにならない。何とかポジティブに捉え返そう。しかしそれはあまりに自分本位だ。傷を負ったのが矢口ひとりならばそれもかまわない(私はいささか「はしたない」と思うが、それだけだ)。しかし少なくとも写真を撮られたときには矢口はモーニング娘。の看板を背負ったリーダーだったのだ。

自分が原因の一端となって負った傷が生々しいうちに、自分だけさっさとそれを話しのネタにしてしまう。自分の失敗で組織に迷惑をかけて、職を辞し、別の職場でそのミスを肯定的にネタにする。ちょっと違うんじゃないか。

「リーダーとしての自分を裏切っていた」と矢口は言った。そう反省するのであれば、少なくとも最後ぐらいはリーダーとしての落し前はつけるべきではないのか。それは自らの受けた傷を傷として受け止め、その傷を負わせた暴力に抵抗あるいは少なくとも組しないことである。しかし矢口は「裏切っていた」と振り返った舌の根も乾かぬうちに「裏切り」を肯定し、リーダーであったことなど自身にはなかったものとして振舞っているのである。

私は矢口真里という人間そのものは嫌いではない。しかしモーニング娘。のリーダーとしての振る舞いを、少なくともこの一連の流れの中で見ることは出来なかった。3代目リーダー矢口真里という存在は、本人がそう望んでいるとしか受け取りようがないごとく、埋葬されるべき歴史になった。

投稿者 althusser : 2005年07月01日 00:00

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