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2005年01月19日
■ 安倍なつみの言葉
いまさらながら蒸し返すのは安倍ヲタとして失格といわれればそうだと思う。しかし、私にとってあの一件は安倍なつみという人を捉え返す貴重な契機となった。私はだからあの問題に拘泥し続けるだろう。それは確かにやっていることはアンチと同じかもしれない。ただ私がアンチを軽蔑するのは、彼らがパラノイア気質の持ち主だからではない。そうではなくて、むしろ逆に、物事の表面しか見ずに、自らものを突き詰めて考えることを放棄している連中だから軽蔑の対象となるのだ。
私が安倍なつみという存在に惹かれ続けるのは、彼女の存在のある種の希薄さゆえだと思う。それは「弱々しい、だから守りたい」という類のものではない。そうではなくて、もっと言説的存在としての希薄さだ。その希薄さゆえに、たとえば松浦亜弥のように、存在から発するメッセージを持たず、逆に観客がさまざまなメッセージを存在から読み込もうとする。そしてその解釈に容易に染まる。まるでどんな色にでも染まりそうな、しかし染めても染めても常に色がつかないこの「純白」さ、どんな解釈も許しながら、しかし常にその本質を取り逃がす「神秘」性。
安倍なつみは己の言語を持たない。人の言葉の中に己を見出す。そうであればこそ、彼女の一人称はいまだ「なっち」なのだ。そして後輩メンが増えたころに「安倍さん」という一人称も加わる。一人称「なっち」から「安倍さん」への推移は彼女の成長ではない。周囲の呼び方の変化を反映したものに過ぎない。まるで幼児が手に取るものを一つ一つ口に含もうとするがごとく、安倍なつみは出会う言葉一つ一つを己の心と触れ合わす。言葉を持たないがゆえに言葉へのセンスが磨かれることもあるのだ。それは歌い手としてはむしろ望むべきことなのかもしれない。
少なくとも私はあの一件の前より、むしろ後のほうに、言葉の使い手としての安倍なつみに興味を持つようになった。思い返せばコンサートMCでのたどたどしい語りの中に見える彼女自身のもどかしさ、それは言葉を操ろうとするものが突き当たるもどかしさと同質のものだ。
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