重層的非決定?

« 「抑圧」 | メイン | NHK »

2005年01月10日

■ 世間なるもの

何が気に入らないって、結局判断の根拠が「自分」じゃなくて「世間体」だということだ。「私」が安倍さんのやったことが気に入らない、復帰はまだ早い、というのであればチケットを払い戻せばよいことだ。それが一番の意思表示になるだろう。それは安倍さんにとっても事務所にとってもとても痛いことのはずで、でもそれは己のやったことに対する正当な反応だから、受け止めるよりない。

しかし今度の復帰公演を巡る議論はそうではない。ファンの出迎え方をマスコミ、世間は見ている、そうしてファンが歓迎ムード一色で出迎えると結果的に安倍さんのためにならない。そういう意見が散見される。

あなたはどうなのよ、と聞きたくなる。

テレビとかじゃなくて、安倍さん名義の公演の話ですよ?安倍さんを見たくてお金を払う人たちが集まる場ですよ?そんな場でのファンの出迎え方に世間とかマスコミとか、何の関係があるというのか。ファンが安倍さんを甘やかせているととられかねない、などとのたまう。ファンなんだから「甘い」に決まっている。それが「ファン」の定義みたいなものだ。

安倍さんより歌がうまい人は五万といます。安倍さん程度の歌唱力でCDを買う人がいるのは安倍さんの歌唱への向上を妨げ、スポイルしてしまいます。

少なくとも「世間」は安倍さんのCDなんて買うやつには共感していない。別に安倍さんに限らない。もちろんハロプロにも限らない。世間とファンとのほとんど定義レベルの当たり前のずれだ。

要するにある事象にコミットしていない人間集団のことを「世間」というのだから、早い話当事者性を持たないのが「世間」なのだから、そんなものに何かの判断をゆだねるのは端的に間違っている。物事を判断するのは「世間」ではなくて、あなただ。あなたが安倍さんをいまだ許せない、というのなら仕方がない。私はこの問題にそこまで悪しき物があるとは思っていないし、少なくとも「世間」が安倍さんを糾弾できる資格もありはしない、と思っているが、それはおのおのの判断だ。ただ私なら、仮にこの期に及んで安倍さんの行為が許せない、と感じる価値観を持っていれば、いまだにファンであるという自己認識も持たないだろうし、そういうスタンスにも立たないだろう。ファンとして、安倍さんを教え導く、ファンとはそれほどにまで「偉い」ものだとは思わないので。

投稿者 althusser : 2005年01月10日 00:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL: