重層的非決定?

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2009年05月06日

■ 非批評的態度とは

自分はアンチではない、といいきる人間の厚顔さ。

否定的なことを書いてもいいのだ。しかしそのとき、「自分のやっていることはアンチ的行為かもしれない」という可能性を留保に置きさえもしない、他者にネガティブな評価をすれば、それはそのまま自分に返ってくる、それだけの覚悟すら持たずに、辛口だかなんだかの批評とやらを開陳してみせる、そんな厚顔さ。

そして最悪なのは、自分の中で既に結論が出ていること(誰某が好きではない)を反復するためにそのネタを探してきて反復すること、それをアンチ的言説といわずしてなんなのか。自分の実感にあわない「ネット投票」結果は信頼できないとわざわざ言及し、自分の実感にあう投票結果は信頼に足るいうとか。そういう連中がアカデミズム気取りで跋扈するこの界隈。


あと「アイドル」とか「ヲタ」とかいうタームを隠れ蓑にして個人の感想を語るのもどうかと思う。一度そういうのは使わないで徹底的に「私」を主語にして目の前のパフォーマンスについて語れば、また見えてくるものが違ってくるんじゃないのと思う。特に「ヲタ」を主語にして語られても、「ヲタ」概念が不明確なままで、結局言説責任主体が拡散しているだけにしか見えない。その感想は誰が語っているの?誰の感想?「アイドル」概念も同じ。自分の好みに合うものを無批判に「アイドル性が高い」とか評価しているだけじゃないかという可能性は考えてみるべきだと思う。

私の好みを語ってはならないといっているのではない。逆だ。私の好みを、私という限界、好みという限界をふまえた上で、一般的な言語として表現する作業、それこそが文化批評の出発点となるはずなのだ。


結局亜門「三文オペラ」のメッセージとして私が受け取ったのは、状況に「関わり」ながら、自らの「顔」を持たない存在(キティちゃんのお面をつけた人々)の不気味さ、ということかな。

ブログなどの語りに於いては、客観的な分析者とか「ヲタ」とかに隠れて、意図的に顔を隠しているケースもあれば、単に「ヲタ仲間」に埋没してしまって、その価値観の反復をするだけになってしまっているように見えるケースもある。

今一度、ものを観察・鑑賞するということ、そしてそれを語るということについて、もう少し突き詰めて考えてみたい。

投稿者 althusser : 2009年05月06日 00:59

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