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2006年05月31日
■ 発見の物語
多くの時間を取られていた仕事がようやく終わって、通常業務に戻る。昨年も同じ状況だったので、そのときの更新状況などを確認したくなって、一年前の記事をざっくり眺めた。
久住小春ちゃんがミラクルだなんだといって加入したのがこの頃だったのか。一年が経ち、確かに彼女は十分メンバーとしてなじんでいる。彼女一人を見れば、確実に成長しているはずだ。活躍の場も広げているようだ。しかし娘。全体において彼女の存在によって何かが劇的に変わったという印象は無い。娘。において変わったものがあるとすればそれはいなくなった者、いなくなる者たちの<存在>だ。
個人の成長が娘。の成長とは物語として結びつかなくなったのはいつからだろう。福田明日香が卒業した後、後藤真希の加入により、娘。は確実に変わった。石黒彩、市井紗耶香が卒業してもなお、4期の加入、成長とともに娘。もまた成長を続けた。しかしいつからか、娘。は「卒業」という引き算によってその変化を印づけられるようになっていた。そしてその引き算により生まれた空白を、いつの間にやらそこにいた「新メンバー」が主力メンバーとなって、その空白を埋めている。個別の成長の過程は確かに見ているのだが、それがどうにも娘。の成長の物語とつながらない。
一年前の己の記述に、高橋愛にはまりそうだ、などというのを見つけた。高橋愛のことは加入当初より確かに見てきた。私なりに注目もしてきたし、その成長ぶりも、テレビというメディアを通してでしかないが、ほぼつぶさに思い出すことができる。それなのに、今更ながら高橋愛を発見する。いつもおどおどしていた高橋愛が娘。の大黒柱をつとめている。彼女はいつの間にか、自信たっぷりに、毅然と娘。の中心にいた。私はそこにはもはや成長物語の痕跡を読み取ることができず、あたかも突然現れたかのごときその存在をそのときに「発見」したのだった。
今の娘。においては、「成長」の物語に感じられた、自分もその中にいる当事者であるかのごとき錯覚をする余地は大きく失われた。しかし「発見」には新鮮な驚きを伴う。今の主力メンバーである5期加入から5年近く経つが、なおまだ新鮮さを感じることができているのだ。
「引き算」にもそのような効用があるのだ、いなくなった者の後を埋めんと新たに光を当てられる者の「発見」という効果をもたらしうるのだ、という当たり前のことを改めて気づかされたのが昨年のこの時期だった。そうして、安倍なつみ卒業からの一連の「卒業ラッシュ」を、卒業メンバー視点からだけではなく、娘。視点から見て、プラスであったのだと理解したのだ。成長物語としては既に飽和状態であった2003年の娘。の状況からして、この転換には積極的な意味があったのだと。
今回の卒業は、これまでと違い、芸能界からしばらく姿を消す、という意味において、卒業メンバーファン視点からすれば積極的な意味を見いだすのは難しい。卒業メンバー個人にいかに積極的な想いがあったとしても、それを見守るファンは所詮メディアを通じての付き合いにすぎない。メディアから姿を消すことはどう考えてみても「別れ」を意味するより無い。
それでも今回の卒業が、娘。ファン視点からして、何か新たな発見を見いだす契機になりうるのだろうか。安倍なつみ卒業に始まる一連の卒業ラッシュを経て出来上がった今の10人体制を、娘。の一つの完成形だと思っていた私に更なる発見がもたらされるのだろうか。もしそれがなければ、今度こそ、娘。はただの斜陽だと認識してしまうことになるだろう。まだまだ「発見」の余地は残っているはずだ、と期待だか未練だかをたっぷり持って、今しばらく娘。を見守ることにしよう。
2006年05月18日
■ 電話待っています
なっちこと安倍なつみのコンサートのMCの内容を地上に舞い降りた天使さんのところで読む。imacとipodとネットにつなげるものを買ったが、そのネットにつなげるものなるものがwindows用でムキーとなったというお話。
そのネットにつなげるものなるものって何なのだ?iMacってイーサネットは当然標準で装備しているし、今時イーサネットが使えたら大概はネットにつなげないのだろうか?windows専用ルータなんてものも聞いたことないし。うーむ、よく分からない。
ということでせっかくパソコンを買ったのにネットにつなげない、というのはとてももったいないので、私が出張サポートします。もちろん無料で。出張費もサービス。ネットにつなげるものなるもののマック対応版の部品代もサービス。全部込みで0円。どうだ。
ということで連絡待ってます。
■ 客気質
6月10日15:30から大阪厚生年金会館ホールで開催される安倍なつみコンサートのチケット入手。2階の一般席。6000円。
いいんです。ヤフオク、嫌いだし。本来正規に正価で購入するのが正しいと思う。そう思って、しかし前売り券を手配するのが何せ面倒なので、当日券だよりなのだが、出るか出ないかもはっきりしない当日券を頼って動くのもいやなので、ついチケットショップにチケットが出ているのを見つけ、ふらふらと買ってしまった。目の前に目的のものがあれば、つい節を曲げるのも人間というものだ。
正直当日券ねらいで会場付近にうろついていると、明らかにおかしな格好をした人たちが大勢たむろしていて、ちょっと嫌なんだよね。同類と思われるのが嫌で。いや、同類なんだけれど。
10年以上前、某アイドル歌手のコンサートに行ったとき、平日の夜開催だったというのが大きいのだけれど、背広姿の人が多くいて、それ以外でも町中で普通にいる格好を皆がしていた。明らかにおかしな格好(「特攻隊」とかそんんなの)をしていたのは本当に一人だけで、明らかに入場者の中でも浮いていた。当時のその歌手の年齢と今の安倍なつみの年齢を比べれば今の安倍なつみの方が一年上。もう少しファンも成長してはくれないものだろうか、と思ったり。両者とも「歌」への思いが強かったり、またファンもそれを望んでいたり、コンサートも全体的にまったりしていたり、結構ファン気質とか似ているところが多いのに、なんで安倍なつみコンサートの観客の服装はあんな格好なのだろう?
2006年05月09日
■ 一日二GABA
別に「格上げ」したとかそんなのではなく。
ゴールデンウィーク中、自宅に引きこもって外出せず、全くGABAを消費しなかったので、それを取り戻すべく。
滞在中のホテル近くのコンビニで仕事帰りに二本買って帰る。一本は仕事後の疲れを癒すために。もう一本は翌朝出かけ前に。仕事先近くのコンビニには売っていないので、昼食時には飲めない。
正直、珈琲飲料自体に飽きが来ているのだが、それでも売っていればGABAを買う。買えば飲む。飲めばまた飽きが来る。本来全然循環していないのだが、サイクルは止まらない。
昼に買えないのが実は救いなのかも。
2006年05月04日
■ 青空の10人
前のエントリでやや迂回戦略でこの言葉に言及したが、思っていたよりこの言葉に対する批判も多かったりして、もう少しこの言葉に対する私のスタンスを書いておこうと思う。
基本的にこの言葉の存在に対する否定的な主張があるわけでは無いです。この言葉でいやされたり、前向きになれたりした人がいる、と言うのならこの言葉には価値があったのだと私は思う。はてなのキーワードに登録すること自体に批判的であったり、また登録された結果として紛糾した部分があったようだが、はてなのキーワードにおいては基本的にこの言葉を肯定的に使いたい人たちが運用すればよいものだと思うし、批判的な主張も併記すべきだ、というたぐいの話だとは思わない。登録が急ぎ過ぎだ、という議論もあるようだけれど、今「青空の10人」という言葉を気に入り、それを日記で使用している人たちが大勢いる状況において、それを捕捉してまとめて読みたい、という要望に応えるためには、現時点でのキーワード登録は十分妥当だと私は思う。
「黄金の9人」という言葉には先のエントリで書いたように私はあまり肯定的には見ていません。それはその頃の私たちの記憶を狭める方向で書き換えを促してしまう力を持っているように感じるからです。黄金の9人として「ザ☆ピ〜ス!」を歌ったメンバーの名前を連ねられるとそこには中澤裕子の名がない。しかし(狭義の)黄金期のモーニング娘。に本当に中澤裕子はいなかったのか。「不在」という形でその当時の私たち(そしてメンバー)の記憶の中にはしっかり「いた」のではなかったか。そういうことごとを捨象してしまう言葉であるが故に私は「黄金の9人」という言葉は評価できません。
「青空の10人」は、今、このモーニング娘。を指す言葉であるだけに、こうした言及範囲の切り捨てを伴うものではない。先のことは分かりませんが、先のことは先のこと。8期が加入したとき、この言葉が有害になる危険性を指摘する文章も見かけたが、それは今後の運用の問題。今この言葉に価値を感じ、今の文脈で運用することを妨げるものではない。
ただ私がこの言葉を好んで使うかと言うと、正直あんまりしっくりは来ないです。今、このモーニング娘。は今、このモーニング娘。でよいのであって、そこにことさらに名称を付けるというのが私にはピンと来ない。名称は外部から(すなわち*その時期*の後から)もう少し長いスパンに対してつけられた方が私はしっくり来るのです。名称を付けるというのはそこに時期的な区切りを見いだすということ、私は「レインボー7」をひとまとまりのものとして聞いているので、その収録曲の中で線を引かれても全然ピンとは来ないのです。「青空がいつまでも続くような未来であれ!」は今、このモーニング娘。の象徴となる曲だが、「大阪 恋の歌」はメンバーが違うからなんだとかいわれても、全然ピンと来ない。
もう一つ、これは完全に私の好みの問題でしょうが、「青空の10人」という「青空」という言葉の清々しさ、清廉さが何となくモーニング娘。を指す言葉としてピンと来ない。私にとってモーニング娘。とはもっと猥雑なものであるべきだ。その意味で「黄金」と言ういかがわしいネーミングはとてもらしかった。確かに「黄金」と呼ばれた頃に比べると今の娘。たちは「清廉」かもしれない、とは思う。それでもその中にある猥雑さのようなものを私は求めている(のでしょう)。
結局のところ、私にとって「青空」とは「清く正しく美しい」アイドル像を象徴するもののように思えて、それをネタとして消化するうちはともかく、それを真に求める風潮にはある種の危険性を感じる私には全く合わない言葉のようです。とりわけ今のハロプロファン界隈ではこうした「清く正しく美しい」ことを求める言説が溢れかえっているように感じられるだけに、私はこの言葉の存在を肯定した上で、言語使用のセンスの次元でNoと言いたいのです。
2006年05月03日
■ 時代名称
せっかく盛り上がっているところに水を差すかもしれない。
青空の10人というのが盛り上がっている。対比されているのは黄金の9人だという。
はて?黄金の9人という言い方がそれほどメジャーだったっけ?「黄金期」だとか「黄金時代」だとか、あるいはその時期を崇拝するファンを「黄金厨」だとかいうのはよく知っているが、「黄金の9人」という言い方はそれほど耳慣れなかったので、はて?と思った訳だ。
確かに黄金期というのは「ザ☆ピ〜ス!」を歌っていたときの衣装やそのときのメンバーの輝いた雰囲気から名付けられたものだ。そして「ザ☆ピ〜ス!」を歌っていたのは確かに9人だ。しかし「黄金期」はその当時流通していた名称ではなかったはず。
その前の曲「恋愛レボリューション21」で中澤裕子が卒業をし、ファンの混乱の後、しばらく時期をおいてリリースされた「ザ☆ピ〜ス!」は売り上げ的には前曲を大きく下回った。それはリーダー中澤裕子を喪失したという結果であったかもしれず、少しずつモーニング娘。自体が飽きられてき始めていた兆候だったのかもしれない。いずれにせよ、「ザ☆ピ〜ス!」自体の正否の評価は、その当時は定まってはいなかった。
その後「Mr.Moonlight〜愛のビッグバンド〜」、「そうだ!We’re ALIVE」が少しずつ売り上げを下げつつも、楽曲的にまとまりを持ったものだと評価が固まりだし(とりわけ「Do it!Now」との対比において)、三部作の第一作として「ザ☆ピ〜ス!」の評価も固まったように記憶している。そうして「Do it!Now」で後藤真希が卒業をし、少しずつ「国民的アイドルグループ」としての地位が揺らいでいく中、過去を懐かしみ、称揚する風潮が出てくる中で「黄金期」という呼び名が出てきたのではなかったか(初出を知っている人がいれば教えてほしい)。
そこで指示されている「黄金期」とは狭義には確かに「ザ☆ピ〜ス!」の衣装の色に象徴されたネーミングであるように、それを歌っていた9人時代のことを指している。しかしそのネーミングで多くのものが懐かしみ、称揚したのはそれだけではなかったように思う。むしろ「LOVEマシーン」の大ヒットの後、4期の加入を経て一層メンバーがバラエティに富んだ活躍をし、「国民的アイドルグループ」としての地位を維持し続けた時期全体を緩やかに指したものであったように思うのだ。さらに少し意地の悪いまとめ方をすれば、中澤裕子卒業後、次第に売り上げを低下させ続けるモーニング娘。の凋落期の始まりを「黄金」と言う華やかなネーミングを冠することで最大限の抵抗を行った、という見方もできる。つまり「黄金期」とはモーニング娘。のある安定した時期を指したネーミングではなく、その表現自体がきわめて揺らぎを持ったものであったのだ。
そうした幅を含んだ表現であった「黄金期」を「黄金の9人」と限定し、それを称揚することはどこかしらに歴史を狭め、モーニング娘。に関わるものたちの記憶をその方向で書き換えてしまうものであるように思われてならない。
2006年05月02日
■ 裏事情
「裏」を読むというのが嫌いだ。
何ごとにも裏と表があるという。そして私たちに見えている「表」で納得ができないことがあると「裏」の事情というやつがしゃしゃり出てきて、「表」を説明し、解釈してくれる。それで私たちは何事かを理解し、納得した気になる。
「裏」は裏なのだから、誰もその内容を確認することはできない。しかし「表」の背後に実在し、「表」を支えている何ものかなのだから、「妄想」とは区別される。「裏」の事情を推察する権利は誰にでもあり、しかしそれは妄想とは違い、事実のあり方を左右するかのごとく流通する。妄想と出自は変わらないはずなのに、語り手が「裏」だと言い張れば、事実に介入する権利を獲得できてしまう。「裏」は事実のあり方を決定するという意味において、事実の上位に立つ。
「裏」など存在しないのだ。もちろん私たちの知らない事実、事情というのはあるだろう。それは端的に私たちは知らないのであって、それについての語りはすべて妄想に他ならない。もちろん妄想大いに結構。文化は妄想に支えられてきたのだ。
妄想もまた事実の一断片を構成する。ただし妄想は「表」にある。それは「公式発表」などと並んで陳列されているのであって、言説の一部として事実を構成しているのだ。
■ もちろんこれは妄想だ
音楽評論家能地祐子さんのブログLess Than Zero?で紺野あさ美さんと小川麻琴さんの卒業が話題として取り上げられている。
モーニング娘。としての自分は、今、どれだけきちんと役割を果たせているのだろうか?昨年の『モーニング娘。×つんく♂2』でのインタビューで会った時、偶然にもふたりとも同じような悩みを語っていた。もっともっと頑張らないといけないと思い、どんなふうに頑張っていったらよいのかを模索しているような、そういう季節に差しかかっているんだなぁという印象を受けた。
特に小川さんの「語学留学」という理由付けが評判が悪く、「卒業」を選ぶ理由として弱い、とされている。いかにも語学留学とモーニング娘。の活動を天秤にかけて語学留学を選択した、というのはしっくりこない。そうではなく、モーニング娘。としての自身の活動のあり方に対する悩みが先にあったとすれば、両者を対等に天秤にかける必要は無い。彼女の心の中には圧倒的に「モーニング娘。」があったのだ、彼女にとって「モーニング娘。」だけが問題であって、その問題に答える結果として「語学留学」が出てきたのだ。
モーニング娘。への想いが薄いから、海外留学という別の道を選んだのだ、私はその解釈にはどうにも納得ができない。好きだから一緒にいる、好きじゃなくなったから別れる、それで割り切れるものではないはずだ。
彼女たちにとってモーニング娘。とは仲間のいる共同体という側面と、ライバルと常に争う競争社会という側面を備えたものであっただろう。競争社会なれば好きだから一緒にいる、という単純なものではなくなる。一方でそうして常に競争を意識し続けるのはあまりに過酷であるが故に、例えば「5期」という同期の絆を軸にした共同体的側面が押し出されることもある。しかし、ここからは完全に私の妄想だが、その「5期」という場が、ガキさんこと新垣里沙さんほどには二人にとって共同体的なものではなかったとしたら。高橋愛という存在が、同期の仲間であるだけでなく、常に目標とするべき対象になっていたとしたら。「5期」という仲間の中にいてなお、彼女たちは自分の「役割」を常に考えてしまうことになっていたのではなかったか。
二人はモーニング娘。が大好きで、その中でセンターポジションを占める高橋愛が輝いて見えたが故に、そのまばゆい場所から一歩距離を置きたくなったのではないだろうか。
もちろんこれは妄想だ。しかし妄想ついでにもう一つ断言しておこう。
「もし生まれ変わっても再びモーニング娘。になりたい」。
紺野あさ美さんと小川麻琴さん、二人とも間違いなく「Yes」と答えるはずだ。私の妄想だが、間違いない。
■ mourning musume.
恋はいつかは終わる。常にそのように覚悟をせざるを得ない恋しかしてこられなかった。だから逢瀬はいつもこれが最後かもしれない、という覚悟を伴っていた。おかげで最後の逢瀬の記憶は常にしっかりと胸に刻まれている。15年前も、5年前も、去年の記憶もまた。
後は、いつかどこかでばったり出会うことを妄想するのみ、だが、出会ったときにどれだけ胸を張って語れることがあるか、だと思う。そしてそれが今は甚だ心もとない。
互ひに知らぬ場處で「頑張つて」生きてゐることを信じて、なほかつそのやうに生きることを實行することがすべてだとおもふ。
それがすべてだが、なかなかできない。
2006年05月01日
■ 未来行きの切符
私たちは己の納得のできない物事に遭遇したとき、往々にして自身にとって受け入れ可能な物語をねつ造して、その物語を通じて事態を受け入れようとする。それは「私」の精神の安寧を保つためにはある種仕方の無いことだ。しかし、その物語がその事態に関わるその他の当事者の貶めを伴う可能性があるとすれば、私たちはその物語の採択にはことのほか注意を払わなければならない。
私たちは「振られた」のだ。そのことは容易には受け入れたくはないだろう。私たちとともに紡いできた世界を離れ、それとは全く別の世界に夢を見いだす、それは彼女たちを「応援」してきたものたちにはある種堪え難いものを含む。するとその事態を受け入れたくないものは物語をねつ造する。彼女たちが私たちを「振った」のではない、もっと別の力が彼女と私たちを引き裂いたのだ。
この物語は、振られた私たちに取って都合の良い、美しい悲劇だ。彼女たちの「心」は今も私たちとともにある。しかしその幸せな世界を何者かが破壊してしまった。
私はそのような物語を抱き続けても、それはそれでよいと思う。それが己の心の安寧に必要なものであって、それで誰も貶められないのであれば。いや、貶められているのが事務所である、というのなら、そのぐらいの悪者役は事務所は引き受けてもよかろう、とさえ思う。
しかし多くの場合、上記物語で真に貶められているのは事務所ではない。事務所がこの「卒業」劇を主導したとするとき、卒業させられた二人はいわば「リストラ」されたのだという物語を伴う。そしてその物語こそ、新たな夢を求めて次のステージへ進もうとする二人を最大限に貶めていることになるのだ。
「リストラ」、「戦力外通告」、そうしたことを今回の「卒業」劇の中ににおわせることが、モーニング娘。として私たちを楽しませてくれた二人と、そしてその二人に真に想いを載せた者をどれほど踏みにじるものであるか、それを考えてみるがよい。実際にそのような事態を疑うに足る十分な根拠があって、それを訴えるだけの覚悟があるのなら、それを主張するのもよかろう。それはあるいは二人の葬られた無念を明るみに出す作業につながるかもしれない。しかし今「リストラ」をにおわせているものは、真にそのような「無念」の存在を感じているのか。その可能性をにおわせることが、二人の想いとつながることがあると真に思っているのか。単に振られた自分の納得のいかなさを解消すべく、「リストラされた」という不名誉を逆に彼女たちに押し付けているだけではないのか。
私たちは振られたのだ。振られたものは未練がましく追いすがるものよかろう。きっぱり彼女たちの新たな夢を応援するのもよかろう。別の誰かに乗り換えるのもよかろう。しかし振った相手をことさらに貶める振る舞いだけは恥ずべき行為だ。
そもそも、事務所が彼女たちを喜んで手放した訳無いじゃないか。今のモーニング娘。は、5期加入時から数多くの「卒業」を経て、手塩をかけて作り上げたモーニング娘。のいわば完成品だ。一連の卒業ラッシュの後、ぱったりと変化することをやめ、メンバーのキャラが薄いなどといわれながらも、グループとしてのまとまりのよさを最大限に発揮した完成品だったのだ。初代5人の頃からつんくは10人体制を理想としてきた。それを見事に実現しているのが今のモーニング娘。なのだ。二人の卒業を認めることは事務所にとっても断腸の思いだったろう。しかしこの事務所の「去る者は追わず」の方針は前々から一貫している。今回もその流儀に沿って、無理に引き止めることはしなかったのだろう*1。
くだらない物語を紡いでいる暇があれば、5期がその存在感を発揮し始めた頃の曲、Do it! Nowでも聞いて、新たな夢を追いかけようとする二人の門出を祝おうではないか。
*1:そして私はその事務所の方針を基本的に支持している。