重層的非決定?

« もちろんこれは妄想だ | メイン | 時代名称 »

2006年05月02日

■ 裏事情

「裏」を読むというのが嫌いだ。

何ごとにも裏と表があるという。そして私たちに見えている「表」で納得ができないことがあると「裏」の事情というやつがしゃしゃり出てきて、「表」を説明し、解釈してくれる。それで私たちは何事かを理解し、納得した気になる。

「裏」は裏なのだから、誰もその内容を確認することはできない。しかし「表」の背後に実在し、「表」を支えている何ものかなのだから、「妄想」とは区別される。「裏」の事情を推察する権利は誰にでもあり、しかしそれは妄想とは違い、事実のあり方を左右するかのごとく流通する。妄想と出自は変わらないはずなのに、語り手が「裏」だと言い張れば、事実に介入する権利を獲得できてしまう。「裏」は事実のあり方を決定するという意味において、事実の上位に立つ。

「裏」など存在しないのだ。もちろん私たちの知らない事実、事情というのはあるだろう。それは端的に私たちは知らないのであって、それについての語りはすべて妄想に他ならない。もちろん妄想大いに結構。文化は妄想に支えられてきたのだ。

妄想もまた事実の一断片を構成する。ただし妄想は「表」にある。それは「公式発表」などと並んで陳列されているのであって、言説の一部として事実を構成しているのだ。

投稿者 althusser : 2006年05月02日 00:00

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL: