2006年05月04日
■ 青空の10人
前のエントリでやや迂回戦略でこの言葉に言及したが、思っていたよりこの言葉に対する批判も多かったりして、もう少しこの言葉に対する私のスタンスを書いておこうと思う。
基本的にこの言葉の存在に対する否定的な主張があるわけでは無いです。この言葉でいやされたり、前向きになれたりした人がいる、と言うのならこの言葉には価値があったのだと私は思う。はてなのキーワードに登録すること自体に批判的であったり、また登録された結果として紛糾した部分があったようだが、はてなのキーワードにおいては基本的にこの言葉を肯定的に使いたい人たちが運用すればよいものだと思うし、批判的な主張も併記すべきだ、というたぐいの話だとは思わない。登録が急ぎ過ぎだ、という議論もあるようだけれど、今「青空の10人」という言葉を気に入り、それを日記で使用している人たちが大勢いる状況において、それを捕捉してまとめて読みたい、という要望に応えるためには、現時点でのキーワード登録は十分妥当だと私は思う。
「黄金の9人」という言葉には先のエントリで書いたように私はあまり肯定的には見ていません。それはその頃の私たちの記憶を狭める方向で書き換えを促してしまう力を持っているように感じるからです。黄金の9人として「ザ☆ピ〜ス!」を歌ったメンバーの名前を連ねられるとそこには中澤裕子の名がない。しかし(狭義の)黄金期のモーニング娘。に本当に中澤裕子はいなかったのか。「不在」という形でその当時の私たち(そしてメンバー)の記憶の中にはしっかり「いた」のではなかったか。そういうことごとを捨象してしまう言葉であるが故に私は「黄金の9人」という言葉は評価できません。
「青空の10人」は、今、このモーニング娘。を指す言葉であるだけに、こうした言及範囲の切り捨てを伴うものではない。先のことは分かりませんが、先のことは先のこと。8期が加入したとき、この言葉が有害になる危険性を指摘する文章も見かけたが、それは今後の運用の問題。今この言葉に価値を感じ、今の文脈で運用することを妨げるものではない。
ただ私がこの言葉を好んで使うかと言うと、正直あんまりしっくりは来ないです。今、このモーニング娘。は今、このモーニング娘。でよいのであって、そこにことさらに名称を付けるというのが私にはピンと来ない。名称は外部から(すなわち*その時期*の後から)もう少し長いスパンに対してつけられた方が私はしっくり来るのです。名称を付けるというのはそこに時期的な区切りを見いだすということ、私は「レインボー7」をひとまとまりのものとして聞いているので、その収録曲の中で線を引かれても全然ピンとは来ないのです。「青空がいつまでも続くような未来であれ!」は今、このモーニング娘。の象徴となる曲だが、「大阪 恋の歌」はメンバーが違うからなんだとかいわれても、全然ピンと来ない。
もう一つ、これは完全に私の好みの問題でしょうが、「青空の10人」という「青空」という言葉の清々しさ、清廉さが何となくモーニング娘。を指す言葉としてピンと来ない。私にとってモーニング娘。とはもっと猥雑なものであるべきだ。その意味で「黄金」と言ういかがわしいネーミングはとてもらしかった。確かに「黄金」と呼ばれた頃に比べると今の娘。たちは「清廉」かもしれない、とは思う。それでもその中にある猥雑さのようなものを私は求めている(のでしょう)。
結局のところ、私にとって「青空」とは「清く正しく美しい」アイドル像を象徴するもののように思えて、それをネタとして消化するうちはともかく、それを真に求める風潮にはある種の危険性を感じる私には全く合わない言葉のようです。とりわけ今のハロプロファン界隈ではこうした「清く正しく美しい」ことを求める言説が溢れかえっているように感じられるだけに、私はこの言葉の存在を肯定した上で、言語使用のセンスの次元でNoと言いたいのです。
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