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2006年05月01日
■ 未来行きの切符
私たちは己の納得のできない物事に遭遇したとき、往々にして自身にとって受け入れ可能な物語をねつ造して、その物語を通じて事態を受け入れようとする。それは「私」の精神の安寧を保つためにはある種仕方の無いことだ。しかし、その物語がその事態に関わるその他の当事者の貶めを伴う可能性があるとすれば、私たちはその物語の採択にはことのほか注意を払わなければならない。
私たちは「振られた」のだ。そのことは容易には受け入れたくはないだろう。私たちとともに紡いできた世界を離れ、それとは全く別の世界に夢を見いだす、それは彼女たちを「応援」してきたものたちにはある種堪え難いものを含む。するとその事態を受け入れたくないものは物語をねつ造する。彼女たちが私たちを「振った」のではない、もっと別の力が彼女と私たちを引き裂いたのだ。
この物語は、振られた私たちに取って都合の良い、美しい悲劇だ。彼女たちの「心」は今も私たちとともにある。しかしその幸せな世界を何者かが破壊してしまった。
私はそのような物語を抱き続けても、それはそれでよいと思う。それが己の心の安寧に必要なものであって、それで誰も貶められないのであれば。いや、貶められているのが事務所である、というのなら、そのぐらいの悪者役は事務所は引き受けてもよかろう、とさえ思う。
しかし多くの場合、上記物語で真に貶められているのは事務所ではない。事務所がこの「卒業」劇を主導したとするとき、卒業させられた二人はいわば「リストラ」されたのだという物語を伴う。そしてその物語こそ、新たな夢を求めて次のステージへ進もうとする二人を最大限に貶めていることになるのだ。
「リストラ」、「戦力外通告」、そうしたことを今回の「卒業」劇の中ににおわせることが、モーニング娘。として私たちを楽しませてくれた二人と、そしてその二人に真に想いを載せた者をどれほど踏みにじるものであるか、それを考えてみるがよい。実際にそのような事態を疑うに足る十分な根拠があって、それを訴えるだけの覚悟があるのなら、それを主張するのもよかろう。それはあるいは二人の葬られた無念を明るみに出す作業につながるかもしれない。しかし今「リストラ」をにおわせているものは、真にそのような「無念」の存在を感じているのか。その可能性をにおわせることが、二人の想いとつながることがあると真に思っているのか。単に振られた自分の納得のいかなさを解消すべく、「リストラされた」という不名誉を逆に彼女たちに押し付けているだけではないのか。
私たちは振られたのだ。振られたものは未練がましく追いすがるものよかろう。きっぱり彼女たちの新たな夢を応援するのもよかろう。別の誰かに乗り換えるのもよかろう。しかし振った相手をことさらに貶める振る舞いだけは恥ずべき行為だ。
そもそも、事務所が彼女たちを喜んで手放した訳無いじゃないか。今のモーニング娘。は、5期加入時から数多くの「卒業」を経て、手塩をかけて作り上げたモーニング娘。のいわば完成品だ。一連の卒業ラッシュの後、ぱったりと変化することをやめ、メンバーのキャラが薄いなどといわれながらも、グループとしてのまとまりのよさを最大限に発揮した完成品だったのだ。初代5人の頃からつんくは10人体制を理想としてきた。それを見事に実現しているのが今のモーニング娘。なのだ。二人の卒業を認めることは事務所にとっても断腸の思いだったろう。しかしこの事務所の「去る者は追わず」の方針は前々から一貫している。今回もその流儀に沿って、無理に引き止めることはしなかったのだろう*1。
くだらない物語を紡いでいる暇があれば、5期がその存在感を発揮し始めた頃の曲、Do it! Nowでも聞いて、新たな夢を追いかけようとする二人の門出を祝おうではないか。
*1:そして私はその事務所の方針を基本的に支持している。
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