重層的非決定?

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2006年04月24日

■ 買えない

非常にどうでもよい話かも知れませんが、

GABAが近所のコンビニで売っていません。というか売り切れました。量と値段のバランスからして割高だし、そんなに売れるものでもない気がするけれど。入荷量が少なかったのだろうか。それとも私が飲み過ぎ?まさか、ね。

一日一GABAが出来なくなるかも。

■ 微妙だよ

なっちこと安倍なつみコンサートで安倍さんとゲストの飯田圭織さんとの絡みが「微妙」だというレポートを読む。そしてファンの反応も。

その「微妙」さが何となく理解できてしまうのはなんたることか。

2006年04月23日

■ おとめちっく

安倍なつみコンサートが始まったらしい、けれども私は全く時間がとれない。大阪に来る頃には暇も出来るだろう、気持ちに余裕がでたときに前売り券を押さえるか、いつものように当日券頼みで行くか、何とか参加はする予定。

■ 一日一GABA

題名の通り。

毎日飲みたい、と思うほどの味ではないが、毎日飲むのが苦痛という味でもない。300ml(かな?)で150円というのは少し高めだが、ありがたいアミノ酸が入っていると信じればそれはそれなり。

といっても一日三本飲んだときには少し飽きが来そうになった。今は一日一本程度に抑えている。

■ 歌を聴く

あまりにも更新頻度が下がりすぎている。まあ、今は一年で一番忙しいときだから、仕方ない。

シングル5「スイートホリック」

シングル5「スイートホリック」

今日購入、だけれどもまだ未開封。

最近映像関連への興味が薄れてきている。時間がないと音だけを聞いて、画面は他のものを見ていたい、というのもあるし、安倍なつみに関しては「歌手」として今納得の出来る作品を提示してもらっている、というのもある。

「スイートホリック」を買うついでに松浦亜弥のスタジオライブのDVDも見かけたので買おうかと思ったけれど、ジャケットの写真もまたよかったのだけれど、やはり同じ理由で買わなかった。

安倍なつみ、松浦亜弥、後藤真希、最近皆売上げはどうあれ、作品としていいものを作れている。いい作品が出てきだした頃には売上げは芳しからず、というのはハロプロに限らずよくあることだ。

新しく登場するものを追いかけ、次から次へと対象を変えるのもそれはそれでよかろう、しかしずっと特定の対象を追うものだけが鑑賞できる作品もある、それでよいのだ。

2006年04月12日

■ スイートホリック

新年度が始まってストレスの多い日を送っている今日この頃。連日睡眠時間4時間とか、あり得ないし。GABAでストレス解消しますか。

それでも仕事の合間に買ってきたべさ。

スイートホリック

スイートホリック

買ってきたのは火曜日だけれど諸々でとても聴ける状況じゃなくて、今聴いている。表題曲はすでに別所で聴いていたけれど、カップリングを聴くのは当然初めて。そしてこのカップリングの「I'm in Love」がすばらしい。このところ安倍さんのシングルはカップリングに良曲がおおい。表題曲に比べるとマイナー調で少し地味だけれど、情感のこもった曲がきている。

「2nd〜染みわたる想い〜」、Gyaoでの「ウソつきあんた」「好きすぎて、バカみたい」に引き続いて安倍なつみ関連の曲が我が愛ちゅんもといiTunesに入る。いつの間にか安倍麻美名義の曲数を抜いていた。だから何?と聞かれても困るが。

落ちもひねりも何もなし。ただの購入記念更新。

■ 妄想の愛

劇団ひとりの短編小説集「陰日向に咲く」所収の「拝啓、僕のアイドル様」だけを読んだのだが、最初はその妄想の世界に非常に共感して読めたのだが、最後の落ちにがっかりした。あるいは私が誤読しているのだろうか、と思ってほかのところも流し読んでみたが、そこまでの誤読を誘うほどトリッキーな小説でもなさそうだった。

ネタバレで書くけれど、なぜ妄想の世界をそこで完結させなかったのだろうか。妄想の世界を中途半端な「現実」と接続してしまった瞬間、妄想はもろくも現実の前に敗れ去る。せっかくの「愛の妄想力」を自ら無効化してしまった。最後の落ちも妄想だったのだ、と言うのならまだ分かるが、それでも妄想は過去に逃げてはいけない。妄想は常に未来に開かれていなければならない。

2006年04月05日

■ Sprechchor

加護ちゃんこと加護亜依は「女の子」だ。ちなみに辻ちゃんこと辻希美は「男の子」なのだが、それはさておき。

煙草を吸った加護ちゃんを「意外だ」と人はいう。あんなに子どもっぽい加護ちゃんが煙草を吸うなんて、と訳知り顔にそういう。加護亜依を巡る認識に本質的な断絶が生まれたかのごとく述べる。そしてこれまでの活動はできないだろうなどという論評を嬉しそうにしてみせる。他者の不幸も含めて事態を大仰に扱いたい卑しむべきお祭り好きの所業だ。

確かに「世間」は「意外」だというかもしれない。加護ちゃんが何歳かも知らないような「世間」は。しかし「意外だ」などという文章をわざわざものす御仁は「世間」ではない。

実際、意外だ、彼女にかけられていた魔法が解けてしまった、などと大仰に彼女にむけられる視線の断絶を(表面的には悲劇として、私からすればさもうれしそうに)述べたブログサイトがあったが、その書き手は「ハロプロファン」であった。

別に私は彼女が煙草を吸っているだろうと思っていた、という訳ではない。そういう意味では「意外」ではあったかもしれない。しかし問題はそこからだ。吸っていたということが明らかになってしまった状況において、それで彼女を見る見方が変わってしまうものか、ということだ。

「女の子」なら背伸びもしてみせるだろう。そのことの善悪はどうあれ、そうした心性それ自体は「可愛い」ものだし、加護亜依という人間を見る目をかえなければならないほどのものでもあるまい。

表面的な一瞬一瞬の判断しかしない「世間」は意外だというだろう。それ自体はなんら不思議なことではない。しかし一瞬一瞬の判断しかしない世間なれば、その「意外」さもまた瞬時のものでしかない。瞬時のものの見方に認識の断絶など無関係である。

そして認識の一貫性を保持しうる立場にいるハロプロファンなれば、加護ちゃんが前も今も変わらず、好奇心いっぱいの、いたずら好きで、少し寂しがりやの甘えん坊で、笑顔が可愛く、歌が大好きな女の子であることを知っているはずなのだ。

■ 安倍なつみと高橋愛II

後はどうでもいい「萌え」話。

安倍さんは「女の子」だ。それに対して高橋さんは、前にも書いたことがあるが、「男の子」なのだ。

安倍さんは、どうでもいいことも含めて全部しゃべろうとするなど、お父さんに甘える女の子。高橋さんは自分に興味のあることしか見ないし、話さない男の子。

どちらも「大人の女性」とは違った指向性を持っている(本人の指向性も、ファンの指向性も含めて)。「女/男性」性に対する「中性」性。ちなみに男っぽい魅力を持った女性は同時に女性的魅力を持っているものだ。逆に「中性」性とはその両者の欠如を示している。二人とも充満ではなく、欠如を魅力の支えにおいているところは同じだ。そしてまた欠如は言葉を引き寄せる。二人のファンがハロプロファンの間でも「語りたがり」が多いというのもむべなるかな。

■ 安倍なつみと高橋愛I

密かにマカーになりながら、未だにWindowsを手放せない主因たるGyaoのハロプロアワー。最新分は司会がなっちこと安倍なつみでゲストが裕ちゃんこと中澤裕子。これはまた最高の組み合わせがきたものだ。

話の内容は新メンバー(もちろん保田圭、矢口真里、市井紗耶香のことだ。なんだか「先の戦争」が応仁の乱を指す京都人みたいだ)加入時のことから今の活動について、結婚についての考え方など二人のファンにとってはたまらない内容。なんとなく「かわいい系」というキャラからして結婚願望が強くかつ結婚後は仕事を辞めると言ってもおかしくはない安倍さんが全く違う志向を持っていたことを再認する。彼女にとって世間一般的な「女の幸せ」などよりもはるかに歌を通じた「表現者」でいることが重要なのだ。へらへらかわいいキャラをやっているようで、そこの想いの強さ、それが安倍なつみの魅力を支えている。

それにしても安倍さん、相手によって態度が変わり過ぎ。画面から隠しようも無いほど、安倍さんにとっての好感度が

中澤裕子>里田まい>高橋愛

であることがにじみ出ている。中澤さんのことが好きで、一緒にいるのが楽しくて仕方が無い、というのはよいとして、里田さんと高橋さんとの「差」はちょっと気になる。高橋さんゲストの回は安倍さんを「子ども」かつ田舎者扱いした高橋さんが「失礼」だということになっているようだが、例えば亀井さんが同じことを言ったら安倍さんの返し方はまた全く違ってただろうというのが容易に想像できる訳で、本来ネタとして受け流すか、盛り上げるかするべきところで大まじめに「あなた失礼ね〜」などと反応してどうする、と。高橋さんも同じ先輩メンバーと言っても例えば中澤さん相手のときとは明らかに違った感じでどこかしら緊張しているのが伺える(ちなみに彼女は緊張すると少し発声やら発言やらが子どもっぽくなる)。私個人としては、ハロプロメンバーの関係を見るのは殺伐とした部分も含めて面白いので、これはこれで楽しいのだが、それにしてもこの二人の関係の微妙さは不思議だ。

おそらく二人は似すぎているのだ。歌というものへの想いの深さもそうだし、他人からはマイペースと見られるなどといった性格的な部分も似ている。しかも本人たちの主観では、おそらく二人とも全然マイペースなんかではなくて、いろいろなことに気を使いすぎているぐらいに気を使っている、というところも。

ちなみに番組では安倍さんは高橋さんから「マイペースですよね」と向けられて、それを断固拒絶していたが、逆に安倍さんからの「マイペース」という評価を受け入れているかに見える高橋さんだって、人からの評価をとりあえず受け入れる、というところで既に十分に相手に気を使った結果なのであって、高橋さんのマイペースではない部分が出たところなのだ。

確かに二人とも「マイペース」と見られる属性を備えている。表面的にはどうあれ、本質的な部分で己を曲げることは絶対にない、そうした頑固さが根底にある。人の話を聞かない、と二人とも評されるが、おそらく聴いていないというよりは聴いたところでその説を取り入れるか否かはあくまで己の判断次第だ、ということだ。ただ違うとすれば、安倍さんはその己の信念を自覚的に運用しているのに対して、高橋さんは自分自身の中にそうした頑固なまでの信念が根付いていることにいささか無自覚である、ということだろう。

安倍さんはバラエティなどで「一人ではしゃいで一番楽しんでいる」と評されたりする。しかしそれは安倍さんのプロとしての信念の賜物だ。バラエティでは自分自身が楽しむ、それこそがバラエティの出演者の仕事だ、安倍さんはおそらくそのように意識していて、一人でもはしゃぎ、楽しむ。それはプロとしての姿勢を見せたものであって、マイペースさではない、と安倍さんは認識している(のだろう)。

一方高橋さんは己のプロ意識を自身で運用するには至っていない。本来持っている高いプロ意識を運用できない、というのは要するにプロ意識のポータビリティが低い、ということだ。安倍さんが自分が関わるあらゆる分野で己のプロ意識を出そうとできる(結果が伴っているかどうかは無関係)のに対して、高橋さんは出す場面と出さない場面を持つことになる。それは「餅は餅屋」的姿勢につながる。結果安倍さんのように自分が関わる限りはすべてにおいて全力投球をするのも状況に「気を使った」結果ならば、高橋さんのように自分が苦手な分野では自分は表に出ず、他の人に譲ろう、とする態度もまた状況に「気を使った」結果なのだ。そして二人とも確かに状況に気を使いながら、己の信念を貫く。

安倍なつみと高橋愛。二人は明らかに「噛み合ない」。しかしそれは二人の、現れ方は違えど本質的には同質の、プロ意識のぶつかり合いの結果なのであろう。これはとてもスリリングなぶつかり合いだ。