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2006年04月05日
■ Sprechchor
加護ちゃんこと加護亜依は「女の子」だ。ちなみに辻ちゃんこと辻希美は「男の子」なのだが、それはさておき。
煙草を吸った加護ちゃんを「意外だ」と人はいう。あんなに子どもっぽい加護ちゃんが煙草を吸うなんて、と訳知り顔にそういう。加護亜依を巡る認識に本質的な断絶が生まれたかのごとく述べる。そしてこれまでの活動はできないだろうなどという論評を嬉しそうにしてみせる。他者の不幸も含めて事態を大仰に扱いたい卑しむべきお祭り好きの所業だ。
確かに「世間」は「意外」だというかもしれない。加護ちゃんが何歳かも知らないような「世間」は。しかし「意外だ」などという文章をわざわざものす御仁は「世間」ではない。
実際、意外だ、彼女にかけられていた魔法が解けてしまった、などと大仰に彼女にむけられる視線の断絶を(表面的には悲劇として、私からすればさもうれしそうに)述べたブログサイトがあったが、その書き手は「ハロプロファン」であった。
別に私は彼女が煙草を吸っているだろうと思っていた、という訳ではない。そういう意味では「意外」ではあったかもしれない。しかし問題はそこからだ。吸っていたということが明らかになってしまった状況において、それで彼女を見る見方が変わってしまうものか、ということだ。
「女の子」なら背伸びもしてみせるだろう。そのことの善悪はどうあれ、そうした心性それ自体は「可愛い」ものだし、加護亜依という人間を見る目をかえなければならないほどのものでもあるまい。
表面的な一瞬一瞬の判断しかしない「世間」は意外だというだろう。それ自体はなんら不思議なことではない。しかし一瞬一瞬の判断しかしない世間なれば、その「意外」さもまた瞬時のものでしかない。瞬時のものの見方に認識の断絶など無関係である。
そして認識の一貫性を保持しうる立場にいるハロプロファンなれば、加護ちゃんが前も今も変わらず、好奇心いっぱいの、いたずら好きで、少し寂しがりやの甘えん坊で、笑顔が可愛く、歌が大好きな女の子であることを知っているはずなのだ。
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