重層的非決定?

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2010年02月21日

■ ゴールデンスランバー(ネタバレあり)

今日は「ゴールデンスランバー」を見に行った。堺雅人と竹内結子が出ている映画を見ないわけにはいかない。

出演者はみなよかった。ソニンも出ていた。みなで緊迫感あるストーリーを支えつつ、ユーモアもうまく効かせて、最後まで楽しませてもらった。

しかしストーリーは果たしてどうだったのか?有り体に言えば結末。私はあの結末は無責任、ないしは手抜き・無策であると感じる。

冒頭のシーンと最後のシーンとの結びつけとそこで描かれていたものはよいと思う。そこには日常の平凡な生活の中に秘められた「つながり」の持つ価値が描かれている。そして制作サイドが描きたかったのはまさにそれだろう。

しかしそのために払った犠牲があまりにも大きすぎた。国家権力による様々な陰謀、それに踏みにじられ、翻弄される多くの人々、そうした大がかりな舞台装置を用意したにもかかわらず、その「事件」自体は何ら「解決」されず、ただ踏みにじられた人のささやかな「つながり」が称揚される。事件の中で表出された「つながり」の重要性を描きたかったのだ、といわれても、事件によって払われた犠牲の大きさに見合っているとは思えない。

べつに大仰な舞台装置の中でささやかな事柄を浮かび上がらせてはならないといっているのではない。ただそうするならよりいっそう元々の「事件」はそれ自体として完結させなければならない。事件による負の影響が強烈に残ったままの状況でささやかなる価値を描かれても、ノイズが大きすぎるのだ。

事件自体に何らかの決着をつける。描いた事件自体にメッセージがないのであれば、やはりそれは普通に「勧善懲悪」に納めるべきなのだ。悪が栄えてお仕舞いなどというだけのストーリーは作品として成り立ちがたい。それならば「悪は滅びる」という通俗的でくだらないメッセージでもあった方がまだましというものだ。

それでは勧善懲悪ではないストーリーは本来いかにして価値を持つのか。それは受け手に何かを考えさせることだ。善悪の線引きを揺らがせるというのもあるだろう。あるいは社会のある現実をシビアに突きつける、というのもあるだろう。いずれにしても受け手に安直なカタルシスを感じさせず、問題意識を提示する。

しかし本作品はそうした意味は全くない。舞台装置が大がかりすぎて荒唐無稽であり、現代日本のあり方に事件自体が何らかの警鐘を鳴らしているとは見えない。しかも悪はあくまで悪として描かれている。なのに悪が栄え、虐げられた人が平凡な日常を送っているシーンで終わる。

最後のシーンはささやかな日常のやりとりの中に潜んだ大学時代のつながりから何ら揺るがぬ信頼の強さが描かれているが、しかし用意されたストーリー、舞台装置からすれば登場人物はもっと別の大きな思いを抱え続けていなければならない。もちろんそれは制作サイドが描きたかったものとは別のものなのだろう。しかしそれはストーリーの中に厳然とのこり続けてしまっている。「払われた犠牲があまりにも大きい」とはつまりそういうことだ。「事件」の結末を放り出したために、事件の影響が不要なシーンにまで浸食してしまって、最後のシーンを損なってしまっているのだ。

投稿者 althusser : 2010年02月21日 00:16

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