« THE QUIZ SHOW | メイン | The Japan Times »
2009年03月14日
■ 批評もどき
「外圧」があると、言説に微妙に乱れが生じて、これはこれで面白い。
モーニング娘。の「現状」を語るに際して、先日はモーニング娘。ファンにおいて、「おニャン子クラブ」への態度の違いについて話題にしたけれども、もうひとつ、どの時期のモーニング娘。が好きか、あるいはいつモーニング娘。にはまったか、というものもあるように思う。
最近特に私が違和感を感じるのが、いわゆる「黄金期」(広義には後藤真希加入から卒業までぐらい)を至上のものとする人たちの最近の言説。「勢い」を感じられるものこそ素晴らしい、今勢いがあるのはAKB48であり、それに比べてモーニング娘。は「負けて」おり、駄目だ、というようなもの。
「勢いがあるから素晴らしい」という価値観が私には全く理解も共感も出来ない。それって勝ち馬に乗りたいってこと?順序が逆だろうと思う。自分がよいと思うものが広く多くの人に支持されている、というのは嬉しいことだ。メンバーたちだって多くの人々に支持される方が嬉しかろう。でもそれを「支持されている」から価値があるのだ、という風にいってしまうと、この人にとって「文化」って何なのだろうと思ってしまう。
ちなみに私が好きなモーニング娘。は、例えば「真夏の光線」から「セカンドモーニング」の頃。鈴木亜美の勢いに完全に「負けて」いた頃。ボーカルとコーラスが美しく混ざり合い、質の高い楽曲が提供されていた頃。「限界」「解散」がささやかれ、メンバーにはとても大変だっただろうこの頃が、しかし私はたぶん「過去の」モーニング娘。としては一番好きだった(「今の」モーニング娘。はまた別)。
もちろん「勢い」を単に発表している楽曲などの作品の内部で語るのならば、それはそれで十分理解も共感も出来るはずだし、そういう語りもあるだろうけれども、ここ数日私がたまたま読んだのがそういうものではなかったということ。ただそういう(私からすると)質の低い語りがなんとなく主流言説になりそうな気がした、ということでちょっと釘を刺したくなった。
そもそも文化批評とは鑑賞者の主観を一般的な言語で語るものであって、チャートだ何だといった「客観的」な数字は批評の外部にあるものだ。それこそマーケティング分析みたいなのをやりたいのなら、そっちのほうが大事だろうけれども。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://macmini/cgi-bin/blog/althusser-tb.cgi/1035